はじめに
世界各地に環境問題の現場を訪ねる﹁地球環境ウォッチャー﹂をはじめてから、四〇年余が過ぎた。 この間、新聞記者、国連機関職員、大学研究者、外交官と職を変えたが、一貫して地球の環境の現状 を追ってきた。これまで、約一三〇...
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はじめに
世界各地に環境問題の現場を訪ねる﹁地球環境ウォッチャー﹂をはじめてから、四〇年余が過ぎた。 この間、新聞記者、国連機関職員、大学研究者、外交官と職を変えたが、一貫して地球の環境の現状 を追ってきた。これまで、約一三〇ヵ国で調査したことになる。
﹁手がつけられないほどに人間が暴走している﹂ということに尽き その感想をひとことでいえば、 る。この四〇年間︵一九六五∼二〇〇五年︶の統計をみると、人口は一・九倍に増加したのに対して、
世界総生産は四・三倍、世界貿易額は四五倍、エネルギー消費量は二・五倍にもなった。その一方で、 漁獲量は一・七倍、丸太生産量は一・四倍と人口増加を下回っている。
人間活動の拡大はグローバル化を加速し、さまざまな脅威が国境を越えて急激に広がっている。本 書は、その﹁暴走﹂の現実を追ったものである。現在焦点となっている地球温暖化だけでなく、 ﹁発
展途上地域の人口急増による先進地域への大量移住﹂﹁自然破壊による災害の巨大化﹂ ﹁発展途上地域
の経済拡大による越境汚染の増大﹂﹁新たな感染症の出現と既存感染症の再燃﹂﹁天然資源の違法輸出
私たちはこれまで、化石燃料や鉱物資源などの﹁非再生資源﹂が枯渇する、という不安を抱きつづ
入の急増﹂﹁化学物質の人体への蓄積﹂⋮⋮といったさまざまな危機がここにある。
i
けてきた。一九七二年に出版され当時の世界に衝撃を与えた﹃成長の限界﹄には、石油、天然ガス、
銀、 銅、 水 銀 な ど の﹁ 非 再 生 資 源 ﹂ が、 近 い 将 来 に 枯 渇 す る こ と を 警 告 し て い る。 あ れ か ら 三 五 年
たって、石油埋蔵量をめぐる憶測以外に、現時点で枯渇が問題にされている地下資源はない。
代わって、地球の抱える緊急の問題は、森林、水産、土壌、水など﹃成長の限界﹄では問題にもさ れなかった﹁再生可能資源﹂の急激な悪化である。これらの資源は、賢明に利用しさえすれば、枯渇 させずに永久に利用できるはずだ。
それが、過去三〇∼四〇年間のあまりに性急な収奪の前に再生不可能となり、どれをとっても崩壊 寸前である。漁獲量や丸太生産量が低迷している理由でもある。この行きつく先は食糧生産の崩壊で
あり、自然災害の多発である。すでに、環境悪化で存立さえ危うくなっている国もある。
天然資源の争奪戦は、いよいよ激しさを加えている。石油、稀少鉱物、ダイヤモンドなどをめぐっ て、これまでも各地で内戦や隣国同士の戦争が起きてきた。だが、いまやこうした﹁非再生資源﹂を
奪い合う抗争は、木材、水資源、水産物、耕作地といった﹁再生可能資源﹂に及んでいる。しかも、
地球温暖化に伴う気候の変動はこうした天然資源に致命的な影響を及ぼしつつある。
二〇〇五年に発表された国連の﹁ミレニアム生態系アセスメント﹂は、この現実をリアルに伝えて いる。地球の生態系の現状を評価するとともに、五〇年後の生態系を予測したものだ。アナン前国連
調査対象となった二四の生態系のうち約六〇%にあたる一五が悪化して、水資源枯渇、漁獲量減少、
事務総長の提唱で着手され、世界九五ヵ国、二〇〇〇人以上の科学者が四年がかりでまとめ上げた。
ii
気象異常、自然災害、疫病の多発などが顕在化している。人類は生態系から衣食住の資源を獲得し、
さらに経済発展や生活水準向上を目指して、森林、土壌、河川などの生態系に依存してきた。だが、
過去五〇年間の人間による生態系の改変は、人類史上例のない速さと規模で地球全域に広がった。
過去五〇年間の農地の増加は、一八世紀と一九世紀の二〇〇年分よりも大きい。このために、一九 五〇年からの四〇年間で森林や草地の一四%が消失して、地表の二五%が農地に変わった。休耕地、 放牧地、養殖池まで含めれば三〇%に達する。
ダムに蓄えられる水量は、一九六〇年以降四倍になり、自然の流量の三∼六倍にもなった。その水 利用の七〇%までが農業用水である。淡水域の生態系破壊も激しく、湿地は一九〇〇年ごろの半分し
か残されていない。世界中の主要な五〇〇の河川の半分以上が、深刻な水質汚染や水不足に見舞われ てい る 。
海洋環境の悪化も急激に進んでいる。すでに、サンゴ礁の二〇%が失われ、二〇%で破壊が進んで いる。マングローブ林の三五%が消失し、スマトラ沖の津波被害を拡大する原因にもなった。重要な
商業魚種の四分の一の漁獲量は、世界的に下がりつづけている。野生生物は、自然に起こる絶滅の一 〇〇〇倍以上もの猛スピードで絶滅している。
人間の活動は自然界の物質循環も攪乱し、一九六〇年以後、化学肥料や排泄物の増加などで、環境 中の硝酸塩は二倍に、リン酸は三倍に増加した。窒素肥料は一九一三年に製造が開始されたが、これ
まで使われた窒素肥料の半分以上が一九八五年以降に集中しているほど、近年の消費の伸びは大きい。
iii は じ め に
生態系の破壊はとくに貧しい人々を直撃している。食糧生産は世界のGDPの約三%に過ぎないが、 世界人口の約二二%が農業で生計を立てている。世界で一一億人が一日一ドル以下で生活している。
その七〇%までが農業、牧畜、漁業、狩猟など生態系と深い関わりをもって暮らしている。生態系の
悪化は、水不足や土壌悪化となって跳ね返り、食糧生産を低下させて貧困層をさらに貧しくしている。
世界各地を調査していてもっとも驚くのは、久しぶりに同じ場所を訪ねたときの激変ぶりだ。最初 にアマゾンを訪ねたときに、熱帯林を切り開いて二〇〇人ほどの入植者がつくった集落に偶然立ち
寄った。集落というよりも掘立て小屋が寄り集まっただけだった。二〇年後に同じ場所を再訪したと きには、ビルが立ち並ぶ人口数千人の街になっていた。
マレーシアのボルネオ島でも、見わたす限り広がっていた樹海が、一〇年ほどの間に地平線まで広 がる油ヤシの畑に変わっていた。タイでは、うっそうと茂って、地元民が夕方になると投げ網で晩ご
飯の魚を獲っていたマングローブ林が、わずか数年で一面にエビの養殖池になって地元民は養殖場で 働い て い た 。
とくに、中国の変わりようは想像を絶するものがある。過剰な取水で黄河の流れがまったく絶えた 現場をみたときには、これが大河の姿とは信じられなかった。琵琶湖の三倍以上ある江蘇省の太湖で
は、汚染でアオコが大発生しドロドロに腐って悪臭を放ち、水源にしている周辺の都市部の水道水が
地方都市にまで朝夕の交通渋滞が広がり、空はスモッグで曇る。いったいどこに向かってこの国は
飲めなくなっていた。
iv
突っ走っているのだろうか。この隣人と今後どう付き合っていけばよいのか、正直いって頭を抱えた。
一九六〇∼七〇年代に日本を訪れた欧米人も、同じ感想を抱いたことだろう。
むろん、悪い変化ばかりではない。一九七〇年代にインドのコルカタ︵旧カルカッタ︶を訪れたと きには、超過密と路上生活者、そしてごみの山には辟易した。だが、最近では、空港から市内に向か
う途中にはIT関連の新しい産業団地が建ち、中産階級の近代的な町やショッピングモールが出現し てい る 。
一九八〇年代末に社会主義圏だったチェコとポーランドの国境沿いを調査していて、山脈全体が酸 性雨で枯れた樹木で覆われているのにショックを受けた。だが、一年前に同じ場所をドライブしたら、
チェコ側は植林が進んで山は緑を取り戻しつつあった。いつの時代でも、こうした変化はあったのだ
ろうが、この三〇年ほどは変化があまりに速い。﹁歴史の急加速﹂といってもよいだろう。
日本で環境問題が論じられるときには、つねに﹁いつか﹂﹁どこか﹂の話になることが多い。少な くても、現在の私たちにはあまり関係のない将来︵あるいは過去︶のことであり、地球の別の場所で
起きていることだった。だが、わが国は食糧やエネルギーやその他の資源を大きく海外に依存してお
り、地球環境の悪化や天然資源の濫用によってたちまち輸入が危なくなる。どれだけの人が危機感を 抱いているだろうか。
二〇五〇年には、世界人口が九二億人近くまで増えると国連は予測している。これから二六億人、 つまり現在の中国︵世界一位︶とインド︵世界二位︶を足した以上の人口が加わることになる。この
v は じ め に
大部分は発展途上地域の人口だ。国連環境計画︵UNEP︶によれば、すでに砂漠や山岳地帯を除く
地表の四割は農地、放牧地、都市、道路、工場、鉱山、埋め立てなどによって人工化している。この
まま開発がつづけば、二〇五〇年までには七割が人工化すると警告している。
この人工化には森林が最大の標的になるだろう。生態系維持、気候安定、水源、木材生産、防災、 リクリエーションなどのためには一定以上の森林面積は地球に欠かせない。だが、食糧生産や居住地
域の確保の前には、森林保護の声はかすんでしまうに違いない。そうなると、あとは地球生態系崩壊
への道をまっしぐらに進むしかない。﹁物質文明の世紀﹂ ﹁物欲至上主義の世紀﹂﹁石油に浮かぶ世紀﹂
といわれる二〇世紀文明から、どう脱却できるのか。まずは、地球の﹁ここにある危機﹂を知ってほ しい 。
各章の末につけた参考文献は、さらに知りたい人のための参考図書である。
vi
目 次
ⅰ
人口の過疎過密が引き金に
7
│ 16
11
開発で脆弱化する自然
29 22
36
17
42
25
55
はじめに
│
世界に広がる人種抗争
14
死亡率と出生率の急減⋮ 延びる寿命、増える高齢者⋮ 地球規模の 過疎過密化⋮ 都市人口の急膨張⋮ 急増する移民⋮ ヨーロッ 3
パの外国人労働者⋮ 人種・宗教的な対立へ⋮ 同化の困難なイスラ ム系⋮ 移民国家の移民問題⋮ 増大する不法移民⋮ 人口の将 来予測⋮ 日本の労働者不足⋮
│ 巨大化する災害
54
章
章
9
35
第
第
41
1
33
20
災害の定義⋮ 増える自然災害の被害⋮ 環境悪化と自然災害⋮
vii
39
27
温暖化と災害⋮ 最近の自然災害と環境悪化⋮ 貧困が呼び込む災害 ⋮ 災害に対して脆弱化する大都市⋮ 加速する災害⋮ 51
1 2
│
海は空っぽ 乱獲で消えた魚
両極化する食糧問題
水の争奪戦がはじまった
106
新たな資源戦争のはじまり
117 110
153
章
76
依然としてつづく飢餓⋮ 穀物生産の限界か?⋮ 飽食の国々⋮
89
史上もっともぜいたくな食生活⋮ 中国とインドの行方⋮ 食糧をめ ぐる新たな争い⋮ 急増するエタノール生産⋮ バイオディーゼル燃 料⋮ 食糧か燃料か⋮ 食糧危機の足音⋮
93
│
115
第
66
タラ漁の盛衰⋮ タラをめぐる強欲の歴史⋮ マグロ漁も乱獲の歴史 ⋮ マグロ資源保護の高まり⋮ サメよ、お前もか⋮ 漁業資源 74
の危機⋮ 人気を呼ぶ魚肉⋮ 乱獲に拍車がかかる漁民の増加⋮ 養殖の問題⋮ 人類と海の愚かな関わり⋮
│
79
飢餓か飽食か
83
102
82
105
152
章
章
131
第
第
98
88
地球に広がる水不足⋮ 食糧生産のカギを握る水⋮
137
109
61
91
63
125
140
123
70
有限な水資源⋮
136 127
114
地下水の枯渇⋮ 中国の水不足⋮ 日本は最大の水輸入国⋮ 広がる水紛争⋮ 水と健康⋮ 将来の水資源⋮ 129
3 4 5
viii
│
横行する違法伐採 森林破壊の果てに
誰が砂漠を広げているのか
197
210
環境の変化が生んだ感染症
237
223
212
章
│
184
177
急増する黄砂⋮ 加速する中国の黄砂被害⋮ 黄砂の発生源と原因⋮
激化する黄砂
175
カシミヤが引き起こす砂漠化⋮ 干ばつと砂漠化⋮ 砂漠化と は⋮ 拡大する砂漠⋮ 黄砂は善玉?⋮ 黄砂は悪玉?⋮
│
201
239
206
第
162
森林伐採の加速化⋮ 森林の現状と森林稀少国⋮ 高まる森林への圧 力⋮ 中国の割りばし・木炭の禁輸⋮ 横行するアジアの違法伐採⋮ 167
アフリカの﹁紛争木材﹂⋮ BSEが加速するアマゾン破壊⋮ 増える紙の消費⋮ 森林をどう救う⋮
159
新顔ウイルスの脅威
219
章
章
229
第
第
191
181
人間とウイルスの闘い⋮ 生態系攪乱とウイルス⋮ 家畜がもたらし 人間が運んだウイルス⋮ 危険な野生肉⋮ 温暖化と
ix 目 次
165
203
た疫病⋮
病気⋮
250
157
187
217
189
170
192
6 7 8
│
動物たちの黙示録
六回目の大量絶滅時代
299
章
266
275
285
どこまで汚せば気がすむのか
308
第
257
277
レッドデータブック⋮ 沈黙の春⋮ 越冬地の消失⋮ 地球温暖 化が野鳥を直撃⋮ 悲観的な野鳥の将来⋮ カエルが消えていく⋮ 外来生物が狂わす生態系⋮ 日本の外来生物⋮ 日本が輸出した外来 生物⋮
271
からだをむしばむ化学汚染
│
282
297
255
295
267
323
│
303
326
章
316
289
化学物質に囲まれた生活⋮ 汚染が蓄積される人体⋮ 第四の地球汚 染物質 難燃剤⋮ 増える子どものがん⋮ 有害化学物質の地球汚 染⋮ 地球最悪の汚染地域⋮ 広がる﹁死の海域﹂⋮ 化学物質 とどう付き合うか⋮
巻末
329
第
おわりに
│ │
索 引
313
9 10
x
アメリカ・ロサンゼルスで不法移民規制強化に反対するデモ参加者ら (2006 年 5 月) 写真提供 ロイター=共同
世界に広がる人種抗争
1
人口の過疎過密が引き金に 第
章
本の人口は二〇〇五年一一月から減りはじめた。同時に女性が生涯に産む子ども数︵合計特殊出 日 * 生率︶も、史上最低を更新した。ついに、総人口に占める一四歳以下の若年人口比は世界最低、六五
歳以上は世界最高といういびつな構造になった。二〇〇六年は一時的に回復したが、長期的人口減少
の傾向は止まらない。日本に限らず、人口問題は人類史上例をみない激変期に突入した。ひとことで 要約すれば、﹁国際間、地域間、年齢間の人口バランスの急変﹂である。
国際間では、人口の増加が頭打ちになり減少もはじまっている先進地域と、サハラ以南アフリカや 南アジアなど人口急増がつづいている発展途上地域との格差が、さらに拡大している。同じ国のなか
でも、都市と農村の地域間で過密化と過疎化が加速し、しかも途上地域の都市内部では、スラムの人
口が不気味に膨れ上がっている。少子高齢化は年齢間の深刻な不均衡ばかりか、深刻な労働力不足を 引き 起 こ し て い る 。
こうした人口のアンバランスの結果、発展途上地域から先進地域へ、農村から都市へ大規模な人口 移 動 が 起 き て い る。 一 九 世 紀 は じ め か ら 二 〇 世 紀 に か け て、 大 量 の 移 民 が ヨ ー ロ ッ パ か ら 新 世 界 へ
渡ったが、それをはるかにしのぐ規模だ。だが、多数の移民を受け入れた国では移民排斥の動きが広
がり、それに反発する移民側が暴動やテロやデモで応酬して社会不安が広がっている。
人口は増えるにせよ減るにせよ、航行中の巨大タンカーが減速してもすぐに止まらないように、惰 性は長くつづく。増加率を下げながらも、世界人口は少なくても今世紀いっぱいは増えつづける見通
しだ。人口問題が依然として、二一世紀の地球が抱える最大の難問であることには変わりない。これ
2
図❶ 世界人口増加率の推移と将来推計(中位予測,1950∼2050 年) (%)
2.5
1.5
1.0 人口増加率
2.0
0.5
0.0 1950 1960 1970 1980 1990 2000 2010 2020 2030 2040 2050 年 (出典) 米国国勢調査局(International Data Base,2006 年 8 月) 。
が、どう環境や天然資源や汚染に重圧を加えるかは、各
章でみていく。ここでは、歪んだ人口バランスが、世界
的に社会不安をいかに高めているかにしぼって論じたい。
* 一人の女性が生涯に産む子どもの 合計特殊出生率 数。 最 近 で は 出 生 率 と い え ば こ の 合 計 特 殊 出 生 率 を 示 す
場合が多い。出生数は出産適齢期︵一五∼四九歳の女性︶
の 人 数 に よ り 変 化 す る た め、 適 齢 期 の 人 数 に 左 右 さ れ る
こ と な く 出 生 の 状 態 を 観 察 で き る よ う に 開 発 さ れ た。 年
齢 別 の 出 生 率 を 特 殊 出 生 率 と い い、 そ れ を 合 計 し た も の が合計特殊出生率である。
死亡率と出生率の急減 ﹁バランスの急変﹂をもたらした第一の変化は、人口 増加率の急激な低下だ。世界人口の増加率は一九六二年
には年率二・一九%という人口統計史上の最高を記録し
た。 こ れ は 三 二 年 足 ら ず で 人 口 が 倍 増 す る と い う 猛 ス
ピードだ。その後一〇年間にわたって二%を超える高い 増加率がつづいた ︵図❶︶ 。
3 第 1 章 世界に広がる人種抗争
図❷ 多産多死から少産少死への人口転換
第 1 段階 第 2 段階 第 3 段階 第 4 段階 (多産多死) (多産少死)(少産少死期への移行) (少産少死)
世界人口
出生率 出生・死亡率
総人口
死亡率
(出典) Massimo Livi-Bacci, A Concise History of World Population 1999.
年
この一九六〇∼七〇年代は、人口増大の恐怖が世界を 覆 っ て い た。﹁ 人 口 爆 発 ﹂ ﹁人口爆弾﹂ ﹁人口暴走﹂と
いったことばが、マスメディアにさかんに登場したのも
このころだ。人口急増は、途上地域が﹁多産多死﹂から
﹁多産少死﹂へ転換して、死亡率が急激に低下したこと
が大きい ︵図❷︶ 。これには、栄養状態の改善に加えて、
予防ワクチンや抗生物質の普及、病気を媒介する昆虫の
駆除、公衆衛生の発達などが貢献したと考えられている。
しかし、一九八〇年代に入って人口増加率は下がりは じめて、現在では一・二%前後まで急減した。倍増時間
は五八年に延びた。一九九二年当時の国連の将来予測で
は、二〇五〇年には世界人口が一〇〇億人を超えるはず
だったが、最新の二〇〇六年の推計︵中位予測︶では一
〇億人も下方修正されて九一億九一〇〇万人と予測され ている。
過去に一時的にあった増加率の低下は、戦争や飢餓な どの災害に負うところが大きかった。近年の低下の最大
4
の理由は産児制限の普及によるものだ。また、世界人口の五人に一人を占める中国が、一九七九年に
導入した﹁ひとりっ子政策﹂も大きく寄与した。この政策の強行でさまざまな社会的な軋轢も生じた
が、中国政府は二〇〇六年末までに約四億人の人口を抑制できた、と胸を張っている。
国連は人口抑制を掲げて一九七四年を﹁世界人口年﹂に指定し、この年にブカレストで﹁世界人口 会議﹂を開催した。国連はその後、一〇年ごとに人口会議を開催し、一九八四年にはメキシコ市で、
一九九四年にはカイロでそれぞれ開かれた。し
かし、出生率の急減とともに人口問題への関心
が薄れ、予定されていた二〇〇四年は日本も開
5 第 1 章 世界に広がる人種抗争
催候補地に挙がっていたが、結局見送られた。
この結果、二〇〇五年段階で二五ヵ国の国・ 地域で人口増加率がマイナスになった。二〇五
史的な低水準がつづいている ︵表①︶ 。
アジアの一五ヵ国でも一・三〇を割り込み、歴
き換わる二・〇八人を下回った。南欧、東欧、
数︵合計特殊出生率︶が、人口の増減なしに置
この出生率の低下を反映して、国連統計では、 先進地域の四四ヵ国で女性が生涯に産む子ども
着飾った「ひとりっ子」の写真を撮らせる父親 (北京市・万里の長城で)。
表① 合計特殊出生率 (1) 低い国・地域トップ 10
(2) 高い国・地域トップ 10
国・地域
人
国・地域
人
01. 香 港
0.94
01. ニジェール
7.64
02. ウクライナ
1.13
02. ウガンダ
7.11
03. スロバキア
1.17
03. ブルンジ
6.81
04. 韓 国
1.19
04. リベリア
6.80
05. モルドバ
1.19
05. コンゴ(旧ザイール)
6.72
06. チェコ
1.20
06. マ リ
6.69
07. スロベニア
1.21
07. チャド
6.66
08. ポーランド
1.22
08. アンゴラ
6.54
09. ベラルーシ
1.22
09. シエラレオネ
6.50
10. ブルガリア
1.23
10. ブルキナファソ
6.45
日 本
1.35 (1.26 日本 政府発表)
2.58
先進地域
1.58
途上地域
2.79
6
〇年にはこの数字は四六ヵ国に跳ね上がりそ
うだ。少子化の進む国は、どこも出生率を上
げるために補助金から税金の控除まで、さま
ざまな優遇策をとっている。しかし、フラン
スなど一部の国を除いて効果はほとんど上
がっていないのが現状だ。
急激な少子化はさまざまな社会的な問題を 起こしている。とくに、アジアで目立ってい
る。子どもが少ないのなら男の子が欲しいと
いうことから、中国、インド、韓国などで男
女の﹁産み分け﹂が流行している。胎児の性
別を診断して女児なら中絶してしまうのだ。
中国の最新の国勢調査では、女児出生数一〇
〇に対して男児は一二〇もある。なかには、
女子生徒一〇〇に対して男子生徒は一五〇と
日本の農村では﹁嫁不足﹂が深刻化して、
いう学校さえある。
(出典) 『世界人口白書』2006 年。
世 界
アジア諸国から花嫁を﹁輸入﹂する事態になっている。韓国は日本よりもさらに不足して、この二∼
三年、農林漁業者の結婚相手の四割が外国人、その七割までがベトナム人だ。ことばや習慣、嫁と姑
とのトラブルなどが増えている。それでも結婚できない若者が急増している。中国では適齢期を迎え
た四〇〇〇万人もの青年が結婚できないでいるといわれる。警察当局の発表によれば、中国では将来
の花嫁にする女児の誘拐が国内や近隣国で多発して、数万人の女児が行方不明となっているという。 延びる寿命、増える高齢者
こうした出生数の急減をある程度補っているのが寿命の延びだ。一九五〇年当時世界平均で四七歳 だったのが、現在は六五歳にまで伸びた。世界が日本の一九六〇年ごろの寿命に追いついたのだ。こ の期間に、発展途上地域でも四一歳から六三歳へと大きく伸びた。
こうした出生率の低下と寿命の伸びに︵逆︶比例するように、世界的に高齢人口が急増している。 世界の六〇歳以上の人口は、二〇〇五∼五〇年には現在の六億七二〇〇万人から一九億人へと三倍増
になると見込まれている。とくに八〇歳以上の超高齢人口は、現在の八六〇〇万人から二〇五〇年に は三億九四〇〇万人に四・五倍になる。
今日、先進地域では人口の二〇%が六〇歳を超えているが、二〇五〇年には三二%にまで増加する。 すでに、六〇歳以上の人口は一四歳以下の若年人口よりも多い。このままでは、二〇五〇年には高齢 人口と若年人口の比は二対一になる。
7 第 1 章 世界に広がる人種抗争
日本の老年人口の割合は現在の二〇%から二〇一四年には二五%台に達し、人口の四人に一人が六 五歳以上人口となる。その後、二〇一七年には二七%台に、二〇三三年には三〇%台に達する。そし
て、二〇五〇年には三五・七%もの高率になる。すなわち三人に一人以上が六五歳を超える。
国立社会保障・人口問題研究所の推計によると、七五歳以上が世帯主になる﹁後期高齢世帯﹂は、 二〇一五年には二〇〇〇年の二・六倍にあたる一〇三九万世帯になり、全世帯の二割を超える。また、
平均世帯人員は、二〇〇〇年の二・六七人から二〇一五年には二・三七人に下がる。とくに、東京で は二〇二五年には一・九八人となり、全国ではじめて二人を切る。
家族による介護能力は、二〇〇五年にはこれまでの最低に落ち込んだ。高齢者一人に対して、成人 した娘や息子の配偶者らが何人いるか。日本大学人口研究所の調査では、一九九〇年には約一・三人
と高水準だったが、二〇〇五年には〇・七七人になった。さらに高齢化が進むにつれ、家庭の介護能
力が落ち込むことは避けられない。それをどう補うのか。日常生活の介護に限らず、災害時の避難や 救助、インフルエンザの流行などを想定すると、頭の痛い問題だ。
発展途上地域でもこれから高齢化が深刻な事態になる。現在、発展途上地域人口の八%が高齢者だ が、二〇五〇年にはこれが二〇%になる。六〇歳以上の人口は二〇〇五∼五〇年に四二〇〇万人から
二億七八〇〇万人に急増し、二〇五〇年には世界の八〇歳以上の八割までが発展途上地域に住むこと
になる。財政的に弱体で社会福祉の遅れている国の多い発展途上地域では、高齢者の増加は家族や社 会の重い足かせになりかねない。
8
(億人)
図❸ 世界人口の増加と将来推計(中位予測,1750∼2050 年)
1987 年 50 億人 120
100
1804 年 10 億人 40
60
2050 年 2000
地球規模の過疎過密化
第二の変化は、世界の先進地域と発展途上地域の人 口格差の拡大だ。米国勢調査局がインターネットで流
している﹁世界人口時計﹂は、時刻の代わりに人口増
加 を 刻 ん で い る。 そ の 表 示 が 二 〇 〇 六 年 二 月 二 五 日
︵米国東部標準時︶に六五億人を突破した ︵図❸︶ 。
二〇世紀初期には、一〇億人が増加するのに五〇年 かかったが、最近ではわずか一二年しかかからない。
世界人口は依然として、毎年七八〇〇万人ずつ増加し
ている。このうちの九五%までを発展途上地域が占め
ている。毎年、フランスとオランダを足した人口が地
球上に出現していることになる。
サハラ以南アフリカや南アジアなどの発展途上地域 では、依然として人口の急増が止まらない。女性が生
涯に産む子どもの数は、一九五〇年代には世界平均で
五人を超えていたのが、最近では半減して二・五人ほ どに下がった。
9 第 1 章 世界に広がる人種抗争
発展途上地域 先進地域
1950 1900 1850 1800 0 1750
60 億人 1960 年 30 億人 1974 年 40 億人 1927 年 20 億人 80
1999 年
20
(出典) 国連人口推計,2006 年。
だが、先進地域では一・六人まで少なくなったのに対し、途上地域ではまだ三・五人である。この ために、増加率の低下が進まない発展途上地域も多く、二〇〇五∼五〇年の間に、アフガニスタン、
ブルキナファソ、ブルンジ、チャド、コンゴ︵旧ザイール︶などで人口が三倍以上になる見通しだ。
この格差によって、増加をつづける発展途上地域の﹁過密化﹂と、少子高齢化で人口が減りはじめ た先進地域の﹁過疎化﹂との対照が、いよいよ鮮明になってきた。一九五〇年当時、約二五億人の世
界人口のうち発展途上地域は一七億人、先進地域は八億人で、その比は約二対一だった。それが現在
では、ほぼ四対一にまで広がった。これが、二〇五〇年には六対一という大きな開きになる。
一平方キロあたりの人口密度は、現在、発展途上地域は六三人、先進地域は二三人と三倍近い開き がある。二〇五〇年の人口密度は、先進地域は今と変わらないが、発展途上地域は九五人にまで増え
て、先進地域とは四倍以上の差になると予測される。人口増加の激しい過密国では、農地の不足や貧
困、経済の低迷に拍車がかかっている。他方、人口減少の過疎国では、急速な少子高齢化で社会の衰 退や地域社会の崩壊がはじまっている。
世界銀行によると、世界人口の二〇%のもっとも豊かな国々が個人消費総額の八六%を占める一方 で、もっとも貧しい二〇%を占める国々の消費は一・三%に過ぎない。先進国の一人が生涯を通じて
消費する資源と排出する汚染物質は、途上国の三〇∼五〇人分に相当する。途上国に住む五三億人の
うち六割は衛生設備がなく、三割は安全な水を使えず、二割は家もなく医療も受けられない。
10
都市人口の急膨張
一九〇〇年当時、世界人口のうち都市の居住者は一五%にすぎなかった。国連人口統計によると、 それが一九五〇年には三〇%を超え、二〇〇七年中には五〇%を超える見通しだ。史上はじめて世界
人口の半数が都市に住むことになる。先進地域はすでに七五%の人口が都市住民だ。発展途上地域は *
一九五〇年には都市に住んでいたのは一八%に過ぎなかったのが、現在では四三%を超えた。
だが、都市の膨張部分の大部分が、発展途上地域のスラム人口の増加である。都市問題に取り組む 国連人間居住計画︵ハビタット︶が二〇〇六年六月に公表した﹃世界都市白書﹄によると、世界中の スラムに住む人口はほぼ一〇億人に達した。
このまま住宅や生活が改善されない限り、毎年二七〇〇万人ずつ増えつづけて二〇二〇年までに一 四億人まで膨らむことが予想される。つまり、世界の全都市人口の三人に一人がスラム住民という事
態になる。スラムの人口増加の四割は農村からの流入、残りの六割は農村部よりも高い自然増と推定 され る 。
貧しい農村で生きていけない人々が都市へと流れ出す。その数は、一日平均約一六万人ともいわれ る。その大部分はスラムに直行する。つまり、都市の膨張は農村の疲弊の裏返しでもある。人口増加
や自然環境の悪化で食糧生産が落ちて食べられなくなり、現金収入を求めて都市へ流入する。といっ
て、手に職があるわけではなく、ことばが通じない場合も多い。いきおい同郷者を頼ってスラムに転
がり込むしかない。仕事が見つかっても物売りや雑役などで、犯罪者やセックスワーカー︵売春婦︶
11 第 1 章 世界に広がる人種抗争
表② 途上地域のスラム人口とスラム化率(2005 年)
サハラ以南アフリカ
1 億 9,923
71.8
4.53 中南米
1 億 3,426
30.0
1.28 東アジア
2 億 1,237
34.8
2.28 1,670
25.4
1.76 2 億 7,643
57.4
2.20 東南アジア
5,991
25.3
1.34 西アジア
3,306
25.5
2.71 57
24.0
3.24 9 億 5,375
41.4
2.37
東アジア(中国を除く)
南アジア
オセアニア
途上地域計
. (出典) UNHABITAT,
−0.15 % 25.4 % 2,122 万人 北アフリカ
スラム人口の 年増加率 都市人口に占める スラム人口の割合 スラム人口 地 域
になるものも少なくない。
スラムの爆発地点は、サハラ以南アフリカ、南アジ ア、そして東アジアである ︵表②︶ 。都市人口に占める
スラム人口の割合は二〇〇五年時点で、アフリカは七
割以上、南アジアは六割近い異常な高率である。アフ
リカでは一五年、西アジアでは二六年でスラム人口が 倍増することになる。
スラムには家族が安心して住める住宅もスペースも なく、電気や安全な水もトイレもない。これに栄養不
足が加わって、エイズ、コレラ、結核など多くの感染
症の温床にもなり、寿命は非スラム住民と比べてはる
かに短い。栄養不足や家庭内暴力や犯罪が蔓延してい
る。スラムでは、不潔な水と劣悪な衛生状態のために、
毎年一二〇〇万人が死亡している、とハビタットはみ ている。
たとえば、ケニアのナイロビ市内のキベラ地区は、 世界最大ともいわれるスラムで、市の人口の半数に相
12
当する一〇〇万人が住む。粗末な掘立て小屋が折
り 重 な る よ う に 密 集 し、 ト イ レ は 約 五 〇 〇 人 に 一ヵ所しかない。
滅に向かう﹂といいつづけてきた。だが、発展途
上地域の大部分の都市では、スラムは消滅するど
ころか増殖をつづけている。﹁世界都市白書﹂は
﹁スラムはもはや都市の一部地域の貧困地帯では
なく、巨大な部分になりつつある﹂と指摘してし いる。
* スラム 都市内で最貧困層が集中して居住 する過密化した地区。産業革命後の都市への労
働 者 の 流 入、 植 民 地 支 配 下 の 農 村 の 衰 退、 黒 人
奴隷の解放などさまざまな理由でできた。劣悪
な環境で犯罪や疫病も多発し、教育、医療、電
気、上下水道などの公共サービスを受けられな
い場合がほとんど。
13 第 1 章 世界に広がる人種抗争
スラムを抱えた政府や自治体は﹁スラムは一時 的な貧困者の居住地域で、開発と所得の向上で消
廃棄物の山にできたナイロビのスラム。住民はごみを拾って生活している。
急増する移民
人口過密国から過疎国へ、所得の少ない国から多い国へ、雇用の少ない国から多い国へ、と人口が 移動するのは当然の成り行きだ。誰でも、職について安定した収入がほしい。しかも、近年の情報化
によって先進地域のまばゆいような消費財や快楽の情報が世界中にまき散らされ、貧しい国々の若者 を移住へと駆り立てる。
同時に、発展途上地域の農村は人口急増で農地が不足し、しかもその荒廃が激しくて人口を養いき れない。さらに、内戦や内紛を抱えて安全な地域が狭められている。まだしも安全で現金収入のチャ ンスがある都市へと人口が流れ出すのだ。
戦乱や災害時を除けば、現在は歴史上もっとも移動の激しい時代である。国連統計によると、他国 に住む外国生まれの人口は三〇年前には八四〇〇万人だったのが、今日では二億人を超えた。
発展途上地域から先進地域に移動する移民人口は、国連によれば年に二二〇万人。二〇〇五年の移 民の送り出し国は、最大が中国の三二万七〇〇〇人、次いでメキシコの二九万三〇〇〇人、インドの
二四万一〇〇〇人、フィリピンの一八万人などとなっている。他方、移民受け入れ国は米国が最大で
年間一一〇万人、ついでドイツ、カナダの二〇万、英国の一三万人、イタリアの一二万人、オースト リア の 一 〇 万 人 。
二〇〇五∼五〇年の移民の合計は七三〇〇万人にのぼると予測される。二〇五〇年までには七四ヵ 国が海外からの移民の受け入れ国になり、このうちの六四ヵ国では人口の若返りにある程度貢献し、
14
とくにオーストリア、ドイツ、イタリアなど七ヵ国では、人口減少に歯止めがかかるかもしれない、 と国連は予想している。
移民の歴史を振り返ると、ヨーロッパは過去数世紀にわたって移民の送り出し国で、南北米大陸、 オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカなどに約六〇〇〇万人が移住した。ヨーロッパが移
民や外国人労働者の受け入れ側に変わるのは、一九六〇年代に入ってからだ。好景気で労働者が不足
した旧西ドイツ、フランス、オランダ、オーストリア、スウェーデン、スイスなどのヨーロッパ各国
は、イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、ユーゴスラビア、トルコ、モロッコ、チュニジア
などと協定を結んで、滞在期間を限定するローテーション方式で労働者を受け入れた。
一方、英国は一九六〇∼七〇年代に不況がつづき、逆にオーストラリア、ニュージーランド、米国 への移民が増加し、流出する労働力を補うために単純労働者を受け入れざるを得なかった。この結果、
旧西ドイツには主にトルコ、旧ユーゴスラビアなどから、フランスにはモロッコやアルジェリアなど
北アフリカ諸国から、英国には旧植民地のインド、パキスタン、東アフリカなどから多くの外国人労 働者 が 流 入 し た 。
典型的な例はギリシャであろう。二〇年前は国内人口の九八%までがギリシャ生まれのギリシャ人 で、ドイツなどに大量の労働者を送り込んでいた。ところが、その後多くの移民がアルバニアなどか
ら流入し、いまや国民の一割は外国生まれだ。首都アテネに限れば、二割を超えた。イタリアでもこ
の二〇年間に三〇万人から二〇〇万人に急増し、スペインでも北アフリカからの流入で、移民が人口
15 第 1 章 世界に広がる人種抗争
の一〇%を超えた。 ヨーロッパの外国人労働者
的な軋轢が表面 外国人労働者の受け入れが拡大するのにつれて、さまざまな社会的・経済的・政治 * 化してきた。短期間に多数の外国人労働者を受け入れたため、劣悪な環境のゲットーと呼ばれる外国
人居住地域が生まれ、低賃金で労働条件を無視して働く労働者によって、国内の労働者の権利や社会
保障が脅かされる不安が募ってきた。国内の労働者が嫌う三Kのような職種に外国人が集中して、労 働市場の二重構造が生まれた。
だが、外国人労働者たちが次第に自分たちの権利に目覚め、ストライキなど労働争議や暴動も起き るようになった。外国人を定着させないためのローテーション方式も、熟練労働者が育たないために 雇用者、労働者の双方から疎まれるようになった。
このために、大量受け入れはわずか一〇年で終わり、各国は次々に労働者の受け入れを見直した。 一九七〇年にスイス、七二年にはスウェーデン、七三年には旧西ドイツ、七四年にはフランスとベネ ルクス諸国が中止または大幅規制を発表した。
新 規 の 外 国 人 労 働 者 の 流 入 は 止 ま っ た が、 長 期 に 滞 在 し て 市 民 権 や 永 住 権 を 取 得 し て﹁ 移 民 ﹂ と なった人たちの家族の﹁呼び寄せ﹂は認められた。この結果、本国から呼び寄せられた家族や新たに
誕生した二世によって、﹁外国人﹂全体の数はむしろ増加していくことになった。ヨーロッパに住む
16
外国生まれの人口は二〇〇五年の国連統計で七・七%。合計では移民国家の米国の一三・〇%に次ぐ。
こ の 政 策 転 換 と 同 時 に、 ヨ ー ロ ッ パ 各 国 は 不 法 入 国 者 の 取 り 締 ま り と、 自 国 内 に 定 住 し て い る 移 民・外国人に対する社会的統合を強化した。この背後には、一九七〇年代以降、石油危機と不況によ
る失業率の上昇といった国内の社会経済的不安の高まりがあり、さらに八〇年代以降はアジアやアフ
リカからの不法入国者の急増、九〇年代に入るとソ連・東欧圏の解体や旧ユーゴスラビアの民族紛争
に伴う難民の多発などが加わった。とくに、9・ の同時多発テロの後は、イスラム系の人びとに対 する警戒感が急速に広がった。
* 中世ヨーロッパの都市でユダヤ人が集まった居住区。イタリア・ベネツィアの地名﹁ゲット﹂ ゲットー に由来する。ユダヤ人弾圧の象徴ともなり、とくにナチス・ドイツが占領した東欧諸国でユダヤ人を強制的に
ゲットーに移住させたことから知られるようになった。それが転じて、少数民族などが集まって住む貧困地域 も指すようになった。
人種・宗教的な対立へ
移民や外国人労働者にはさまざまな顔がある。受け入れ国の保守系政治家や労働組合幹部にとって は、労働市場の秩序を破壊する不穏な存在だが、経営者からすれば安価で組織化されていない労働力 であり、景気の調節弁としてこれほど重宝な存在はない。
一方、送り出した国からみれば本国への送金は重要な外貨源であり、インド、メキシコ、フィリピ
17 第 1 章 世界に広がる人種抗争
11
18
ンなどのように国家財政を支えている国もある。二〇〇五年の世界銀行の推定ではそうした送金は、
正式な手続きを経たものだけで年に二三二〇億ドルを超える。非合法の送金を加えればさらに額は大 きくなるとみられ、貧しい国の経済に大きな波及効果を生んでいるとみる。
つまりは、立場により社会情勢の変化によって、歓迎されたり邪魔者になったりする。ヨーロッパ では、このところ若手労働者の失業率の上昇が深刻になっているため、移民やその子孫に対する風当
たりが強まっている。二〇〇六年末現在の一五∼二五歳の失業率は、イタリアでは二四%、フランス では二二%、ドイツでは一五%、英国では一三%もある。
移民によって職場を奪われたとして、彼らをスケープゴートにして責任を転嫁するケースも少なく ない。とくに、ヨーロッパ連合︵EU︶内では、フランス、イタリア、デンマーク、ポルトガル、オ ランダなどで移民排斥を掲げる右翼政党や保守派が得票を伸ばしている。
移民も、その国で生まれて教育を受け、市民権をもった二、三世が増えるのにつれて、国民として の権利を要求するようになった。だが、とくに9・ 同時多発テロや各地で起きているイスラム原理
若者の多くは、北アフリカなどの旧植民地から両親が移り住んだイスラム系の移民の二世だ。フラン
フランス全土に拡大した騒動に火がついたのは二〇〇五年一〇月。学校や病院が次々と襲われ、自 動車への放火が相次ぎ三万台以上が炎上、ついには死者も出るなど深刻な事態になった。暴徒化した
で爆発寸前になっていた。
派のテロによって、親の国籍や人種や宗教による差別が激しくなり、この反感や不満が充満して各地
11
パリ中心部に拡大したフランス暴動。パリ西方のエブルーで全焼した商業セ ンター(2005 年 11 月)。
スでは移民とその子孫は約五〇〇万人いると
いわれ、国民の八%余を占める。不法就労者
などを合わせると人口の一割が外国人だ。
暴動の震源地となったのは、イスラム系移 民が集中するパリ郊外の低所得者層向け高層
住宅群の地区だった。社会からは隔離され、
警 察 官 さ え 足 を 踏 み 入 れ ら れ な い﹁ 不 法 地
帯﹂は全土で一五〇ヵ所にも及ぶという。フ
19 第 1 章 世界に広がる人種抗争
ランス国民である移民二世は﹁アラブ系の名
前と顔と郊外の現住所のゆえに、入学や就職
や賃金などで差別を受けてきた﹂という意識
が強い。貧困も失業も移民社会に際立って多
く、長年蓄積された社会に対する怒りが暴動
となって爆発したと考えられている。
てきた。だが、この暴動やデモはその政策が
フランスは長らく、移民の統合や同化を目 指す﹁同化主義﹂が機能してきたと評価され
写真提供 ロイター=共同
うまく機能しなかったことを物語っている。国家のもとで全国民が平等だとしてきた共和国モデルの 崩壊ではないか、とさえいわれるようになった。 同化の困難なイスラム系
ヨーロッパ域内からの移民と違って、アフリカ系やイスラム系の移民は白人社会に溶け込むのがむ ずかしく、二、三世の世代になっても社会の底辺から抜け出せないものが多い。同時多発テロ以後、
社会的な格差にイスラム教徒への憎悪や偏見や差別が加わった。閉塞感が募った移民の若者がイスラ
ム教によりどころを求め、一部は過激な原理主義に走る。これが、ロンドンで起きた同時多発テロの 背景にあるとみられる。
二〇〇五年七月七日朝、ロンドンの地下鉄の三ヵ所とバス一台がほぼ同時に爆破され、五六人が死 亡、七〇〇人以上が負傷した。自爆犯と特定された四人のうち三人が英国生まれで英国国籍を持つパ
キスタン系移民だった。実行犯の自宅は、英国中部ヨークシャー州のリーズにあるイスラム教徒の集 中する地域にあった。捜査の結果、テロ組織とは直接的関係はなかった。
第二次大戦後、英国はかつて大英帝国に属していた国々から積極的に移民を受け入れた。一九五〇 年代にはアフリカやカリブ海諸国から、一九六〇∼七〇年代にはパキスタンやバングラデシュなど、
南アジア諸国からの移民が増えた。今では、ロンドン市民の約三割がアジア・アフリカ系である。
南アジアからの移民は、産業革命以来繊維工業の中心地であるヨークシャー州などの工業都市に職
20
ロンドンのバス爆破テロ直後の現場(2005 年 7 月)。
を求めたものが多かった。一九八〇年代になる
と、アジアの新興工業国の台頭で、国際競争力
を失った英国の繊維工場は相次いで閉鎖され、
移民たちは失業者となった。職につくのが容易
ではなく、タクシー運転手やパートタイムの労
働で生活してきた。現在でも南アジア系労働者
の失業率は三〇%を超えている。
21 第 1 章 世界に広がる人種抗争
一方で、移民が増えるのにつれて、白人側か らの差別も強くなっていった。低賃金で働く移
民に職を奪われる不安に、異質の宗教や文化に
対する偏見も加わった。移民は新たに住宅を借
りることも難しく、最初に入居した古い公共住
宅に住みつづけるしかない。彼らの集中する地
区は白人社会の反発や警戒心を招き、両者はほ
とんど交流がないままに嫌悪感と反発が強まっ
EU域内のイスラム系人口は一四〇〇∼一六
ていた。
写真提供 ロイター=共同
比率 国名 フランス
7.1 % オランダ
5.5 スウェーデン
4.5 スイス
4.5 ドイツ
4.4 オーストリア
4.2 イギリス
2.7 デンマーク
2.0 ギリシャ
1.3
(出典) Islam Awareness Home Page, BBC ニュースなど。
22
〇〇万人と推定され、フランス、イギリス、ドイツの三
国だけで一〇〇〇万人が住んでいる。人口比率もフラン
スや、オランダでは高い ︵表③︶ 。イスラム系は出生率が
平均して白人の三倍もあり、二〇五〇年までにイスラム
系人口はEUの二割を超え、国によってはイスラム系が
過半数を占める国も出現するという予測もある。
デンマークで新聞がムハンマドを風刺した漫画を掲載 したり、フランスで学校のイスラム系生徒のスカーフを
禁止したり、男性の産婦人科医がイスラムの女性を診察
トや鉄パイプを持って乱闘となり、その後報復合戦を繰り返して多くのけが人を出した。
拠するレバノン系の若者と彼らに反発する白人との間で、以前から緊張が高まっていた。双方がバッ
移民をめぐる紛争は、移民国家でも例外ではない。二〇〇五年一二月、オーストラリアのシドニー 南部の海岸で、レバノン系の住民と地元の白人の大規模な衝突が起きた。この海岸をわがもの顔に占
移民国家の移民問題
会にも蔓延していく。
したりするたびに、デモや暴動騒ぎが起きる。そのたびに、逆に﹁嫌イスラム﹂感情がヨーロッパ社
表③ ヨーロッパ各国の イスラム系人口の比率
オーストラリアが非白人の移民を制限する﹁白豪主義﹂を放棄したのは一九七〇年代。それ以後、 非白人の移民が急増して、シドニーでは市民の二七%が非白人になった。シドニーは﹁白豪主義﹂に
代わる﹁多文化主義﹂の象徴ともなった。二〇〇〇年のシドニー五輪は、テーマに民族の融和と和解 を掲 げ た 。
一九七〇年代以後に移住したイスラム教徒のレバノン移民は、オーストラリアが不況で工場が閉鎖 され、失業率が急増した時期とぶつかった。レバノン系の若者の失業率は全国平均の五倍も高い。海
岸で集まって憂さを晴らす若者が多く、婦女暴行、自動車窃盗、麻薬の密売などで多くの逮捕者を出
し、シドニーではレバノン系イコール犯罪集団、というイメージができあがっていた。
米国やロンドンでの同時多発テロ以後法律が改正されて、具体的な証拠がなくても容疑者を予防的 に拘束できるようになった。テロ以後、イスラム系住民に対する警戒感が一般市民の間でも強くなり、
イスラム系住民の間では自分たちが標的になっているとする被害者意識も高まっていた。
一方、白人社会でも、犯罪やテロへの恐怖からナショナリズムが高揚している。とくに、集団意識 が強く、戦闘的で女性を蔑視するなどの異質の文化を持ち込んだレバノン系住民への憎悪も根強い。
非白人の移民受け入れ拒否を主張する右翼系の政治団体の支持者が増えているともいう。今後とも、 憎悪の悪循環がつづきそうだ。
二〇〇六年五月、ヒスパニック︵中南米系市民︶を中心に一〇〇万人規模の移民法反対のデモが米 国の五〇ヵ所以上で行われ、星条旗を掲げて不法移民の﹁合法化﹂を求めた。ヒスパニック系が職場
23 第 1 章 世界に広がる人種抗争
24
離脱や不登校、買い物の自粛を呼びかけたために、ヒスパニック系労働者が数多く働く、工場、商店、
レストランなどは閉鎖せざるを得ず、その損害はロサンゼルスだけで数億ドルにのぼった。
発端は二〇〇五年暮れ、下院は不法移民取り締まりを強化して不法移民は犯罪者として強制送還す る法案を可決した。とくに、9・ 事件後、米国社会に不法移民に対する警戒感が広がり、この世論
してしまえば、若い労働者を失って米国経済の活力が低下すると懸念されている。
職や収入を求めて密入国して、工場、農園、レストランなどで働く。低賃金でよく働く不法移民は 経営者にとってもありがたい存在であり、一面では彼らが米国の労働市場を支えてさえいる。締め出
ヒスパニックが占め、アフリカ系︵黒人︶の一三%を上回って、最大の少数民族グループとなった。
一九九二年当時三九〇万人といわれた米国内の不法移民は、現在では一二〇〇万人に達した。その 多くは、メキシコ人などのヒスパニック系だ。米国勢調査局の調査によると、米国人口うち一四%を
国境の監視は困難で効果がなかった。
る。歴代の米国の政権は不法移民の流入を阻止する政策を何度となく打ち出してきたが、この長大な
りして、一九九三年以降だけで三八〇〇人以上が死亡していると、メキシコの人権団体は発表してい
米国とメキシコを隔てる三二〇〇キロの国境線は、﹁南﹂と﹁北﹂を分断する最長の国境線でもあ る。毎日数千人がこの国境を越えて米国に密入国してくる。入国できても、砂漠で行き倒れになった
ち上がったのが、大規模なデモだった。
に後押しされて生まれた法案だ。こうした不法移民の規制強化に反対して、ヒスパニック系住民が立
11
だが、白人社会、とくに職種が競合するような低賃金職場では、不法移民が賃金や労働条件を押し 下げるとして反発が強い。ヒスパニックの取り締まり強化反対デモに対して、白人側も﹁不法滞在者
ゴーホーム﹂と集会を開き、コロラド州では両者が衝突寸前になった。移民によってつくられた米国
は、さまざまな人種がいずれ溶け合って﹁シチュー鍋﹂のようになるとされてきた。だが、現実には ﹁サラダボウル﹂のようにそれぞれが混ざり合ったままだ。
外国人をめぐる紛争は、短期の労働者が集まる湾岸諸国でも多発している。石油高騰による空前の 好景気に沸くこれらの国々には、アジアや北アフリカから多くの労働者が吸い寄せられている。その
結果、国連統計︵二〇〇六年︶によると、アラブ首長国連邦︵UAE︶は国内人口四〇〇万人のうち、
外国人の割合が八〇%を超えている。さらにカタールでは七〇%、クウェートでも六四%を占める。
劣悪な労働条件で働かされる場合も多く、ストライキが多くときには暴動にまで発展している。 増大する不法移民
欧米先進地域の多くは、移民への門戸を閉ざすか狭めている。しかし、発展途上地域の人口増に起 因する貧困、飢餓などから移住の圧力は以前にもまして強くなっている。ちょうどチューブ入りマヨ ネーズを搾り出すように、貧しい国から不法移民が搾り出されてくる。
米国・メキシコ国境と並ぶチューブの口の一つが、アフリカとヨーロッパの両大陸を隔てるジブラ ルタル海峡とその周辺である。ここは、先進地域と発展途上地域とを隔てる海峡だ。アフリカ各地か
25 第 1 章 世界に広がる人種抗争
らヨーロッパを目指す密航者が集まってくる。
とくに、二〇〇五年二月から、スペインでは﹁半年以上滞在した不法移民に就労ビザを与えて合法 化する﹂という政策を打ち出した。スペインがもっとも入国しやすいという評判がたってからは、セ
ネガル沖のリゾート地、スペイン領カナリア諸島には連日、マリ、ニジェールなど西アフリカ諸国か ら多数の不法移民が押し寄せる。
アフリカからヨーロッパ入りを狙う不法移民は、それまで地中海を船で横断してスペインに入った が、警備強化で難しくなり大西洋沖のスペイン領を目指す新たなルートに殺到している。小舟に詰め
るだけ詰め込まれたアフリカ人密航者が、危険を冒してやってくる。スペイン赤十字は、五人に一人
は舟が沈んでたどり着けないとみている。カナリア諸島の当局によると、二〇〇六年だけで不法入国
者は三万一二〇〇人を超え、前年の約一万人を大きく超えた。同諸島の一時収容施設はいつも超満員 だ。
スペイン政府は、難民申請者以外は本国送還する。しかし、身分証明書を持たず、出身国を確認で きない場合には、収容施設で過ごした後はスペイン本土に移送され、自由の身になってヨーロッパ各 地へ と 散 っ て い く 。
スペイン政府は、﹁密航者対策はスペインだけでなくヨーロッパ全体の責任﹂として、EU として アフリカ支援に力を入れることや、密航を水際で防ぐための装備や要員の援助を要請した。送り出し
国と受け入れ国はモロッコの首都ラバトで合同の対策会議を開き、移民の暴動が起きたフランスは率
26
図❹ 世界の将来人口予測(1950∼2050 年) (億人) 120
100
高位
低位 人 口
80
中位
60
40
20
0 1950 1960 1970 1980 1990 2000 2010 2020 2030 2040 2050 年 (出典) 国連人口局。
先して賛同している。 人口の将来予測
人 口 の 将 来 予 測 は、 今 後 の 増 加 率 の 予 想 に よ っ て も 大 き く 変 わ っ て く る。 国 連 は、 将 来 の 増 加 率
によって﹁高位﹂﹁中位﹂﹁下位﹂と三種の推計を
発表している ︵図❹︶ 。その﹁中位﹂をとった場合、
二 〇 五 〇 年 に は 九 一 億 人 を 超 え る。 こ れ か ら 二 六
億 人、 つ ま り 現 在 の 中 国︵ 世 界 一 位 ︶ と イ ン ド
︵ 世 界 二 位 ︶ と ブ ラ ジ ル︵ 世 界 五 位 ︶ を 足 し た 人
口 が 加 わ る こ と に な る。 こ の 大 部 分 は 発 展 途 上 地 域の人口だ。
二 〇 五 〇 年 に は ア ジ ア は、 現 在 の 三 〇 億 人 か ら 五 二 億 人 に、 ア フ リ カ は 九 億 人 か ら 二 〇 億 人 に、
中南米は三億二〇〇〇万人から七億八〇〇〇万人、
北米は三億三〇〇〇万人から四億四〇〇〇万人に
そ れ ぞ れ 増 え る。 と こ ろ が、 ヨ ー ロ ッ パ は 七 億 三
27 第 1 章 世界に広がる人種抗争
表④ 世界の人口トップ 10 2005 年
2050 年
01. 中 国
13 億 1600 万人 01. インド
15 億 9300 万人
02. インド
11 億 0300 万 02. 中 国
13 億 9200 万
03. 米 国
2 億 9800 万 03. 米 国
3 億 9500 万
04. インドネシア
2 億 2300 万 04. パキスタン
3 億 0500 万
05. ブラジル
1 億 8600 万 05. インドネシア
2 億 8600 万
06. パキスタン
1 億 5800 万 06. ナイジェリア
2 億 5800 万
07. ロシア
1 億 4800 万 07. ブラジル
2 億 5300 万
08. バングラデシュ
1 億 4200 万 08. バングラデシュ
2 億 4300 万
09. ナイジェリア
1 億 3200 万 09. コンゴ(旧ザイール) 1 億 7700 万
10. 日 本
1 億 2800 万 10. エチオピア
1 億 3900 万
16. 日 本
1 億 1200 万
(出典) 国連人口局。
〇〇〇万人から六億五〇〇〇万人に減少することが予
測されている。
国連の予測では、インドは二〇三〇年までには中国 を抜いて世界のトップに立つ。このころには、世界人
口の三人に一人はインド人か中国人ということになる。
現在トップ一〇に入っているアフリカ諸国はナイジェ
リア一ヵ国だけなのに、二〇五〇年には三ヵ国になる。
日本は一〇位から一六位に、ロシアは七位から一七位
に大きくランクを下げる ︵表④︶ 。先進地域で米国だけ
が、移住人口の増加を背景にトップ一〇にとどまりつ
づける見通しだ。
一方、二〇〇五∼五〇年に、約一〇ヵ国で人口が二 割以上も減ることが予測されている。とくに、減り方
が激しいのは、ウクライナの四三%、ついで、ブルガ
リアの三四%、ベラルーシの二八%、ラトビアの二七
%、など旧ソ連・東欧諸国が目立ち、ロシアも二二%
の減少が見込まれている。
28
世界人口がどこまで増えるかは、さまざまな予測があって混沌としている。国連は、二一〇〇年代 はじめに一二六億人︵中位︶で静止状態になるとみる。その一方で、一五〇億人を超えるとする予測 もあ る 。 日本の労働者不足
第二次ベビーブーム世代︵一九七一∼七四年︶以降、日本の合計特殊出生率は毎年のように最低を 更新してきた。二〇〇三年の合計特殊出生率は﹁一・二九ショック﹂を引き起こし、小泉内閣では少
子化対策の特命担当大臣まで任命された。ところが、二〇〇六年には一・二六人まで下がった。国立
社会保障・人口問題研究所は、二〇〇六年一二月に新しい将来人口推計を公表し、合計特殊出生率の
長期見通しを、一・二六人で安定するという下方修正をした。将来の年金の支え手が減って、制度そ のものが崩壊する危険性が現実化してきた。
二〇〇二年の前回推計と比較すると、総人口はさらに減少して二〇五五年には八九九三万人︵中位 推計︶となる見通しだ。このとき、一五∼六四歳の働き盛り︵生産年齢人口︶が一人で、一四歳以下
の若年者か六五歳以上の高齢者を一人支えるという事態になる。生産年齢人口はすでに一九九五年に
ピークに達し、団塊の世代が六五歳を迎える二〇一二年からその減少スピードは一段と速まる ︵図❺︶ 。
今後、生産年齢人口の減少がさらに加速することは必至で、それだけ労働力も不足する。厚生労働 省が二〇〇七年一一月に発表した推計によると、一〇年後の二〇一七年には労働力人口は約四四〇万
29 第 1 章 世界に広がる人種抗争
2005 年 人口のピーク 15∼64 歳 6,000
2050 年に 1967 年ごろの 水準 65 歳以上 図❺ 日本の人口構造の推移 (万人) 1967 年 14,000 初めて 12,000 1 億人台へ 10,000
8,000
将来推計値 4,000
2,000
0∼14 歳 0 1950 1960 1970 1980 1990 2000 2010 2020 2030 2040 2050 年 (出典) 2003 年までは総務省統計局「国勢調査」 ,2004 年以降は国立社会保障・人口 問題研究所推計。
人減り、二〇三〇年には約一〇七〇万人が減少する。
女性や若者・高齢者の就業が最大限増えたとしても、
二〇三〇年には約四八〇万人の労働者が不足すること になる。
急激な少子高齢化が進むなか、日本が活力を維持し ていくためには外国人労働者をもっと受け入れるべき
だとする議論が、主として産業界側から起きている。
肉体労働で仕事がきつい割りには収入の低い仕事につ
く日本人の若者は激減しており、現実にアジア諸国な
どからの短期の外国人労働者なしではやっていけない 業種も多い。
政府はこれまでも制度をつぎはぎして、アジア諸国 の労働者や南米の日系人を受け入れてきた。しかし、
あくまでも短期の労働力として扱っているだけだ。単
純労働者については、高齢者などの雇用機会が奪われ
る恐れがあることなどから、日系人や日本人の配偶者
などを除き、原則として門戸を閉ざしている。
30
厚生労働省によると、国内の外国人労働者は二〇〇二年時点で七六万人を超え、その一〇年前より 約三割増えた。ただ、労働力人口に占める割合は一・一%で、ドイツの約九%、フランスの約六%な どに比べると、かなり低い水準だ。
他方、受け入れに反対する意見も強い。労働力補塡のための移民政策が、受け入れ国にとって割り に合わないことは、﹁ドイツなどの経験からも証明される﹂﹁欧米では移民をめぐるトラブルが多発し
ている﹂といった理由である。﹁日本の食糧自給率、国土面積などを考えると人口は五〇〇〇万人程
度が適切であり、今後の世界人口の増加を考えると日本が身の丈にあった国になって何が悪いのか﹂ とい う 意 見 も あ る 。
高度な技能や専門知識を持つ人材を集めるために、政府は一九九九年八月の閣議で、﹁専門的・技 術的分野﹂の外国人労働者の受け入れを積極的に推進する方針を決めた。大学教授、外資系企業経営
者、弁護士などが対象で、約一八万人が日本政府から最長三年の在留資格を取得して就労している。
だが、高度な技能や専門知識を持つ人材は、途上国の発展のためには欠かせない。それを日本が高 給で奪ってしまうのは、その国の未来を奪いかねない。政府はフィリピンとの協議で、不足する看護
師をフィリピンから受け入れることを決めた。しかし、フィリピンでは現役看護師の八五%がすでに
海外で働いていて、国内では看護師の不足が深刻化している。両国の決定は、この現実をさらに深刻
このように見ていくと、将来の労働市場はかなりきびしく、経済や社会への影響もかなり大きいこ
化させることになるだろう。
31 第 1 章 世界に広がる人種抗争
とが予想される。人口が減るのにまかせて、 ﹁経済大国﹂から﹁普通の国﹂になっていくのか。移民
を大量に受け入れるのか。あるいはロボットの導入や女性・高齢者の労働力掘り起こしなどの対策で
しのげるのか。そうした﹁先延ばし﹂の議論の間にも日本人は刻々と減りつづけている。
本当の危機とは何か﹄高橋伸彰、ミネルヴァ書房、二〇〇五年
女 と 男 の エ ン パ ワ ー メ ン ト の た め に ﹄ フ ラ ン シ ス・ ラ ッ ペ、 レ イ チ ェ
生態学的アプローチ﹄ジョエル・コーエン︵重定南奈子ほか訳︶、農山漁村文化協会、一九
﹃文明としての江戸システム﹄鬼頭宏、講談社、二〇〇二年
九八年
﹃新﹁人口論﹂
│
ル・シュアマン︵戸田清訳︶、新曜社、一九九八年
﹃ 権 力 構 造 と し て の︿ 人 口 問 題 ﹀
│
﹃人口減少社会の未来学﹄毎日新聞人口問題調査会編、論創社、二〇〇五年
﹃少子高齢化の死角
│
﹃国際大移動﹄ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー︵野村修訳︶、晶文社、一九九三年
﹃移民社会フランスの危機﹄宮島 喬、岩波書店、二〇〇六年
︻参考文献︼
32
インド洋大津波による被害 (インドネシア・アチェ州のモスク前,2004 年 12 月 27 日) 写真提供 ロイター=共同
巨大化する災害
2
開発で脆弱化する自然 第
章
二〇〇四年暮れのインド洋大津波にはじまって、ハリケーン・カトリーナの米国上陸、インド・パ キスタン大地震、フィリピンの山崩れ、アフリカの飢饉⋮⋮と自然災害史上に残る大惨事が世界各地 で発 生 し て い る 。
国際赤十字社・赤新月社連盟︵本部ジュネーブ︶の二〇〇六年版の﹁世界災害報告﹂によると、二 〇〇五年一年間に世界中で発生した自然災害と大事故は合計七四四件で、死者数は九万九四二五人、 被災者数は約一億六〇〇〇万人に達した。
被害総額は推計約一六〇〇億ドルで、スマトラ沖地震が発生した二〇〇四年を上回った。これは阪 神・ 淡 路 大 震 災 が あ っ た 一 九 九 五 年 の 二 三 八 一 億 ド ル に 次 ぐ 被 害 総 額 で あ る。 損 害 保 険 の 最 大 手 の
ミュンヘン再保険の統計によると、過去一九七五年から二〇〇五年の間に一五倍にもなっている。
だが、この被害規模が急拡大しているのは、地震や台風や干ばつの発生件数が増えたためではない。 発生件数が変わらないままに、一件あたりの被害が以前とは桁違いに大きくなっているのだ。人口増
加で、災害が起きやすいとわかっている海岸の高潮地帯や低湿地、雨量の少ない乾燥地などの土地に
住まねばならない人が増えている。しかも、森林破壊や乱開発によって、以前と同じ規模の豪雨や地 震に襲われても影響を及ぼす範囲が広くなっている。
温暖化に伴う異常気象の増加で、雨がまとまって降ったり、まったく降らなかったりと、一段と洪 水と干ばつが増えている。名は﹁自然災害﹂であっても、その被害の多くは﹁人為災害﹂なのだ。
34
災害の定義
﹁災害﹂を論じるときにまず当惑するのは、その定義があまりに曖昧なことだ。熱帯性暴風雨、地 震、火山噴火といった自然現象は国際的な観測網ができているのに対し、それが人間生活に及ぼす影
響の面での研究が大きく立ち遅れていることが、定義の曖昧さの主な理由であろう。
震度が何度、風力が何メートルといった自然現象を重視するのか、あるいはその結果引き起こされ た死傷者数や倒壊戸数などの被害に重点を置くのかでも、統計は大きく違ってくる。当然のことなが
ら、気象、地球物理、地質畑の研究者は自然現象派であり、地震、津波、暴風雨、火山噴火などの異 常な気象現象を﹁災害﹂としてリストに挙げている。
一方、国際赤十字や政府機関のものは、救援活動に重点を置くだけに被害中心の統計だ。損害保険 会社の統計は、損害額に力点を置いている。さまざまな基準の統計が入り乱れていたが、国連が一九
九〇年代を﹁国際防災の一〇年﹂に指定して、日本も積極的に活動した。その終了後の二〇〇二年に
事務局を引き継ぐ形で、国連に﹁国際防災戦略﹂︵ISDR︶が発足した。 D − A T ︶ が つ く ら れ、 そ の 対 象 と す る 自 然 災
ISDRの要請で﹁国際災害データベース﹂︵EM 害を以下の三つに分類している。
① 気象学的災害 洪水、干ばつ、高潮、異常寒︵熱︶波、土砂崩れ、雪崩など ② 地球物理学的災害 地震、津波、火山噴火 ③ 生物学的災害 疫病、病虫害
35 第 2 章 巨大化する災害
表① 国際災害データベースに 自然災害として登録される条件
表② 損害再保険会社の 自然災害の定義 ① 10 人以上の死亡
① 20 人以上の死亡または行方不明 ② 100 人以上の被災
② 50 人以上の負傷者 ③ 国家非常事態宣言の発令
③ 2000 人以上の家屋喪失者 ④ 国際救援の要請
④ 一定以上の経済的損失
そして、その個々の災害規模が表①の四条件の一つ以上を満たす場合に、 自然災害としてデータベースに登録される。現在では、この定義が一般的
に使われるようになっている。一方で、国際的な損害再保険会社であるス
イス再保険︵本社・チューリヒ︶やミュンヘン再保険は表②のような基準 で統計を発表している。
日本における災害の定義も、学術や行政の分野においてさまざまだが、 災害対策基本法第二条においては﹁暴風、豪雨、豪雪、洪水、高潮、地震、
津波、噴火その他の異常な自然現象又は大規模な火事若しくは爆発その他
その及ぼす被害の程度においてこれらに類する政令で定める原因により生 ずる被害﹂としている。 増える自然災害の被害
過去一〇年間にわたって、自然災害の件数も被害を受ける人々の数も増 加している。被災者の九八%までが発展途上地域に集中している。
−ATで自然災害の発生件数を調べてみると、一九七〇年代以後 EM D 急増していることがわかる ︵図❶︶この発生件数を一〇年ごとに見てみよ
う ︵表③︶ 。発生件数は、一九〇〇∼〇九年当時は七三件だったのが、一九
36
図❶ 自然災害発生件数(1900∼2006 年) (件) 550 500 450 400 350 300 250 200 150 100 50 0 1900 1910 1920 1930 1940 1950 1960 1970 1980 1990 2000 年 (出典) EM-DAT(The OFDA/CRED International Disaster Database〔www.em-dat. net.〕Université Catholique de Louvain, Brussels-Belgium).
表③ 10 年刻みの自然災害の発生件数 1900- 1910- 1920- 1930- 1940- 1950- 1960- 1970- 1980- 1990- 2000合計 09 19 29 39 49 59 69 79 89 99 05 気象学的災害
28
72
56
72
120
232
463
地球物理学的 災害
40
28
33
37
52
60
88
124
232
325
233 1,252
生物学的災害
5
7
10
3
4
2
37
64
170
361
420 1,083
73
107
99
112
176
294
588
合 計
776 1,498 2,034 2,135 7,486
964 1,900 2,720 2,788 9,821
(出典) EM DAT.
九〇∼九九年には二七
二〇件になってこの一
〇〇年間で三七倍にも
なった。二〇〇〇∼〇
五年の六年間で二七八
八件、それ以前の一〇
年を超え、すでに﹁史
上最多の一〇年間﹂の
記録を更新した。
一九九四∼二〇〇五 年の一〇年間の人口一
〇〇万人あたりの被災
者は、中国が最悪で、
ついでインド、イラン、
バングラデシュ、エチ
オピアとつづく。被災
者の九八%までがアジ
37 第 2 章 巨大化する災害
図❷ 自然災害の経済的損失(1975∼2005 年) (10 億ドル) 250
中国・長江 大洪水 150
イタリア 南部地震 100
50
ハリケーン 「カトリーナ」など 阪神・淡路 大震災 200
0 1975 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 2000 01 02 03 04 05 年 経済的損失の大きかった大災害 (出典) スイス再保険。
アとアフリカの発展途上地域に集中して、自然災害も貧困と
密接な関係にあることを物語っている。これを経済的損失か
らみると、阪神・淡路大震災のあった日本が一六六〇億ドル
でもっとも大きく、これに米国、中国、北朝鮮、トルコとい
う順になる。インフラや建造物に巨額な投資が行われている
日米では、同規模の災害でも経済的被害は大きいことになる。
一方、再保険会社の大手スイス再保険は、パキスタン大地 震や米国・中米のハリケーンなど、二〇〇五年に世界各地で
発生した災害の被害総額は約二二五〇億ドル︵約二七兆円︶
にのぼり、保険金の支払総額も約八〇〇億ドルに達して、い
ずれも過去最高であると発表した ︵図❷︶ 。
同社によると、二〇〇五年に発生した自然災害・人災の死 者総数は約一一万二〇〇〇人。死者がもっとも多かったのは
一〇月に起きたパキスタン地震の約七万五〇〇〇人だが、被
害総額では、米国を襲ったハリケーン﹁カトリーナ﹂が約一
三五〇億ドルでトップだった。これまで災害に対する保険金
の支払額がもっとも多かった年は二〇〇四年で、被害総額は
38
約一二三〇億ドルだった。そのうちの四九〇億ドルが、インドネシア・スマトラ島沖地震と大津波に よる も の だ っ た 。 環境悪化と自然災害
世界の気象統計を調べると、干ばつ、洪水、暴風雨、地震といった異常現象の発生件数が以前より も大幅に増えたという事実は出てこない。災害を引き起こす可能性のある暴風雨、地震などの﹁災害
原因事象﹂︵英語では hazard ︶ な ど の 異 常 気 象 の 発 生 頻 度 を 調 べ た 研 究 に よ る と、 地 表 一 万 平 方 キ ロ あたり年間〇・二七件前後で、過去数十年ほとんど変わっていない。
︵ disaster ︶は急増している。異常 ところが、すでに述べたように被災者数や損害額などの﹁被害﹂ 気象が自然災害として扱われるかどうかは、 ﹁国際災害データベース﹂に登録される条件で決まって くる。
自然災害の発生件数が近年急増しているということは、この定義に当てはまる災害の被害規模の拡 大が進んでいることを意味する。つまり、﹁災害原因事象﹂の件数は変わらなくても、災害に巻き込
まれて﹁被害﹂を受ける人数が増えていることになる。いくら巨大地震が南極で発生しても、被害が なければ自然災害にはならない。
災害に関しても数々の名文句を残した物理学者で随筆家でもあった寺田寅彦は、この違いを﹁﹃地 震の現象﹄と﹃地震による災害﹄とは区別して考えなければならない﹂と書いている。そして、現象
39 第 2 章 巨大化する災害
のほうは人間の力でどうにもならなくても、 ﹁災害﹂のほうは注意次第でどんなにでも軽減されうる 可能性があると説明を加えている。
災害研究の拠点になっているベルギーのルーバン大学の研究グループによれば、一九七〇年代に発 生した地震のうち、人間の居住地域に影響を及ぼしたものはわずか一一%しかなかった。ところが、
一九九三∼二〇〇三年には三一%にまで増加した。これも、地震の発生件数が増えたのではなく、地 震の発生地帯に住む人が増えたことを物語っている。
これは、暴風雨被害を受けやすい海岸地帯でも同じである。世界人口のほぼ四〇%が、陸上面積の 七%しかない海岸地帯に住んでいる。この地域の人口密度は、一九九〇年には一平方キロあたり七七
人だったが、二〇〇五年には一一五人に増えた。この人口の急増が、台風やハリケーンなどの被害を さらに大きなものにしている。
米国を例にとると、海岸の近くに移り住む人が増えて、現在では二億九八〇〇万人の米国民のうち、 半分以上が海岸地区に住んでいる。ハリケーンの通り道にあたるフロリダ州の人口は、一九五〇年以 来五倍に増加し、今ではその八〇%が海から三〇キロ以内に住んでいる。
この災害件数増の背後には、環境破壊が地球規模で進行していることがある。傷めつけられた自然 が災害を招き、脆くなった自然が災害の被害を拡大させる。発展途上地域では森林や土壌の破壊が急
速に進んでおり、保水や土壌保全の機能が低下して、以前なら小さな被害で収まったはずの豪雨や干 ばつでも、多くの犠牲者を出すようになった。
40
さらに、人口の急増から、洪水や高潮に襲われやすい川岸や海岸の低湿地、土砂災害の起きやすい 急斜面、降雨の不安定な半乾燥地帯など、危険な場所にまで住まざるを得なくなってきたことが、被
神の仕業か人間の仕業か﹂では、その理
害を加速度的に拡大している。 ﹁天災﹂とされて、半ば諦められてきた災害は、いつしか﹁人災﹂の 色が濃くなっていたのである。
│
スウェーデン赤十字社が発表したレポート﹁自然災害 由をこう説明している。
﹁現在、貧しい国々で続いている人口の爆発、その結果起きている過剰農耕・放牧による土地の 侵食、砂漠化、森林の乱伐や山地の破壊による水源の荒廃で、小さな災害でも被害の大きくなる素
地が広がっている。都市でもスラムの膨脹などによって、貧困層が低湿地や急傾斜地の災害の影響 を真っ先に受ける場所に集中している﹂ 温暖化と災害
今後予想される最大の災害は、地球温暖化によってもたらされるものであろう。カトリーナは、中 心気圧が九一〇ヘクトパスカル前後まで発達し、中心付近の最大風速は八〇メートル近くに達した。 六〇メートルで鉄塔が曲がるといわれるから、想像を超えた強風である。
カトリーナはなぜここまで勢力を強めたのか。米国立ハリケーン・センターによると、発生地域で ある大西洋の西インド諸島付近は、七月の海水温が二九度で、いつもの年より一度近く高かった。台
41 第 2 章 巨大化する災害
風は、二六度以上の暖かい海水をエネルギーにして発達し、水温が高くなればそれだけ大型化する。 これに海面上昇が加われば、さらに沿岸部の被害は拡大することになる。
米ジョージア工科大のグループによると、カテゴリー4︵最大風速五八メートル超︶以上の台風な どの発生件数は一九七〇年代には全世界で年間一〇件程度だったが、一九九〇年代以降一八件に達し、 全体に占める比率も二〇%未満から三五%へと増加した。
また、米マサチューセッツ工科大のグループは、暴風雨がより強大かつ長時間継続する傾向が出て いるという。両グループともに、こうした原因について地球温暖化による海水温の上昇が関わってい
る可能性を指摘している。米海洋大気局も﹁二一世紀末には、さらに強大で降雨量も多いものが発生 するようになる﹂と予測している。 最近の自然災害と環境悪化
最近の大災害の背後に、どんな環境上の問題があったかを検証してみよう。 ⑴ インド洋大津波
二〇〇四年一二月二六日にスマトラ島沖で発生した大地震は巨大な津波を引き起こし、インド洋を 取り巻くタイ、インドネシア、スリランカ、インド、さらにはアフリカ東海岸など一二ヵ国で、犠牲 者だけでも約二二万六〇〇〇人にのぼる甚大な被害をもたらした。
42
大きな被害を受けたタイをみると、海岸地帯 は一九八〇年代以来アジアの代表的な国際リ
ゾート地として大きく発展を遂げた。ホテルや
レストランが軒を連ね、世界中から観光客が集
まるようになった。大津波の死者・行方不明者
に、外国人観光客が約九〇〇〇人も含まれてい
たことがそれを物語っている。一九八五年当時、
タイを訪れる観光客は約二四〇万人だったが、
二〇〇五年には一三四〇万人と五・六倍になり、
43 第 2 章 巨大化する災害
この間、観光収入は三万二〇〇〇バーツから四
五万バーツへと一四倍にもなった。いまや、観
光はタイの重要な外貨獲得源である。
ア諸国で、マングローブ林を伐採してその跡に
タイをはじめインドネシア、インドなどのアジ
となっていた。ところが一九七〇年代半ば以降、
もともと東南アジアからインド洋の海岸地帯 の多くはマングローブ林が覆い、天然の防波堤
エビ養殖池の放棄地。マングローブ林を掘り返してつくるが,10 年ほどで使 えなくなる(タイのチャンタブリ近くで)。
掘った養殖池でエビの生産が急増して、現在では世界のエビ養殖の九割をアジアが占めるまでになっ た。
タイでは過去三〇年間にエビ養殖場は三万ヵ所を超えた。同時に、マングローブからは良質な木材 や炭がとれるので大量に伐採され、木材として近隣のシンガポールなどへ輸出され、炭は日本などに
輸出されている。国連環境計画︵UNEP︶は事件後に﹁津波後の緊急環境アセスメント﹂として、
環境被害の報告書を発表した。そのなかで、マングローブの消失が津波の被害を大きくしたことを指 摘し て い る 。
世界資源研究所︵WRI︶などの調査では、マングローブ林の消失は一九七五年以後タイで八七%、 インドで八五%、世界最大のマングローブ保有国のインドネシアでも四五%に及んでいる。これが、 津波の被害を拡大することになった。
米国の研究者が調べたところ、今回と同じ震源の大地震と大津波は二四〇年前にも起きていた。地 震で隆起して死滅したサンゴ礁の痕跡からわかったものだ。記録にはほとんど残っていないが、当時
は海岸際の人口も限られ、ほとんど開発されていなかったために被害は少なかったと思われる。 ⑵ ハリケーン・カトリーナの米国上陸
ハリケーン﹁カトリーナ﹂は二〇〇五年八月二八日に米国本土に上陸、ニューオーリンズを直撃し てミシシッピ川の堤防が決壊、市の八割が水没した。死者・行方不明者は約一八六〇人。被災者約五
44
メキシコ湾を米国に向かって進む大型ハリケーン「カトリーナ」の衛星写真 (2005 年 8 月 29 日) 。
〇万人と推定される。
カトリーナの被害は、保険がかけられてい たものだけでも七〇〇億ドルに達したと推定
される。都市や行政機能は完全にマヒして数
百万人もの人々が避難したが、逃げ切れずに
死者が続出した。失業率や物価が急上昇し、
世界でもっとも豊かな社会が自然の猛威の前
になすすべもなかった。
を十分に理解できない移民人口の増大といっ
た社会的な変化も起きていた。この一帯での
避難計画は、避難者が車を持ち英語を話せる
ことを前提につくられていた。だが、被害が
集中した低所得者層は車を持たず、英語を話
せない人も多くて情報が伝わりにくかったた
めに、避難計画があまり機能しなかったこと
45 第 2 章 巨大化する災害
さらに、人口の高齢化、温暖な南部の州ゆ えの介護や扶養の施設の増加、貧困層や英語 写真提供 ロイター=共同(米海洋大気局)
も指 摘 さ れ て い る 。
世界で三番目に長いミシシッピ川の河口には、上流から運ばれてきた土砂で巨大なデルタ地帯が形 成されている。過去五〇〇〇年間に川は気ままに流路を変え、ひんぱんに洪水を繰り返してきた。
マーク・トウェインの﹃ミシシッピの生活﹄︵一八七九年︶にはこんな一節がある。﹁ミシシッピ川の
手に負えない流れを手なずけることも、制御することも、障害物で行く手を遮ることもできない﹂ 。
一九世紀はじめにデルタ地帯に移住してきた白人入植者たちは、黒人奴隷を使って大規模な砂糖キ ビや棉花のプランテーションをつくりあげた。南北戦争後は、解放された奴隷たちが農地を求めて、
低湿地に大挙して流れ込んできた。高潮の被災者には彼らの子孫が数多く含まれている。
入植がはじまる前には河口地帯には一万五〇〇〇平方キロの湿地が広がっていた。初期の入植者が 自力で堤防を築いて以来、今日まで営々と建設がつづいてきた。一八八〇年以後、州政府が独自で堤
防を築き、干拓して土地の売却を開始した。一〇〇年前までは、ニューオーリンズの町は、メキシコ
湾の海岸線までおよそ八〇キロもつづく湿原によって守られていた。ハリケーンが襲来しても、湿原 が高潮の衝撃の大半を吸収してくれた。
だが、町は湿原を埋め立てながら膨張をつづけてきた。この数十年間には、海岸沿いに家が隙間な く立ち並ぶようになった。これまでに五〇〇〇平方キロ、愛知県に相当する面積の湿地が失われ、町
一方、一九七〇∼八〇年代には、石油価格の高騰を背景にこの湿地帯で油田・ガス田の開発が加速
から海岸までの距離は三〇キロほどに縮んでしまった。
46
し、石油やガスとともに膨大な地下水が汲み上げられ、地盤沈下が進行していった。
土砂の堆積と地盤沈下が相まって、ミシシッピ川の河口地帯は平均して海面よりも四・二メートル も高い天井川になっていた。ニューオーリンズ市の八割までが﹁海抜ゼロメートル地帯﹂で、市の中
心部は平均して約二メートルも海面より低く、地域によっては三・五メートルも海面下にある。ちょ うどお椀の底のような地形だ。
こうした地形上の理由から、同市とその周辺はこれまでもしばしば大きな洪水に見舞われてきた。 一九二七年には全市が完全に冠水し、一九七九年や一九九五年の大雨で一部地域が浸水している。一
九六五年のベッツィー、一九六九年のカミール、一九九八年のジョージ、二〇〇二年のリリーなど、 ハリケーン上陸のたびに大きな被害が出た。
カトリーナによる被害で注目されることは、死者・行方不明者の七割までが六〇歳以上だったこと だ。災害の被害が高齢者に集中するのは洋の東西を問わない。二〇〇四年の新潟県中越地震は死者の
六割が六五歳以上で、二〇〇五年の台風第一四号による土砂災害による死者・行方不明者も六八%が 高齢 者 だ っ た 。
さらに、二〇〇六年の豪雪被害でも、屋根の雪下ろしなどの除雪作業中の事故や倒壊した家屋の下 敷きになって多数の死者を出したが、そのうち三人に二人が高齢者。二〇〇七年の中越沖地震による
一一人の死者の平均年齢は七五歳を超えていた。世界的な高齢化で、ますますこうした被害が拡大す るも の と 思 わ れ る 。
47 第 2 章 巨大化する災害
⑶ インド・パキスタン大地震
二〇〇五年一〇月八日、マグニチュード七・六の大地震がインド・パキスタンにまたがるカシミー ル地方を襲った。パキスタン側の被害が大きかったが、インド北部やアフガニスタンにも広がった。
犠牲者は両政府の発表では約七万四〇〇〇人、被災者は約三〇〇万人にのぼると推定される。この一 帯はもともと地震の多発地帯として知られる。
直撃されたパキスタンは、アジアの最貧国の一つだ。一日あたり一ドル以下で暮らす最貧困層は国 民の一三%、二ドル以下では六六%を占める。しかも、人口は一億五八〇〇万人︵二〇〇五年︶ 。一
九八〇年以来人口はほぼ二倍に膨れ上がり、いまや世界第六位の人口大国だ。人口密度は一平方キロ
あたり二〇〇人近い過密国である。アジアの平均の一・六倍もある。このために、農民の二二%は農 地を持てないと国連食糧農業機関︵FAO︶はみている。
震源となった山岳地帯は、この人口爆発と貧困のために山麓から押し出されて山岳地帯に移住して きた人々が集中していた。過去三〇年間で山岳地帯の人口は二∼三倍に膨れ上がったと推定される。
この一帯では、急な斜面にやっとしがみついた集落が点在している。いずれも、最近引っ越してきた 最下層の貧しい人々だ。
FAOの森林統計︵二〇〇〇年︶では、森林は国土面積の三・一%しかなく、それも毎年一・五% ︵アジア平均〇・一%︶という速い速度で減少している。耐震性を無視した建造物が多く、日干しレ
ンガでつくった家は地震にもろかった。山間部では道路が寸断されて救援物資を満足に送ることがで
48
きず、被災者を増やすことにもなった。
ヒマラヤ山脈の一部をなす急峻な山岳地帯であるカシミール地方は、一九四七年のパキスタンとイ * ンドの独立以来、長年にわたって両国が領有権をめぐって武力衝突をつづけてきた。厳密には、震源 の位置は﹁停戦ラインのパキスタン側の地域﹂と呼ぶべきであろう。
長引く紛争のために、両国側ともにインフラの整備が大きく立ち遅れ、住民の防災や安全には気が 配られることもなく、貧困地帯のなかでも際立った貧困地域になっている。今回の地震でも初期の救
援活動には兵士の姿がほとんど見られず、軍の工兵部隊は被害を受けた軍施設の復旧を優先していた とい う 。
* カシミール地方の領有をめぐって、インド、パキスタン間で 一九四七∼七一年に三回にわたっ 印パ戦争 て起きた戦争。これ以外にも、両国は断続的な武力抗争をつづけてきたが、現在は小康状態を保っている。イ ギリスから分離独立した当初からの国境画定が尾を引いている。
⑷ レイテ島土砂災害 二〇〇六年二月、フィリピンのレイテ島セントバーナードを襲った大規模な地すべりが発生し、約 二〇〇〇人の村人を一瞬にして呑み込んだ。千数百人ともいわれる行方不明者を残して捜索は打ち切
直接的な原因は政府担当者によると、二週間ほどの間に南レイテ州の二月の月平均雨量より四倍も
られ た 。
49 第 2 章 巨大化する災害
*
多い五〇〇ミリを超える豪雨だった。当時、﹁ラニーニャ現象﹂が発生していたために降水量が増大
したという。現場一帯には縦横に侵食谷が走り、ここに雨水が流れ込んで斜面が広範囲に滑り落ちた、 とみ ら れ て い る 。
フィリピンの専門家や国際環境保護団体は、違法伐採の横行が地滑りを誘発させたと指摘している。 伐採業者が地元有力者や政治家と癒着して違法伐採がはびこっており、さらに貧困から住民は無許可 で樹木を伐採している。
フィリピンは第二次大戦後もっとも森林を失った国の一つである。FAOの調査で、一九八一年に は国土の四一%が森林だったのが、二〇〇〇年の最新の調査では一九%に半減した。なかでもレイテ 島はもっとも森林消失の激しい島だ。
レイテ島オルモックでは一九九一年一一月にも、約八〇〇〇人と推定される死者を出す大規模な土 砂災害に見舞われている。貧困層がスラムをつくって多数住んでいた中洲が集中豪雨に直撃されて、 被害が大きくなった。
│
レイテ島、死者八千人の大災害﹄︵加藤薫、草思 この地すべりについては、﹃大洪水で消えた街 社、一九九八年︶に詳しい。同書によると、フィリピンの他の地域と同じく、日本へ輸出するために
伐採が進み森林が失われた。さらに、地元の大農園主が土地を買い集めて砂糖キビの農園として開発
森林が伐採されて広い範囲で裸地ができたために、熱帯の強い雨が降るたびに表土が流失して農地
して い っ た 。
50
が荒廃していった。保水力が失われて洪水や地滑りが多発するようになっていった。貧しくて砂糖キ
ビ農園に農地を売らざるを得なくなった小作人や零細農民が、職を求めてこの地域の中心都市である オルモックに流れ込んできた。
しかし、貧しい人々は、危険な川の中洲にスラムをつくって住み着くしかなかった。また、近くの 島々では、森林の減少で農地が荒廃して農作物の生産が落ち、食べられなくなった農民もスラムに流
入して、荷揚げ作業、運転手、日雇い労働などで暮らすようになった。この中洲はイスラベルデ︵緑 の島︶という、あまりにも不釣り合いな名で呼ばれていた。
* エルニーニョと同じく異常気象の発生の原因になる。エルニーニョ現象とは逆に、東太 ラニーニャ現象 平洋赤道上で海水の温度が低下する現象。スペイン語でエルニーニョが男の子を意味するのとの反対に﹁女の
子﹂を意味する。ラニーニャが発生すると高温、低温、多雨、少雨などが発生する。近年では二〇〇六年七月 から翌年二月ごろにかけて発生した。
貧困が呼び込む災害
﹁ 国 際 災 害 デ ー タ ベ ー ス ﹂ を 見 る と、 災 害 多 発 国 は 発 展 途 上 地 域 に 集 中 し て い る こ と が わ か る。 そ れぞれの統計のワースト二五の国をとってみると、﹁被災者数﹂の全二五ヵ国、 ﹁死者数﹂では一九ヵ
国までを発展途上地域が占めている。貧しい人々が多いということは、それだけ災害に対する備えも 乏しいことを意味する。
51 第 2 章 巨大化する災害
人口の急増でこんな急斜面にまで家が建つようになり,豪雨や地震による崖崩 れの犠牲になる(リオデジャネイロ市内で)。
│
災害リ 国連開発計画の報告書﹁世界報告書 スクの軽減へ向けて﹂ ︵二〇〇四年八月︶による
と、﹁人間開発低位国﹂ 、つまり貧しくインフラ整
備も社会的サービスも立ち遅れた国ほど、災害時
の死亡者数も増える。人間開発低位国に住む人の
割合は、自然災害の総被災者数においては一一%
を占めるにすぎないのに対し、総死亡者数におい
ては五三%以上をも占める、という調査結果が発 表されている。
東南アジアや南太平洋、中南米を襲う熱帯性暴 風雨で、もっとも被害が集中するのが海岸や都市
のスラムである。こうした国々でも、しっかりと
したコンクリートの家に住んでいた富裕層には被
害が少ない。地震においても、土砂被害の少ない
平野部で、耐震性のある建造物に住む層は被害が
ほとんどない。いつ襲ってくるかわからない災害
へ備えるほど余裕のある家庭はきわめて少ない。
52
災害が発生しても、貧しいがゆえに被害からの回復もままならず、その教訓を生かして次の災害に備 えることもできない。
貧しい人々ほど災害の犠牲になりやすいのは、こんな構図からも見えてくる。中米のホンジュラス は、ハリケーンの通り道である。一九九八年に﹁ミッチ﹂が上陸したとき、約一万五〇〇〇人の死者
と約八〇〇〇人の行方不明者を出した。この数字も、氾濫した川の橋の上で上流から流れてくる死体 を数えて推定しただけだ。
ホンジュラス北部のサンペドロスラ谷一帯は、肥沃な土壌の一大農業地帯だった。だが、わずか四 %の大地主が六五%の農地を専有する大土地所有制が幅をきかせている。ここに、一九五〇年代から
米国の多国籍果物会社が進出してきた。肥沃な土地はバナナ農園として買い上げられ、農民は斜面を
上へ上へと追い立てられていった。斜面は開墾のために森林をはぎ取られて剝き出しになり、豪雨で たちまち崩れ落ちるようになってしまったのだ。
地震に関してはまだ予報もできず、発展途上地域と先進地域、貧困層と富裕層に平等に起きている。 だが、ここでも被害には歴然とした差がある。一九七六年に中米のグアテマラで起きたマグニチュー
ド七・五の大地震は、死者二万二〇〇〇人、負傷者七万五〇〇〇人、人口六〇〇万人のうち一〇〇万 人が家を失う最悪のものとなった。
最大の被害は、首都グアテマラ・シティのスラム街だった。スラム街といっても、都市周辺の谷間 や急斜面にへばりついたバラック群で、ここで一二〇〇人が地滑りで生き埋めになった。次の被害者
53 第 2 章 巨大化する災害
は山あいの高地に住む貧しい農民だった。平坦な高台に住む富裕層の被害はきわめて少なかった。
自然の破壊に歯止めがかからない限り、貧しい発展途上地域は自然災害から逃れられない。すでに、 アフリカのサヘル地方、エチオピア、ソマリアやインド亜大陸のインダス、ガンジス河口やヒマラヤ
山麓地帯、フィリピンのルソン島、ペルーやボリビアのアンデス一帯、ニカラグアやホンジュラスな
どの中米、カリブ海のハイチなどは、災害の連続パンチで局地的に自然も住民も回復不能に陥ってい る。
地球上の自然破壊は、歯止めがかからない。ということは、ますます﹁災害﹂に姿を借りた自然の 報復が激しくなっていくことを意味する。各地で大災害が起こるたびに、一時的な救援でお茶を濁し てきた。だが、問題は少しも解決されてこなかった。 災害に対して脆弱化する大都市
二〇〇五年一月に、阪神・淡路大震災一〇周年を記念して神戸で開催された﹁国連防災世界会議﹂ では自然災害に対する大都市の脆弱性について話し合われた。
都市における隠れた脆弱性の一つは、縦横に広がる地下鉄やモール、駐車施設、公共施設といった 地下領域だ。たとえば、東京の大規模な地下施設では、暴風雨や大雨により二年間で一七回浸水し、
死者が出たこともある。大雨の日に東京の地下街で買い物をすることが危険な行為になると誰が考え てい る だ ろ う か 。
54
先進地域、発展途上地域を問わず世界中の人口一〇〇万人を超えるメガシティでは、地下以外に利 用できるスペースがないために、積極的に地下の利用が進んでいる。とくに、発展途上地域では、多
くの都市の地下施設が洪水時に河川からあふれた水で冠水するような土地に建設されており、高潮や 大雨、津波に対して非常に脆弱だ。
地震対策に取り組む非営利団体、ジオハザード・インターナショナル︵GHI︶によると、発展途 上地域の都市人口はこの二五年間に一〇億人増加した。農村からあふれ出して都市のスラムに流れ込
んだ人々も少なくない。国連人口基金︵UNFPA︶によると、発展途上地域の少なくとも二三のメ
ガシティでは、一〇年以内に人口がそれぞれ一〇〇〇万人以上になるという。
問題となるのは高層住宅だ。大半の国には耐震性を決めた建築基準があるものの、この日本でも起 きたように有名無実化して手抜きが横行している。その監視体制や強制力を持つ法律も整備されてい ない 国 が 多 い 。
こうした状況を変えるには、建築基準の徹底、災害の警報システムと情報伝達手段の整備などが求 められるが、それだけの余裕のある発展途上地域は多くはない。神戸会議では﹁世界災害研究プログ
増えつづける被災者の数を見ているだけでも、地球がますます危険な場所になっていることがわか
加速する災害
ラム﹂の必要性が提唱されたが⋮⋮。
55 第 2 章 巨大化する災害
図❸ 災害被害者 (億人) 6
5
4
3
2
1
年 1900 1910 1920 1930 1940 1950 1960 1970 1980 1990 2000 0
(出典) EM-DAT(The OFDA/CRED International Disaster Database〔www.em-dat. net.〕Université Catholique de Louvain, Brussels-Belgium).
る ︵図❸︶ 。人口増も環境悪化もますます加速して災害に
巻き込まれる人を増やしている。都市のシステムもいよ
いよ複雑になって災害に無防備になっている。地球温暖
化が進めば、熱帯性低気圧が大型化して、暴風雨や洪水、
熱波や干ばつが増えることにもつながる。
ミ ュ ン ヘ ン 再 保 険 の 地 球 リ ス ク 研 究 所 の ピ ー タ ー・ ホップ所長は﹁近年のハリケーン上陸に伴う連続した大
被害は、異常気象の著しい増加と地球温暖化との関連が
いっそう強まってきたことの証拠にほかならない﹂と 語っている。
今後、災害がいっそう激しくなるという予測を受け、 国連の専門家や防災活動家たちは、各国政府に対して防
災計画や体制を整えるよう強く働きかけている。神戸の
﹁国連防災世界会議﹂では、豊かな国より貧しい国のほ
うが立派な防災対策をしている例として、以下のような
二〇〇四年のハリケーン﹁アイバン﹂は過去五〇年で
ケースが報告された。
56
最大規模だったが、その直撃を受けたキューバで一人の死者も出なかったのに対し、上陸時には勢力
が弱まっていたにもかかわらず、米国で二五人もが死亡した。キューバには綿密に計画された避難体
制が整い、避難時に手助けが必要な地域住民のリストまできちんと配布されていた。
二〇〇二年、ジャマイカの首都キングストン郊外の沿岸低地で大がかりな避難訓練が実施され、避 難計画も見直された。二年後にアイバン襲来で六メートルもの大波が押し寄せたときは、多くの家屋
が破壊されたものの死者は八人にとどまった。一般市民にも被害者の捜索や救出の方法が周知され、 危険地域の町には訓練を積んだ洪水警戒チームが配備されていたからだ。
平均すると、日本では、世界で起きるマグニチュード六以上の地震の一〇%が発生している。一九 九四年以後に限れば、二一%が発生していることになる。地球の陸地面積の〇・一%の日本列島にこ
れだけ集中しているのは異常であり、日本人はこうした危険と隣り合わせで生きている。日本は﹁国
際災害データベース﹂では、世界でもっとも災害による経済的損失の大きな国である。
災害国の日本では、災害と共存するさまざまな知恵があった。戦国武将の加藤清正は、阿蘇山から 流れ出る白川、黒川の二つの流れに時差を与えることで、下流の流量を一時的に増加させない工夫を
した。つまり、川が増水したときに一方の川を沼や遊水地に引き込んで時間を稼がせ、二本の川の増 水の時間をずらすことで下流の洪水を防いだ。
しかも、わざと堤防を低くして水が堤防を越えるようにし、なし崩し的に水量を減らして下流の負 担を軽くし、川水に含まれた火山灰を上流で沈殿させて下流で河床が上昇するのを防ぐ手だてもとっ
57 第 2 章 巨大化する災害
180
120W
60W
干ばつ:2004 年 6∼9 月 干ばつ:2001 年 9∼翌年 10 月 寒波:1999 年 1 月 干ばつ:2000 年 3∼8 月 干ばつ:1998 年 5 月 台風:2004 年 6∼10 月 干ばつ:1999 年 1∼8 月 干ばつ:2003 年 7∼ 8 月 大雨:2003 年 6∼10 月 大雨:2002 年 6∼ 9 月 大雨:1999 年 6∼ 8 月 大雨:1998 年 5∼ 8 月 台風:2004 年 11∼12 月 台風:2001 年 11 月 大雨:1999 年 7 ∼ 8 月 大雨:2003 年 10∼12 月 ハリケーン:2004 年 8∼ 9 月 大雨:2000 年 9 ∼10 月 大雨:2004 年 5 月 大雨:1999 年 11∼12 月 大雨:1999 年 9∼10 月 大雨:2001 年 7 月
60N
0
ハリケーン:1998 年 9∼11 月 大雨:1999 年 10∼12 月
干ばつ:2002 年 3∼翌年 12 月 60S 180
120W
60W
た。
武田信玄は堤防に斜めに切れ目を 入れて、増水時に川から水が堤外に
流れ出るようにして、下流の洪水を
防いだ。水のあふれやすい場所には
人を住まわせず、田畑が冠水しても
免租措置をとって救済した。今のよ
うに、河川ぎりぎりまで住宅を建て
させるのとは大違いである。河川の
猛威を力ずくで抑えようとするので
はなく、なだめたりすかして飼いな
らしたのである。いまこそ、こうし
た先人の知恵が必要であろう。
国連が二〇〇五年に公表した﹁ミ レニアム生態系アセスメント﹂報告
書は、地球環境の現状と将来を予測
したものだ。それによると、地表の
58
図❹ 世界の主な気象災害分布図(1998 ∼ 2004 年) 0
60N
60E
120E
大雨:2002 年 8 月 洪水:2001 年 5 月 熱波:2003 年 6∼8 月 寒波:2001 年 1∼ 2 月 大雨:2002 年 6・8 月 干ばつ:2000 年 1∼12 月 寒波:2001 年 12 月 干ばつ:1998 年 6∼8 月 大雪:1999 年 11∼翌年 2 月
大雨:2001 年 11 月 サイクロン:1999 年 5・10 月 サイクロン:1998 年 6・10 月 0
60S
干ばつ:1999 年 1∼翌年 12 月
干ばつ:2002 年 1∼12 12 月 大雨:2000 年 1∼ 4 月 熱波:2003 年 5∼6 月 熱波:2002 年 5 月 熱波:1998 年 5∼6 月 0
大雨:2004 年 6 ∼10 月 寒波:2003 年 12∼翌年 1 月 寒波:2002 年 12∼翌年 1 月 大雨:2002 年 6 ∼ 8 月 大雨:2000 年 6 ∼10 月 寒波:2000 年 1 月 大雨:1999 年 7 ・ 9 月 大雨:1998 年 7 ∼10 月
60E
120E
(出典) 気象庁「異常気象レポート 2005 年」。
三割は人間が生きていくために農地、
都市、道路、工場、鉱山などによっ
て人工化された。一万年前には、南
極を除く地表の七割が森林だったの
が、現在では約三割を覆っているに
過ぎない。悪化がもたらす重大な結
果の一つとして、自然災害の被害の
増大を挙げている。
六六億人を超えた世界人口は三〇 年後にはさらに二二億人が加わり、
地表の七〇%が人工化されると予測
している。これは、災害に対してさ
らに無防備になっていくことを意味
する。今後予想される最大の災害は、
地球温暖化によってもたらされる可
能性が高い。海面上昇によって高潮
被害が大きくなるだけでなく、海水
59 第 2 章 巨大化する災害
温の上昇は熱帯性暴風雨を大型化させ、熱波や干ばつが増えることも予想される。
各国の防災施設や防災計画は、数十年単位の異常気象を対策の拠り所にしているものが多い。台風 やハリケーンの活動がそれほど活発でなかった時期のものだ。中北米のハリケーンでいえば、カテゴ
リー5という最大級のものが上陸するのは三〇年に一回だったのが、いまでは毎年か隔年のペースだ。
将来の自然災害による被害の予測には、地球温暖化など今後さらに影響が拡大する可能性がある要素 は考慮すらされていないと、専門家たちは警告する。
︻参考文献︼
寺田寅彦はこうも言っている。﹁文明が進めば進むほど、天然の暴威による災害がその激烈の度を 増す﹂。
│
レイテ島、死者八千人の大災害﹄加藤薫、草思社、一九九八年
﹃スーパー都市災害から生き残る﹄河田恵昭、新潮社、二〇〇六年 ﹃大洪水で消えた街
﹃地震と噴火の日本史﹄伊藤和明、岩波新書、二〇〇二年
﹃ナショナルジオグラフィックがとらえた大自然の脅威﹄日経ナショナルジオグラフィック社、二〇〇四年 ﹃多発する自然災害﹄ニュートン・プレス、二〇〇四年 〇〇五年
﹃ミシシッピ=アメリカを生んだ大河﹄ジェームス・M・バーダマン︵井出野浩貴訳︶、講談社選書メチエ、二
60
水揚げされたクロマグロ (鳥取県境港にて,2007 年 6 月) 写真提供 共同通信
海は空っぽ
3
乱獲で消えた魚 第
章
私たちが食べている魚の六割は、海洋や河川湖沼で獲られた野生の魚だ。野生動物を食用のために 捕まえているという意味では、漁業は石器時代からつづく原始的な産業だ。その一方で、人工衛星や
飛行機、最先端の電子機器まで使って魚の群れを探し出し、一網打尽にする技術は飛躍的に進歩した。
だが、水産資源をどう持続的に利用するのかという根本的な部分が無視されたままで、﹁目の前にい
る魚は他人に獲られる前に自分が獲る﹂という原始本能のままに漁業がつづけられている。
とくに、日本はできるだけ多くの魚を獲ることこそ、国民の食料を確保するための国益にかなうと されて乱獲をつづけ、沿海の魚がいなくなれば沖合へ、その資源が枯渇すれば遠洋へと、世界中の海
から魚をかき集めた。日本にとっての遠洋漁業は獲られる側からすれば、自国の近海の海である。一
九六〇∼七〇年代には世界中から恨まれて、日本への警戒心が世界の二〇〇海里経済水域の設定を早 めたともいわれている。
同じように、ロシア、ヨーロッパ連合︵EU ︶、中国なども乱獲に走り、その結果、世界の海から は無残なまでに魚が消えてしまった。さまざまな天然資源の悪化が指摘されているが、そのなかで魚
類がもっとも深刻な危機にある。水産物は典型的な﹁再生可能資源﹂であり、上手に管理すれば永久
に資源が利用できるはずである。それが、再生能力が根こそぎにされるまでに追い詰められてしまっ たの だ 。
資源枯渇の結果、魚の値段は高騰をつづけている。とくに、日本や欧米でもっとも親しまれてきた タラ類の枯渇が深刻だ。日本ではすり身原料のスケトウダラが獲れなくなったために、かまぼこや竹
62
輪が高騰している。そればかりか、アジやサバなどのかつての大衆魚までも値上がりしている。マグ ロの資源枯渇も最終段階に入った。 どこへ行く、﹁水産国、日本﹂。 タラ漁の盛衰
かまぼこや竹輪の原料になるすり身の国内卸売価格︵上級品︶は、二〇〇四年一月は一キロあたり 三一〇円だったが、二〇〇七年一月には四三〇円にまで上がった。仙台市名物の﹁笹かまぼこ﹂をは
じめとするメーカーは、製品のサイズを小さくすることでしのいできたが、ついに値上げに踏み切ら ざるを得なくなった。
代表的なすり身の産地だった北海道の釧路漁港では、スケトウダラの水揚げは二〇〇六年には六万 五〇〇〇トンしかなく、最盛期の九分の一にまで減った。すり身の加工業者は、原料不足で次々に廃
業 に 追 い 込 ま れ、 か つ て 一 〇 〇 社 あ っ た の が い ま で は 一 〇 社 ほ ど に 減 っ て し ま っ た。 一 〇 〇 % 国 産
だったすり身も一九九〇年代以後は輸入に頼るにようになり、二〇〇六年にはタラの国内のすり身生 産量約一四万トンに対して、輸入すり身は約一七万トンで国産を上回った。
この背景には、牛海綿状脳症︵BSE︶で牛肉が、鳥インフルエンザ ︵本書第8章︶で鶏肉が敬遠 され、さらに欧米やアジアの健康食ブームで魚肉需要が増えていることがある。すり身の消費国は日
本 な ど 一 部 の 国 に 限 ら れ て い た の が、 カ ニ 風 味 カ マ ボ コ な ど の﹁ シ ー フ ー ド ス テ ィ ッ ク ﹂ の 開 発 で、
63 第 3 章 海は空っぽ
船倉一杯に詰まったスケトウダラ(西カムチャツカ漁場にて「美登丸 8 号」, 1977 年 1 月) 。
64
欧米にもすり身製品が普及している。
ヨーロッパ諸国は、過去一〇年ですり身の 輸入量を約三万トンから三・五倍にも増やし
た。 バ ル ト 三 国 の リ ト ア ニ ア に は、﹁ 世 界 最
大﹂と称するすり身工場ができて、各国に輸
出まではじめた。もはや﹁SURIMI﹂は
世界に通用する国際語になり、原料確保の国
際競争が激しくなって価格も高騰している。
スケトウダラは戦中・戦後の食糧難時代に は、塩漬けにしたものが﹁しおだら﹂として
各家庭に配給されたほどの安価な大衆魚だっ
た。戦後は、スケトウダラの卵は﹁明太子﹂
に、肉はすり身原料として需要は右肩上がり
で増えつづけてきた。
漁業の大黒柱だった ︵図❶︶ 。大量に漁獲でき
国内のスケトウダラの漁獲量は、最盛期の 一九七五年には全漁獲量の四割を占め、日本
写真提供 共同通信
図❶ 北太平洋全域におけるスケトウダラ国別漁獲量 (万トン) 800 700 600 漁獲量
500 400 300 200 100 0
1975
1970
1980
日本
1985
米国
1990
ロシア
1995
韓国
2000 年
その他
(出典) FAO 統計資料。
図❷ ベーリング公海 アラスカ
ベーリング公海 ロシア
ロシア 200 海里水域
米国 200 海里水域
公海 太平洋
たので、タラ
コになる卵巣
だけをとって
魚体は投棄す
るようなこと
もまかり通っ
ていた。それ
が、二〇〇海
里経済水域時
代に入って漁
場が狭められ、
最後に残され
た﹁ベーリン
グ 公 海 ﹂︵ 図
❷ ︶で の 漁 獲
が一九九三年
に中止されて
65 第 3 章 海は空っぽ
水揚げ量は激減した。近年では二〇万トンにまで落ち込んでいる。
ベーリング公海は、米国、ロシア両国が二〇〇海里経済水域を宣言したときに、いずれの国の水域 からもはずれた公海が、北太平洋の真ん中に穴のように残された。﹁ドーナツの穴﹂と呼ばれ、北海
道の一・五倍ほど広さだ。この小さな海域は、人間のどん欲さを物語る最適な例である。
公海である以上、漁獲は自由である。日本をはじめ、韓国、中国、ポーランドなどの漁船がこの狭 い海域に殺到した。この結果、一九八九年の最盛期には一四五万トン︵日本は七五万トン︶ものスケ
トウダラの水揚げがあった。しかし、乱獲がたたって、一九九二年には一万トンを割り込み、関係国 は一九九三年からベーリング公海での漁業を自主的に停止した。
一九九五年には資源の保存管理目的として﹁中央ベーリング海におけるすけとうだら資源の保存及 び管理に関する条約﹂が結ばれて、それ以来年次会議が開かれてきた。会議のたびに日中韓は操業の
再開を主張したが、米ロ両国の反対で停止は解かれなかった。一〇年以上も操業を停止しているにも かかわらず、スケトウダラの資源は回復の兆しがみられないことが理由だ。
FAOの統計によると、日本近海を含む北太平洋全域のスケトウダラ漁獲量は、一九八六年には史 上最大の六八〇万トンの漁獲を記録した。一九九〇年代以降になると、日本とロシアの漁獲量は減少
し、近年の総漁獲量は三〇〇万トン前後と、最盛期の半分程度にまで下がった。 タラをめぐる強欲の歴史
66
図❸ 世界のタラ・ベルト
(出典) 「タラ類」『おさかな情報』No. 33(2006 年 1 月)。
このタラほど食料として利用された魚はほかにないだろう。北太平 洋、北大西洋、北海などの高緯度地方の海に、タラ類が多く生息する
海域がある。 ﹁タラ・ベルト﹂︵図❸︶である。タラ類は﹁無限に湧い
てくる﹂と信じられて大量の漁獲がつづいてきた。北欧や北米北部の
農産物の乏しい地域で生活できたのは、タラのおかげといわれている。
タラは塩干しするだけで長持ちし、栄養にも富んだ理想的な保存食 だった。水で戻しても味が良く、バター、豚肉、じゃがいもなどとよ
く な じ む 便 利 な 食 材 だ っ た。 イ ギ リ ス 名 物 の フ ィ ッ シ ュ・ ア ン ド・
チップスや日本の﹁たらちり﹂など、各国に伝統的なタラ料理が残る。
一七世紀に入って、北米のニューイングランドの沖合にタラの大漁 場が発見された。一六二〇年にメイフラワー号で到着した清教徒も、
タラ漁が生活の糧となった。その土地はケープコッド︵タラ半島︶と
名づけられ、この地域は北米のタラ漁の中心になった。ボストンが繁
栄した背後にはタラ産業の隆盛があった。一八世紀の後半、米国の独
立戦争のときも、マサチューセッツ沖合の漁業権がイギリスとの争点
だが、見方を変えればタラ漁は略奪の歴史でもあった。ニューファ
の一つになった。
67 第 3 章 海は空っぽ
18 世紀のニューイングランドのタラ干し風景。
68
ウンドランドのタラ漁は、一九六〇年代には年
間八〇万トンもの水揚げがあったが、長年の乱
獲がたたって漁獲が激減し、一九九二年に全面
禁漁になって今日まで解禁されていない ︵図❹︶ 。
資源が枯渇するとは想像すらしないままに、略
奪的な漁をつづけてきたツケである。
一方、一八世紀末には大西洋の反対側、北海 のタラ資源も乱獲によって激減し、オランダな
どヨーロッパの漁船は次第に西に向かって、ア
イルランド沖に集まるようになった。米国の独
立で北米の漁場を失ったフランスやイギリスの
漁船団もこれに加わって、激しいタラの奪い合 いが展開された。
二海里に拡大した。この水域はイギリスにとっ
い込むために一九五八年に領海を四海里から一
第二次大戦後、デンマークから独立したアイ スランドは、国の稼ぎ頭となったタラ資源を囲
18 世紀の銅版画から
図❹ 北西大西洋のタラ漁の崩壊(1992 年に全面禁漁) (万トン) 90 80
70
50 漁獲量
60
40
30
20
10
0 1850 60 70 80 90 1900 10 20 30 40 50 60 70 80 90 2000 年
てもタラの漁場であり、反発したイギリスは海軍を出動さ
せた。アイスランドの沿岸警備隊と互いに砲撃、体当たり
攻撃といった激しい衝突を起こした。これが前後三回にわ
たって、両国が衝突した﹁タラ戦争﹂である。
一時は国交断絶寸前の事態にまで発展したが、最終的に イギリスはアイスランドに対して大幅な妥協を余儀なくさ
れた。アイスランドが、西側諸国の対ソ連防衛の要であっ
たケフラビークの北大西洋条約機構︵NATO︶基地の閉
鎖を人質にとって押し切ったのだ。最終的には、一九七五
年にアイスランドが二〇〇海里経済水域を宣言して、二〇
〇年余に及ぶ﹁タラ戦争﹂がようやく決着した。
これほどまでにタラ資源の奪い合いが深刻になった背景 に、資源の急速な枯渇があった。大西洋のタラ漁は、第二
次大戦ごろまで帆船で行われていたが、蒸気機関やディー
ゼルの動力船がタラ漁に導入され、さらに底引網などの効
率的な漁具が登場して、漁獲量が飛躍的に増えていった。
これに加えて、冷凍技術が普及してタラの販路が飛躍的に
69 第 3 章 海は空っぽ
, 2005. (出典) United Nations,
拡大し、北海やアイスランド沖合のタラ資源は激減していった。
一 九 七 〇 年 代 に 入 っ て も 世 界 の 総 漁 獲 の 二 割 は タ ラ だ っ た。 だ が、 一 九 七 〇 年 に は 三 一 〇 万 ト ン あったマダラの年間漁獲量は、二〇〇二年には八九万トンまで減少した。規制はかけられているが、
各国政府による一定期間の禁漁が行われない限り、北大西洋のタラが一五年以内に獲り尽くされる可 能性があると、EUは警告を発している。
世界中でその料理が愛されたタラ類は、こうして獲り尽くされてついには私たちの口から遠のきは じめた。スケトウダラもこうした世界的なタラ乱獲の一部をなしていたのだ。タラの運命はさらに他 の魚種にも広がりはじめている。
最大の原因は乱獲にある。日本の水産庁は、資源保護のために漁獲可能量︵TAC︶に基づく漁獲 管理を行うことを決め、海域ごとに漁獲量を割り当てた。スケトウダラは、一九九七年に他のサンマ、
マイワシ、ズワイガニなど五種類とともに管理対象に指定された。それでも資源回復の兆しはない。 マグロ漁も乱獲の歴史
縄文時代の貝塚からマグロの骨が発見されるほど、マグロと日本人の関わりは古い。だが、スシや 刺身として食べられるようになったのは、江戸末期以後である。マグロの赤身を醬油漬︵ヅケ︶にし
て、においを抑え保存性が高められるようになったからだ。現在ではマグロといえば脂ののったトロ
だが、もてはやされるようになったのは日本人の嗜好が脂肪分を好むようになった戦後のことである。
70
マグロ漁は江戸時代にはですでに沿岸各地で行われていた。明治時代に入って沿岸でマグロが獲れ なくなってきたために、マグロ漁船が沖合にまで進出するようになった。これに伴ってマグロ漁船の
大型化・効率化が図られた。一九二〇年代には、ディーゼルエンジンを搭載したマグロ漁船が登場し、 遠洋マグロ漁がはじまった。
戦時中、漁船は軍に徴用され、戦後は連合軍によって沿岸漁業以外は禁止されたが、一九四六年か ら遠洋漁業が再開され、日本のマグロ漁船は南太平洋やインド洋海域に進出していった。だが、遠洋
漁業が軌道に乗り出した一九五四年三月一日に、静岡県焼津港所属のマグロ漁船﹁第五福竜丸﹂が、
ビキニ環礁の米国の水爆実験で被曝して漁船員一人が死亡する事件が起きた。マグロは放射能に汚染 されたとして敬遠され、事件後三三〇トンものマグロが廃棄された。
しかし、水産庁は一九五四年から水産物の輸出振興政策を打ち出し、米国の缶詰市場向けの輸出が 盛んになり、マグロ漁業が発展していった。漁船も大型化、高性能化し行動範囲が広がり急速に漁場
を拡大した。それまでは、獲ったマグロを氷蔵するしかなかったので、航海が長くなればそれだけ鮮
度が落ちた。しかし、一九六〇年代に急速冷凍技術が発達し、零下六〇度での冷凍輸送が可能になっ て、鮮度を保ったまま世界中の海から日本に運ばれてくるようになった。
経済成長や食生活の向上とともに国内の消費量がうなぎのぼりに増えていき、一九七〇年代末から 九〇年代初期まで日本のマグロ漁獲量は年三〇万トンを超える高水準がつづいた。世界中の海の果て
にまでマグロを求めて出漁し、一九七〇年代以後の燃料の高騰で、漁船は現地に置いて船員だけが飛
71 第 3 章 海は空っぽ
日本がマグロを輸入しているのは、台湾、韓国、
72
行機で日本と行き来する﹁空飛ぶ漁民﹂が出現し た。
マグロの消費量も右肩上がりに一直線に伸びて いく。一九六五年にはゼロだった輸入量は、二〇
〇五年に三〇万五〇〇〇トンに跳ね上がり、国内
市場に供給されたマグロの総量五三万トンのほぼ
六割を占めるまでに対外依存が高まった。世界の
マグロ総漁獲量の四分の一近くが、日本人の胃袋 に納まる。
はマグロを食べるほど身近な魚となった。
衆化に拍車をかけた。平均して七∼一〇日に一度
年代にはブームになって全国に広がり、スシの大
九五八年に東大阪市に登場した回転寿司店が七〇
本の消費量が世界の約六割を占める。とくに、一
スシや刺身用に生で食べられているクロマグロ、 ミナミマグロ、メバチマグロの三種に限ると、日
世界中のマグロが集まってくる東京・築地の中央卸売市場。
図❺ マグロ類の年間漁獲量の推移 (万トン) 700
全マグロ類 600
500
主要商業マグロ (5 種) 400
300
200
100
キハダマグロ
(出典) Jacek Majkowski, , FAO, Rome, 2007.
中国、地中海諸国、メキシコ、オース
トラリアなど。一九八〇年代以降、円
高で輸入量は急増し、日本への輸出国
は一九八五年に三三ヵ国・地域から、
二〇〇二年には七〇ヵ国・地域にまで
膨れ上がった。
他方、世界的なスシブームも手伝っ て、マグロは日本人だけの魚ではなく
なってきた。世界的にマグロ類の消費
量 は 急 増 し て い っ た ︵ 図 ❺ ︶一 九 九 〇
年代には台湾で、二〇〇〇年以降は中
国でマグロブームが起き、マグロ需要
が一気に高まった。
中国は年間約二万トンを日本に輸出 し て い た の が、 政 府 が﹁ 金 槍 魚 ﹂︵ マ
グロの中国名︶を国内で食べるキャン
ペーンを展開している。中国や韓国が
73 第 3 章 海は空っぽ
年 2000 1990 1980 1970 1960 1950
国際市場で高値をいとわずに買うため、世界のマグロ市場を独占していた日本の商社が買いつけに苦 戦し て い る 。
一九九〇年代に入って、地中海でクロマグロの﹁蓄養﹂が盛んになり、日本にも輸出されるように なった。小型や産卵後のやせたマグロをまき網で捕まえて、生け簀で太らせるのが蓄養だ。四ヵ月ほ
どで全身がトロ状態になる。二〇〇五年に国内市場に供給されたクロマグロの六割は地中海諸国から
輸入した﹁畜養マグロ﹂だった。天然ものは一キロ一万円、一尾で二〇〇万円以上もの卸値で取引さ れているが、蓄養マグロはその半額でスーパーの特売品の目玉にもなった。
わが世の春を誇った日本のマグロ漁も、衰退の色が濃い。一九七〇年代に各国が二〇〇海里経済水 域を宣言するとともに、締め出されて漁業の衰退がはじまった。追い討ちをかけるように、蓄養もの
の輸入で天然ものの価格が低落し、その上石油の高騰で一回の航海に二億円も燃料代がかかるように なっ た 。
一九六〇年代には二〇〇〇隻のマグロ漁船が登録されていた。だが、遠洋マグロ漁船は、漁船員の 不足もあって倒産が相次ぎ、約五〇〇隻に減った。廃船になった高性能の日本マグロ漁船は、中国、
だが、マグロの需要の急激な拡大に伴って違法操業に拍車がかかり、マグロ資源の悪化となって跳
マグロ資源保護の高まり
韓国、ロシアなどから引く手あまただ。それが日本のマグロ漁をいっそう追い詰める。
74
ね返ってきた。マグロは、すでに一九六〇年代に米欧の乱獲によって西大西洋海域で減少していた。
一九八〇∼九〇年代には、太平洋、インド洋、地中海などでも資源の枯渇が問題になってきた。
マグロ資源の枯渇が現実化し、一九九二年にはスウェーデンの提案で、野生動物とその製品の取引 を 制 限 す る ワ シ ン ト ン 条 約︵ C I T E S ︶ に よ っ て、 大 西 洋 の ク ロ マ グ ロ を 規 制 対 象 に す る 動 き も
あった。これは、日本と米国の強い反対で撤回された。クロマグロが漁業の対象でなく、絶滅に瀕す る保護対象とする国際世論が強まったのだ。
世界的な魚食ブームで、世界の水産物輸入量は毎年二割ずつ伸びている。中国、韓国、ロシア、イ ンドなどの経済成長の著しい国を牽引車に、世界の水産物消費は今後も増えることは確実だ。日本の
水産物輸入は一兆五〇〇〇億円、世界の二割を占める。これまで強い円で買いまくっていたが、この まま買いつづけられるとはとても思えない。
クロマグロの国別漁獲割当量が二〇〇七年一月に神戸で開かれた大西洋まぐろ類保存国際委員会 ︵ICCAT︶の会合で決まった。マグロ類のなかでもっとも価格が高いクロマグロは、地中海を含
む東大西洋産が総漁獲量の七〇%を占めている。乱獲による資源枯渇を防止するため、総漁獲量は二
〇〇六年の三万二〇〇〇トンから二〇〇七年には二万九五〇〇トン、二〇一〇年には二万五五〇〇ト
ンに削減されることが決まった。日本の漁獲枠も二万八三〇トンから二三%ほど減らされた。
クロマグロに限らず、マグロ全体の資源保全に関する懸念が高まっている。マグロ類は公海と沿岸 国の経済水域を広く回遊するため、﹁高度回遊魚﹂として海域ごとに国際漁業管理機関が設立され、
75 第 3 章 海は空っぽ
漁獲量の割り当てなど資源の持続的利用を目指した資源管理が行われている。
マグロの国際漁業管理機関は五つある。大西洋まぐろ類保存国際委員会︵ICCAT︶、インド洋 まぐろ類委員会︵IOTC︶、全米熱帯まぐろ類委員会︵IATTC︶ 、中西部太平洋まぐろ類委員会
︵WCPFC︶、みなみまぐろ保存委員会︵CCSBT︶である。クロマグロの漁獲枠削減は、太平洋、
インド洋におけるミナミマグロの漁獲量削減の決定につづくものであり、日本は乱獲を認め、ミナミ マグロの漁獲量を五年で半減させることを約束している。
だが、世界が本気でマグロを守れるだろうか。過去の国際的な水産資源の保護の歴史を振り返ると ほとんどが失敗してきた。それが、今日の資源枯渇を生んだともいえる。 サメよ、お前もか
﹁えっ、サメまで保護対象なの?﹂と驚く人がほとんどだろう。サメ類は海水浴客を襲うとして目 の仇にされ、中華食材のフカヒレをとるために大量に殺されている。FAOの統計によれば、毎年約
八五万トンのサメ︵エイ類を含む︶が捕獲され ︵図❻︶ 、過去五〇年間に漁獲量は四倍にも増えた。日
本は年約三万トンほどだ。年間約四〇〇〇万尾のサメが、世界の海で殺されている。一方、サメが殺 す人間は年平均一〇人程度だ。
獲られたヨシキリザメの体重は一九五〇年代初期には平均五二キロあったのが、最近で二二キロま で小型化してしまった。サメは成熟するまでに時間がかかり、繁殖率が低いので、成魚が減ると個体
76
図❻ 日本および世界のサメ・エイ類漁獲量 (万トン) 90
80
70
漁獲量
60
50
40
30
20
10
0 1947 1952 1957 1962 1967 1972 1977 1982 1987 1992 1997 2002年
数の回復は難しい。その数は史上最低水準にまで落ち 込んだ。
サメの乱獲が心配されはじめたのは、一九七〇年代 に中華料理のフカヒレ需要が高まったころだ。その後
も、台湾、シンガポール、中国などの中国文化圏で経
済的発展とともに、フカヒレ需要が急速に高まった。
サメは、ヒレだけでなく肉も食用にされ、皮は皮革製
品、軟骨は医薬品や健康補助食品、内臓は化粧品の原 料にもなっている。
とくに、一九七五年に公開された映画﹃ジョーズ﹄ が大ヒットして、サメへの関心が広がった。映画の公
開後、ホホジロザメを狙ったスポーツフィッシングが
米国やオーストラリアで流行になった。中米のメキシ
コ湾でも多くのサメが殺され、米国の自然保護団体が 問題にしはじめた。
科学者の間からも、ホホジロザメが絶滅しつつある のではないかという警告が発せられた。こうした世論
77 第 3 章 海は空っぽ
日本のサメ・エイ類漁獲量 世界のサメ・エイ類漁獲量
(出典) FAO 水産統計。
の高まりで、米国政府は一九八九年に﹁サメ漁業管理計画﹂をつくり、米国の西海岸やメキシコ湾の
サメ漁の規制に乗り出した。一九九〇年代になると、サメ保護運動は、欧米でますます盛んになって きた 。
一九九一年には、世界自然保護連合︵IUCN︶がサメの専門家を集めて﹁シャーク・スペシャリ スト・グループ﹂ ︵SSG︶を組織して、サメの生息状況の調査に乗り出した。その結果を受けて、
一九九七年に米国がホホジロザメなど一九種のサメの米国への陸揚げを禁止した。
二〇〇二年には﹁移動性の野生動物種の保護に関する条約﹂ ︵ボン条約︶でもホホジロザメが保護 対象になった。同時に、ジンベイザメとウバザメが、ワシントン条約 ︵後述、九〇頁参照︶の保護対 象種 に 指 定 さ れ た 。
二〇〇三年にはEUが、フカヒレを目的にしたサメ漁の禁止を決定、ほぼ同時に、パラオ政府、米 領サモア諸島などがフカヒレ漁およびフカヒレの陸揚げを禁止した。二〇〇四年には、大部分の種の
サメ釣りを大幅に規制した。日本も米・欧に同調して、大西洋におけるフカヒレ漁の中止を決定せざ るを 得 な く な っ た 。
﹁ フ カ ヒ レ 漁 の 中 止 ﹂ の 狙 い は、 サ メ の 捕 獲 自 体 を 禁 止 す る こ と で は な く、 サ メ か ら ヒ レ だ け 切 り とって、残りを海に捨てるのを禁止することにある。ヒレだけ切りとるやり方だと、船が満杯になる までヒレがとられることから乱獲を招きやすい。
フ カ ヒ レ は ア ワ ビ や 昆 布 や ナ マ コ な ど と も に、 江 戸 時 代 に は 長 崎 貿 易 の 主 力 干 物 商 品 の﹁ 長 崎 俵
78
物﹂として中国に輸出されてきた。大日本水産会は﹁サメが減っているという科学的根拠に乏しく、
フカヒレ問題は資源管理問題ではなく、資源利用の方法の問題で、その禁止は基本的な誤りがある﹂
と反発している。しかし、サメの急減で太平洋では海の生態系に異常事態が現れている。ガラパゴス
諸島の周辺海域では、天敵のサメが減ったためにアシカなどの海獣類が急増して、彼らが にする魚 が急 減 し て い る 。 漁業資源の危機
FAOの統計によると、世界の漁獲量は最初に統計が発表された一九五〇年の一八七〇万トンから、 右肩上がりで増えつづけてきた。二〇〇〇年には九六八六万トンと史上最高を記録、半世紀の間に五 倍に も な っ た 。
ところが、最新の二〇〇三年の統計では九一八二万トンにまで減り、〇四年にはふたたび九六〇〇 万トン台に乗ったが頭打ち状態がつづいている ︵図❼︶ 。水産資源の漁獲がついに限界に達したのでは ないか、という不安の声も高まっている。
漁獲量が頭打ちになった最大の原因は乱獲にある。先進地域では、過去二〇年ほどの間に、漁法が 飛躍的に進歩した。漁船の高性能化、魚網の進歩、GPSなどの位置情報機器や魚群探知装置、さら
に飛行機まで動員して根こそぎ魚が獲られるようになり、資源の枯渇が加速度的に進んでいる。こう
した新漁法は一部の発展途上地域でも使われるようになった。漁船の数は急増し一九八〇年代後半以
79 第 3 章 海は空っぽ
図❼ 世界の漁獲量(1950∼2004 年) (億トン)
1.0
0.8
漁獲量
0.6
0.4
0.2
養殖生産量
年 2010 2000 1990 1980 1970 1960 0 1950
(出典) FAO 水産統計。
来、世界で四〇〇万隻を超える漁船が稼働し、持続可
能な漁獲量を超える魚を捕獲している。
FAOが世界各地で漁獲対象となっている主要な魚 類の一七六種について調査した結果、 ﹁ 二 五% の 魚 種
は枯渇し、三五%が乱獲されて緊急に管理が必要であ
る﹂と結論づけている。そして、世界の主要漁場一五
海域のうち一一海域までが漁業資源の枯渇が深刻化し ている。
マグロに限らず、クロカジキ、メカジキなどの大型 の捕食性魚類は、近代漁業がはじまって以降、資源量
は一貫して減りつづけてきた。世界中の海洋で、過去
五〇年間に大型捕食性魚類は、個体数が九〇%以上も
激減したと推定されており、食物連鎖の高位にいる大
型魚類の激減が海洋の生態系にどんな深刻な打撃を与
えているのかは、ほとんどわかっていないだけに恐ろ
世界の全漁獲量の三割は一〇の魚種で占められてい
しい。
80
るが、そのうちの七種までが深刻な乱獲状態にある。商業的に人気の高いマグロ、フラウンダー︵カ
レイの一種︶、ヘイク︵タラの一種︶などは水揚げが激減した。その他の漁獲対象魚種を含めて、四 分の三は﹁持続的生産﹂の限界を超えている、とFAOは警告する。
たとえば、ペルーのカタクチイワシ、北太平洋のポロック︵タラの一種︶ 、日本近海のイワシ、北 大西洋のシシャモ、北東大西洋のホワイティング︵タラの一種︶などだ。これらの漁種には、乱獲に
よる主要魚種の資源枯渇を補うために獲られるようになったものも含まれている。
漁船のハイテク化には多大な投資が必要で、その回収のためにつねに何らかの魚を追わねばならな い。ある魚種を採り尽くすと、他の海域に移動して別の魚を一網打尽にするというようになった。
たとえば、ニューファウンドランドのタラ漁が全面禁漁となった後、その代替としてホワイティン グ漁がはじまった。それがわずか一〇年で、資源の危機に追い込まれた。漁業者は、ドッグフィッ
シュ︵サメの一種︶、ガンギエイ︵カスベ︶、アンコウその他のかつて雑魚とみなされていた魚種に転
じた。これも、まもなく資源の急速な枯渇に追い込まれ、その後は大西洋の反対側のアフリカ沿岸に 向かい、ナミビア沖などで乱獲を繰り返して漁獲を激減させた。
また南太平洋では、オレンジラフィー︵ヒウチダイ︶の漁獲量はわずか六年間で七〇%も激減した。 乱獲によって、種の遺伝的多様性が減ることになり、その種が将来の環境変化に適応するのがますま す難しくなり、資源の回復が困難になる。
81 第 3 章 海は空っぽ
82
人気を呼ぶ魚肉
日本では若い世代の﹁魚離れ﹂が進んでいるが、世界的には魚肉の需要が高まっている。FAOに よると、世界人口が消費する動物性蛋白質のほぼ二割が、魚でまかなわれている。一〇億人を超える 人々が、動物蛋白質の大部分を魚に頼っている。
世界の一人あたり魚の消費量は、一九五〇年の七・四キロから二〇〇五年には一五・〇キロとほぼ 二倍に伸びた。日本人一人が一年間に食べる魚介類は六七キロで、アイスランドの九一キロについで 世界 の 二 番 目 だ 。
世界の漁業生産量のトップ のうち、日米ロを除く七ヵ国までが発展途上地域だ。中国は漁獲量と 養殖のいずれも二位以下を大きく引き離して、世界でトップの座を守っている。生産量の二位は、カ
世界輸入総額六八〇億ドル︵二〇〇三年︶の八五%までを、先進地域が占めている。
を出している。一人あたりの魚を食べる量は、先進地域では発展途上地域の二倍以上にもなる。魚の
世界の魚介類・水産加工品の輸入総額では日本は抜きん出たトップで、世界の輸入総額の一八%を 独占し、二位の米国を大きく引き離している。三∼七位はヨーロッパ諸国、中国は輸入でも八位に顔
フィリピンが一二位、韓国が一三位と上位に食い込んでいる。
一九八八年まで一位を独走していた日本は、四位にまで順位を下げた。他方で、アジア諸国は軒並 み生産量を伸ばしている。世界ランクでみると、インドネシアが五位、インドが七位、タイが一〇位、
タクチイワシ漁が復活してきたペルー、三位は米国である。
10
このため、需要の急増で魚は重要な国際的な商品にのし上がった。三〇年前には世界の漁獲量の多 くは国内で消費されたが、今では主要魚種の漁獲の七五%までが国際市場に回される。つまり、発展
途上地域が獲って先進地域が食べる傾向が鮮明になってきた。FAOは、二〇一〇年には魚の供給量
が一〇〇〇万∼四〇〇〇万トン不足する、と予測する。穀物の不足 ︵本書第4章︶に、蛋白質不足が
加わることになる。水産資源の枯渇はこれに依存してきた貧しい人々を直撃しそうだ。
大手の消費国は、発展途上地域沿岸まで進出して漁獲している。たとえば、好漁場で知られるアフ リカ西海岸は、ヨーロッパや日本の大型船が進出して現地漁民よりもはるかに大量の魚を獲っている。
セネガルはアフリカ有数の漁業国で、外貨収入の六割を水産物が稼ぎ出している。その八割までが手
漕ぎ舟の零細漁民だ。しかし、漁場を外国漁船団に荒らされて、年間の漁獲量は一九九七年の四二万
ミ ャ マ ン ー、 タ イ
vs.
乱獲に拍車がかかる漁民の増加
vs.
vs.
バ ン グ ラ デ シ ュ ⋮⋮ と 近 年、 ア ジ ア 全 域 で 漁 業 紛 争 vs.
漁民の急増も乱獲に拍車をかけている。FAOによると、世界の漁業従事者数は一九六〇∼二〇〇
83 第 3 章 海は空っぽ
トンから二〇〇五年には三八万トンに減少した。
マ レ ー シ ア、 タ イ
一方、アジアは世界の海洋漁獲量の四五%を占め、同時に水産物の最大の消費地でもある。とりも なおさず、乱獲がもっとも進んでいることを意味する。日 韓、日 中をはじめ、中 韓、フィリ ピン
vs.
が急増しているのは、見方を変えれば資源の争奪戦でもある。
vs.
五年に一三〇〇万人から三八〇〇万人へとほぼ三倍に増えた。世界の漁民の八七%までがアジア地域
で働いている零細漁民だ。家族や漁業関連の施設で働く人まで含めれば、世界で二億人を数える。こ れらの人々は、生きていくために魚をとりつづけねばならない。
資源の枯渇とともに、漁民たちの生活が脅かされている。自分で自分の首を締めているのだ。魚が いなくなれば、漁業に依存する沿岸地域社会も消滅するしかない。すでに、世界の漁獲量の半分近く
を占めている零細漁民は、大型漁船や新技術との競争に敗れて、生活のために無理な漁獲に活路を見 出し て い る 。
発展途上地域では、水産物が木材なみの国際貿易商品として外貨獲得の主役となってきた。漁労や 魚肉処理は労働集約的な作業で、人件費の安価な発展途上地域が圧倒的に有利だ。発展途上地域では
漁業管理や規制はほとんど機能しない。資源枯渇で魚価が上昇し、これがさらに乱獲に走らせるとい う悪 循 環 だ 。
イギリス、カナダなど六ヵ国の政府と環境保護団体などの委員会が、二年がかりで各国の漁業統計 や貿易統計などを分析して、はびこる違法漁業の実態を二〇〇六年に公表した。それによると、漁業 の約三〇%が違法と推定され、その規模は年間九五億ドルにものぼる。
とくに、管理や監視の能力が低いアジア・アフリカ諸国では野放しの海域が多い。マグロ、カジキ、 ギンムツ、サメなど違法漁業によって短期間に資源が急減した例も報告されている。同委員会は、公
海で活動する漁船などに関する国際的な情報ネットワークの設立や、水揚げ港での規制強化などの対
84
策を各国政府に勧告した。
さらに、乱獲に拍車をかけているのが、先進地域政府による補助金だ。その額は、一時よりは減っ たものの、まだ年間一五〇億ドルにものぼるとされている。とくに、日本や米国は巨額で、世界貿易
機関︵WTO︶の会議では批判にさらされてきた。世界自然保護基金︵WWF︶など自然保護団体は、
補助金が漁船や漁具への過大な投資を生み、それが乱獲につながると批判している。
ノルウェーでは、一九七〇年代に北海油田が開発されて財政が豊かになり、漁業に気前よく補助金 をつぎ込んだ結果、過大な設備投資から乱獲を招き、漁獲量は壊滅的に減少してしまった。その後、 きびしい漁獲規制で資源がやっと復活してきた。
一方で、大部分の発展途上地域では、依然として伝統的な漁法で漁獲されている。東南アジアや南 太平洋では、商業価値が高い﹁活魚﹂の需要に応えるために、青酸化合物を使った毒薬漁業や、ダイ ナマイトで魚を気絶させて獲るハッパ漁も横行している。
いずれも、ほとんど国で禁止されているが、漁業資源の枯渇とともに通常の漁法では獲れなくなっ て、東南アジアの監視の手の届かない辺地の漁村に広がっている。狙われるのは、ハタ、イセエビ、
ストーンフィッシュ︵オニダルマオコゼ︶、ナポレオンフィッシュ︵メガネモチノウオ︶などいずれ
もサンゴ礁の魚だ。頭のコブがナポレオンの帽子を彷彿とさせるガネモチノウオは、二〇〇四年にワ シントン条約の絶滅危惧種に指定された。
こうした漁法は小型の魚や海底の小動物、とくにサンゴには致命的だ。青酸カリや爆薬は、サンゴ
85 第 3 章 海は空っぽ
礁をつくる小さなサンゴ虫を死滅させる。また、海底で火薬を爆発させると、その衝撃で周辺の小さ な生き物は皆殺しにされる。
こうして捕られた魚の行き先は、香港、上海、バンコクなどの海鮮料理店だ。水族館のような店内 で、水槽で泳いでいる魚を指さすと網ですくい上げて好みの料理にしてくれる。高価な料理だが、東
南アジアや中国の大都市では、日本などからの観光客だけでなく、ニューリッチ層がこうしたレスト
ランに押し寄せるようになった。こうしたサンゴ礁の魚の年間取引は一〇〇〇億円を超えているとも 推定 さ れ て い る 。
また、資源が枯渇する一方で、ムダの多い漁業のあり方も問題になっている。漁民が狙う魚種は決 まっているので、不要の魚が網に入っても捨てられることになる。市場に出すには魚の規格をそろえ る必要があり、小さすぎたり形の悪いものも廃棄される。
網に入っても売り物にならない魚は海洋に投棄される。この混獲量はさまざまな推定があるが、F AOは世界の総漁獲量の約三割に相当すると報告している。漁業によって海で殺される海洋生物の総
量は二億トン、つまり総漁獲量の二倍に達するという推定もある。私たちが食べる一尾の魚の陰には、 膨大なムダが潜んでいるのだ。
とくに、一網打尽で捕獲するトロール漁では、網に入った魚の六∼八割が捨てられている。これ以 外にも、流し網やはえ縄などにかかった魚以外の鳥類や哺乳動物なども犠牲になる。自然保護団体の
抗議もあって、一九八九年の国連総会は公海における流し網漁業を凍結︵モラトリアム︶する決議を
86
採択、国際的なこうした漁法の規制の動きが強まっている。しかし、一部ではまだ野放しだ。
水産資源の急速な悪化から、漁業関連の条約やFAOの資源保護策が、ほとんど効果がなかったと * する失望感が広がっている。これを背景に、二〇〇七年七月にハーグで開催されたワシントン条約の
締約国会議は、漁業資源の枯渇を背景にこれまでになく多くの商業魚種が同条約の規制対象として議
論された。結局、ヨーロッパウナギやノコギリエイの取引が規制されることになった。
日本やノルウェーなどの漁業国は﹁水産物の規制は、資源としてFAOや地域の漁業管理機関で検 討すべきだ﹂と反論したものの、世界の大勢はもはや﹁資源利用の規制﹂から﹁絶滅の危機のある生
物種の保護﹂へと大きく舵を切った。今後とも、マグロ類やサメ類などに広がるのは避けられない情 勢だ 。
とくに、ヨーロッパウナギの規制は衝撃的だった。日本の年間のウナギ消費量は約一三万トンで世 界の七割を独占している。国産は四〇年前の一五%しかなく、一〇万トン以上を中国などからの輸入
でまかなっている。輸入の三分の二を占める中国産は、ヨーロッパから輸入した稚魚を養殖したもの
だ。そのヨーロッパ産の稚魚の漁獲量は、三〇年前の一%ほどに激減している。その危機感が今回の 規制 と な っ た 。
ぶまれる野生動植物の国際的な取引を規制することによって、これらの動植物の保護を図るのが目的。
* 正式名称は﹁絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約﹂ ︵CITE ワシントン条約 S ︶という。一九七三年首都ワシントンで採択、七五年に発効した。日本は一九八〇年に批准した。絶滅が危
87 第 3 章 海は空っぽ
養殖の問題
にしてハマチを育てるといったように、魚種を安価なものから高級魚に替える
漁獲量の低迷を補っているのが養殖だ。一九五〇年にはわずか六〇万トンの生産量しかなかった養 殖は、二〇〇四年には五九四〇万トンと一〇〇倍にもなった ︵図❼︶ 。養殖は資源を増やすことではな く、 た と え ば サ バ を だけ で あ る 。
養殖の急成長につれてさまざまな問題も噴き出している。東南アジアに急激に広がっているエビの 養殖は、ついに世界の養殖エビの九割を独占するまでになった。だが、エビ養殖で与える の雑魚の
総量は、収獲したエビの体重の三倍にもなる。しかも、エビは体重の一七%しか可食部分がない。日 本では大衆化したが、世界的にみればぜいたくな食べ物である。
養殖池の造成のために広大なマングローブ林が伐採され、過密な養殖で水質汚染や富栄養化による 赤潮の発生が増えている。また、養殖魚の にするために小魚が一網打尽にされて、それに頼ってき た地元零細民の蛋白質が不足する事態も発生している。
サケの養殖の盛んなノルウェー海域では、漁獲されたサケの個体の二五%は、養殖場から逃げ出し た外来種。サケの 上で有名なナムセン川では、捕獲されたサケのほぼ半数が生け簀から逃げ出した
ものだった。米国原産のニジマスやヨーロッパ原産のブラウンマスも、放流したり生け簀から逃げ出
一九八二年の国連海洋法条約は、海洋生態系に外来種を放すことを規制している。最近では二〇〇
したものが各地で野生化し、IUCNが指定した﹁外来種ワースト一〇〇﹂に指定されている。
88
二年のヨハネスブルク・サミットでもその危険性が指摘された。外来種はいまや、海洋でも深刻な環
境問題になっている。外来種は野生種と交雑して自然の遺伝子を攪乱し、あるいは食物や生息場所を 奪い合い、致命的な病気や寄生生物を運搬することさえある。 人類と海の愚かな関わり
地球の七一%を占める海洋で、人類との関わりが深いのが沿岸部である。現在、世界人口の四割が 海岸から一〇〇キロ以内に住んでいる ︵本書第2章︶ 。人類にとって海岸はつねに最重要な生活拠点で
あり、輸送路であり、資源獲得の場でもある。世界の総漁獲の九割は海洋の一割しかない沿岸の大陸 棚でとられたものだ。
89 第 3 章 海は空っぽ
それだけに、人間活動の影響をもろにかぶって、海洋の環境は大きくゆがめられてきた。とくにこ の三〇年間は、海洋の生態系を壊滅させるような巨大な変化が起きている。海岸の海側では深刻化す
る海洋汚染 ︵本書第 章︶ 、乱獲による漁獲の急減、サンゴ礁の破壊が進み、陸側では埋め立て、堤防
る二〇一〇年までには二万種を超えるだろうという。
に発表された中間報告では、世界の海洋には約一万五〇〇〇種の魚類が生息している。調査が終了す
海洋の生態系については、私たちはほとんどわかっていない。米国スミソニアン協会が中心になっ て、世界約五〇ヵ国の研究者が参加して一〇年がかりでの海洋生物の調査を続けている。二〇〇五年
などによる海岸線の人工化、マングローブ林の乱伐などだ。
10
しかし、生態や資源状況が調査され、わかっている魚種は、このうちの一〇%に満たないほどしか ないのに、すでに魚類全種の三分の一が、汚染や埋め立て、乱獲や外来種の移入で生存の危機にある
日本漁業再生の条件﹄︹改訂増補版︺池田八郎、成山堂書店、一九九
世界の魚争奪戦﹄星野真澄、日本放送出版協会、二〇〇七年
│
世界からSUSHIが消える日﹄チャールズ・クローバー︵脇山真木訳︶、岩波書店、二〇〇六
という。海が今後どれだけ人類に恩恵を与えてくれるか、よくわからないままに魚類の乱獲は着実に 進行 し て い る 。 ﹃飽食の海
│
︻参考文献︼ 年
│
﹃世界の漁業でなにが起きているのか 八年
﹃マグロと日本人﹄堀武昭、日本放送出版協会、一九九二年
﹃日本の食卓からマグロの消える日
│
世界を変えた魚の歴史﹄マーク・カーランスキー︵池央耿訳︶、飛鳥新社、一九九九年
﹃国際マグロ裁判﹄小松正之・遠藤久、岩波新書、二〇〇二年 ﹃鱈
90
「ミス肥満」コンテストの前,控室で言葉を交わす参加者たち (イタリア中部フォルコイ,2004 年 7 月) 写真提供 ロイター=共同
飢餓か飽食か
4
両極化する食糧問題 第
章
人類はその誕生以来つねに飢餓につきまとわれ、食料の獲得は生存をかけた最大の戦いだった。ア フリカに発祥した祖先が、地球のすみずみに広がっていったのも、食糧を求めて新たな土地に進出し
ていった結果にほかならない。現代にいたっても、飢餓は依然として人類を脅かしており、二〇世紀 以降だけでも一〇〇万人以上の餓死者を出す飢饉は一二回も起きている。
国連の食糧援助機関﹁世界食糧計画﹂︵WFP︶が、世界の飢餓状況を一枚の世界地図にまとめた 二〇〇六年の﹁ハンガーマップ﹂によると、国民の三人に一人以上が栄養不足状態にある国が世界に
二〇ヵ国以上もある。その大部分はアフリカとアジアに集中している。栄養状態が悪化すると体力や
免疫力が衰え、かぜや下痢など私たちにとってはたいしたことのない病気でも死にいたる。栄養不足
の母親から生まれた子どもは、一生さまざまな身心のハンディを抱えていくことにもなる。
一九七〇年代はじめに戦後最悪の食料危機を経験して以来、過去三〇年間、世界の食料生産は比較 的順調だった。だが、安 する間もなく、二〇〇〇年代に入ってふたたび食料需給は 迫をはじめて
おり、二〇〇六年には一九七〇年代初期とならぶ最低の穀物備蓄量となった。世界の農地面積が長期
的な減少傾向にあるのにかかわらず、農業生産性の向上で単収を増やしてきたのが、ついにその技術 的な限界に達したのでは、という不安が広がっている。
その一方で、世界で約一六億人が太り過ぎの状態にある。肥満人口が飢餓人口を二倍近くも上回っ たのだ。しかも、発展途上地域でも重度の肥満者が増加しており、世界は飢餓と飽食の二極化が進行 している。それは、貧富の格差の極端な拡大を意味している。
92
依然としてつづく飢餓
これまでの飢餓の調査は、ほとんどが公的機関によって行われたものだ。国連食糧農業機関︵FA O︶の飢餓の定義は﹁摂取カロリーが安静時の基礎代謝量の一・五五倍以下﹂。つまり、安静にして
いてもカロリーは消費するので、日常的に活動するには最低でもその一・五五倍のカロリーをとる必
要 が あ る。 実 際 に は、 年 齢、 性 別、 労 働 に よ っ て 違 う が、 一 日 あ た り 一 七 二 〇 ∼ 一 九 六 〇 キ ロ カ ロ リー以下が栄養不足の基準となる。
さまざまな定義があるが、 ﹁栄養不足﹂が長期に及んで日常生活にも支障をきたすほど進行したの が﹁飢餓﹂であり、それが大規模化したものが﹁飢饉﹂、国際的な緊急援助を必要としている状態を ﹁食糧危機﹂というように、国連は使い分ける。
FAOの二〇〇六年の発表によると、世界中で約八億二〇〇〇万人が必要なカロリーがとれずに飢 餓や栄養不足で苦しんでいる。これは世界人口の八人に一人の割合だ。このうちの九六%が発展途上
地域で暮らしている。これ以外にも、三〇億人余りの人々が蛋白質、ビタミン類、鉄分、ヨードなど
の栄養素が不足している﹁質的飢餓状態﹂にある、と世界保健機関︵WHO︶は推定している。
その一〇年前の調査と比べると、総人口に占める栄養不足人口の割合は、中東・北アフリカを除い ては減っている ︵図❶︶ 。だが、FAOの﹁二〇〇六年年次報告書﹂によると、栄養不足人口そのもの
は人口増を反映して年に約四〇〇万人のペースで増えつづけている。このままでは、二〇一五年には 五億八二〇〇万人まで増加するという。
93 第 4 章 飢餓か飽食か
図❶ 世界の各地域における栄養不足人口の割合
35
25
20
10
総人口に占める栄養 不足人口の割合
, 2006. (出典) FAO,
開発途上 地域 中南米 15
アジア・太平洋 30
サハラ以南アフリカ (%) 40
5 中東・北アフリカ
2015 年 国連ミレニアム 目標 0 1980-82 1990-92 2000-02
地域別に栄養不足人口の分布をみると、インド二五%、 サ ハ ラ 以 南 ア フ リ カ 二 三 %、 中 国 二 一 %、 ア ジ ア︵ 中
国・インドを除く︶二〇%である。この飢えた人々の七
五%までが農民である。食糧の生産者がもっとも飢えて
いる、というのは最大の皮肉であろう。
とくに、サハラ以南アフリカでは、一九九〇∼九二年 の調査時よりも約四〇〇〇万人多い二億六〇〇万人が飢
えにあえいでいる。三人に一人の割合だ。サハラ以南ア
フリカの貧しい家庭では、収入の七〇%以上が食費に費
やされる。ちなみに、日本では一五%以下、米国の平均
家庭では七%ほどだ。サハラ以南アフリカの五歳未満の
子どもの死亡率は、先進地域の一五倍近くにもなる。栄 養不足が主な原因である。
WHOによると、世界で毎日約二万五〇〇〇人が、飢 餓あるいは栄養不足に関連した死因で亡くなっている。
そのうち四分の三は、五歳未満の子どもたちである。五
秒足らずで一人の子どもが死亡し、一時間ごとに子ども
94
で満席になったジャンボジェット機が墜落する計算だ。
母親の栄養不足によって、年間世界で二〇〇〇万人以上の低体重児が生まれている。彼らは乳幼児 期に死ぬ確率が高いが、生き残っても生涯にわたって身体的、精神的な障害に悩まされる例が少なく
ない。WHOはこうした子どもの生涯にわたる生産力と所得の損失は、五〇〇〇億∼一兆ドルにも達
すると試算している。
第二次大戦中にナチス・ドイ ツによって海上封鎖されて、深
などでの長期にわたる追跡調査
で、妊娠初期に母親が飢餓にさ
らされて生まれた子どもは、成
人しても中枢神経系の障害が多
く、統合失調症など精神障害の
発生率は二倍にもなったという。
こうした公的統計に対して、 大手世論調査機関のギャロッ
プ・ イ ン タ ー ナ シ ョ ナ ル︵ 本
95 第 4 章 飢餓か飽食か
刻な食糧不足に陥ったオランダ
飢饉が発生すると幼い子どもから犠牲になっていく (エチオピアのゴンダール州で)。
比率 国 名
01. ナイジェリア
56 % 02. カメルーン
52 03. フィリピン
46 04. ペルー
42 05. トーゴ
42 06. ケニア
39 07. ウクライナ
38 08. タイ
36 09. ニカラグア
33 10. パキスタン
32
(出典) ギャロップ・インターナ ショナルの調査による。
して い る 。
96
部・スイス︶は、世界六六ヵ国の五万人余を対象にし
て、世論調査の手法で﹁飢えと貧困﹂に関する調査を
二〇〇五年に実施した。本人からの聞き取り調査だけ
に、公的統計と異なった飢餓の実態が浮かび上がって くる。
この調査で、﹁過去一年の間に、自分あるいは家族 が 食 べ も の に 困 っ た こ と が あ る か ﹂ と の 問 に 対 し、
﹁ときどき﹂﹁ひんぱんに﹂と回答した人の割合は、全
因とみられる。とくに、ミンダナオ島は、三〇年にわたる紛争で貧困はさらに悪化し飢餓人口も急増
意外なことに、この調査でフィリピンが三位、タイが八位に入り、東南アジアでも食料不足が潜在 していることが明らかにされた。フィリピンは、人口増加に食糧供給が追いつかなくなったことが原
飢餓率は、それだけ貧富の差が大きいことを物語っている。
一位になったナイジェリアは、アフリカ最大、世界でも九位の産油国である。カメルーンは、一人 あたりGDPが八〇〇ドルでサハラ以南アフリカの平均を大きく上回っている。これらの国々の高い
国が占め、あらためてアフリカが飢餓の大陸であることを印象づけた。
体で四六% に達した。ワースト一〇ヵ国は別表 ︵表①︶のようになる。このうち五ヵ国をアフリカ諸
表① 飢餓ワースト 10
フィリピンは一九九〇年代初めに主食であるコメの輸入国に転落した後、大干ばつや洪水などの自 然災害に見舞われ、慢性的にコメを輸入せざるを得なくなった。アジアでは、中国、インドネシアに 次ぐ食料輸入国で、財政赤字がさらに拡大している。
このギャロップの調査対象外だが、北朝鮮の食糧事情が危険水準まで追い込まれていることを、W FPが警告している。コメやトウモロコシ価格の高騰で、政府は国民への食糧配給を段階的に減らし
ており、一日一人あたりの穀物配給は三〇〇グラムだったのが、二〇〇五年からは二五〇グラムと最
低必要カロリー量の四〇% の水準まで下がった。救援活動をしている米国のNGO﹁ワールド・ビ
ジョン﹂は、洪水などの自然災害が加わって一九九五∼九八年には、餓死者は一二〇万人にのぼった と推定した。三〇〇万人を超えたとみるNGOもある。
*
一九九六年に開催された世界食糧サミットで採択された﹁世界食糧安全保障に関するローマ宣言﹂ で、世界の栄養不足人口を二〇一五年までに半減させる目標が掲げられた。さらに、二〇〇〇年の国
連ミレニアムサミットで決まった新千年紀の﹁ミレニアム開発目標﹂ ︵MDGs ︶でもこの目標が確 認されたが、栄養不足人口の増加は止まらず、目標から遠ざかりつつある。
* 二〇〇〇年九月、一八九ヵ国の首脳が一堂に会した﹁国連ミレニアムサミット﹂で ミレニアム開発目標 二一世紀の国際社会の目標となる﹁ミレニアム宣言﹂が採択され、その具体的な達成目標として採択された。
緊急に取り組まなければならない課題として、軍縮、貧困、飢餓、環境、人権など七つの項目を挙げている。
97 第 4 章 飢餓か飽食か
図❷ 世界の穀物の生産量,単収および耕地面積の推移 (1961∼2005 年)
指 数
(1961 年=100) (a/人) 25 280 253 20.8 260 1 人あたりの耕地面積(右目盛) 20 240 生産量 220 241 単収 15 200 180 10 160 10.5 140 105 5 120 耕地面積 100 0 80 1961 1966 1971 1976 1981 1986 1991 1996 2001 2005年
98
穀物生産の限界か?
世界の穀物統計を眺めていると、背筋の寒くなる事実に 突き当たる。一九六一年を一〇〇として二〇〇五年と比較
してみる ︵図❷︶ 。耕地面積は、この四五年間はほとんど横
ばいで変わりない。むしろ、一九八一年に七億三〇〇〇万
ヘクタールで最大となって以来、これまでに六〇〇〇万ヘ
クタールも減少している。日本の全耕地面積の一三倍近く
も減ったことになる。しかも、一人あたりの耕地面積は人
口の急増を反映して半減している。にもかかわらず、生産
量は二五三と大きく増加して、単収も二四一と大きな伸び を示している。
だが、こんな錬金術のようなことが長くつづくことはあ
うながしたのである。
高収量の新品種が次々に導入されて、この生産性の向上を
この間に化学肥料の投入量も灌漑面積もほぼ二倍になり、
ここから見えてくるのは、過去半世紀近くの間に同じ耕 地面積からの収穫を二・五倍にも増加させた事実である。 (出典) FAO 生産統計。
り得ない。農業を支える十分な淡水 ︵本書第5 章︶ 、 地 力 の あ る 土 壌 ︵ 本 書 第7 章 ︶ 、投下するエネル
*
ギーといった基本的資源の劣化や枯渇が目立っている。何よりも、農業生産のカギをにぎる気候が温 暖化によって変調をきたしている。
一人あたりの耕地面積の減少は、土壌の劣化によって加速している。とくに、土壌侵食はこれまで になく加速している。国際食糧政策研究所の調査によると、土壌侵食とそれに伴う収量の低化のため、
世界全体で年間推計一〇〇〇万ヘクタールもの耕地が放棄され、さらに一〇〇〇万ヘクタールが灌概 の副作用である塩類集積で大きな被害を受けている。
このほか、都市化、工場、大型店、リゾート、道路、駐車場などのために失われる土地の面積は、 世界全体で毎年一〇〇〇万∼三五〇〇万ヘクタールに達しており、その半分は耕地をつぶして転用し
たものだ。このようにして、平均して毎年一・三%の耕地が失われている。この消失を埋め合わせて
いるのは、森林の開墾である。世界で消失する森林の六割は、耕地の拡大が原因である。
世界人口がわずか三〇億人だった一九六〇年当時は、一人あたり耕地面積は約二〇・八アールあっ た。先進地域では、この面積で健康を維持するのに十分な植物性・動物性食品を生産することが可能 だったと考えられる。
現在、一人あたりの耕地面積は世界全体で約一〇・五アールと半減した。世界最大の穀物生産国の 米国でも、一人あたり耕地面積はこの三〇年ほどで五アールに縮小し、すでに一人あたり約四アール
の土地が都市や道路に使われている。中国の一人あたり耕地面積も、人口増加と土壌劣化から、この
99 第 4 章 飢餓か飽食か
100
三〇年で〇・一一ヘクタールから〇・〇八ヘク
タールにまで減っている。中国は農業生産の限
界に達したのでは、という見方が広がっている。
いる。表土は、動植物の残骸、肥料などの有機
植物繊維、樹木など有用植物の生産が行われて
すべての穀物、野菜、植物油脂、果物、飼料、
厚さは平均して一八センチほどである。ここで
有機物を多量に含み、農業を支えている土壌 はきわめて薄いフィルム状に大地を覆い、その
の生産活動がほとんどできない地域だ。
地、湿地帯などの気候・風土条件のために人間
いる。残りの二一%は乾燥地、寒冷地、急傾斜
放牧地二七%、森林三二%、都市九%となって
一三〇億ヘクタールで、その中身は耕地一一%、
るのは〇・三%である。地球の総陸地面積は約
私たちが食べる食物カロリーの九九・七%が 陸地で生産され、海や湖沼などの水から得られ
疲弊したアフリカの農地は雨や風で侵食されて不毛化し,食糧生産が落ち込ん でいる(タンザニアのアルーシャ郊外で)。
物が堆積し、土壌中の生物群の複雑で精緻な働きで少しずつつくられていく。
通常、温帯地方の自然状態では、一センチの表土ができるのに、一〇〇年から四〇〇年はかかると いわれる。理想的に管理された温帯地方の畑でも二〇年は必要だ。侵食で表土を失うと、回復にはき
わめて長期間かかる。土壌侵食は、米国では年間一ヘクタールあたり約一〇トンだが、中国では四〇
トンにものぼる。インドやアフリカ大陸では五〇〇〇トンを超える地域もある。二〇五〇年には九〇
億人を超えると予想される世界人口の増加を考えれば、土壌への圧力はますます増大することになる だろ う 。
もうひとつ、今後の農業生産に大きな陰を落としているのが、地球温暖化の行方だ。米国のカーネ ギー研究所とローレンス・リバモア国立研究所は、二〇〇七年三月に気温の上昇によって主要穀物の
収量が減少しているとする調査結果を発表した。一九八一年から二〇〇二年までの間に、小麦、大麦、
トウモロコシなど六種の主要穀物の生産量は、毎年四〇〇〇万トン以上も減少しており、その損失は 年約五〇億ドルにのぼるといるという。
これまで、生産性が向上し総生産量は右肩上がりだったために、温暖化の影響による減収はあまり 目立たなかった。しかし、近年の頭打ち傾向のなかで、昇温の悪影響が顕在化してきた。温度が一度 上昇するごとに、穀物生産量は二∼三%減少するという。
温暖化が﹁寒冷地が暖かくなって農地が拡大する﹂ことで増産に働くのか、﹁高温や乾燥による生 育障害が生じる﹂ことで減産になるのか、論争がつづいてきたが、減産説を支持する研究が増えてい
101 第 4 章 飢餓か飽食か
102
る。
農林水産省は二〇〇七年四月、地球温暖化が進んだ場合にコメや果樹の生育に深刻な影響が出ると の予測をまとめた。二酸化炭素濃度が約二倍になり気温が上昇すれば、コメの収穫量は東北地方五県
では増加するが、中部日本や西日本を中心に最大四割以上減産になる都道府県が出るなど、大きな影
響が広がるとしている。これまで土地の気候に合わせて品種改良されてきたが、気候の変化に対応す るため新品種の創出や作期の変更などの対策が必要となるとしている。
* 土壌侵食 雨 や 風 に よ っ て 土 壌 が 失 わ れ る 現 象 。 と く に 、 土 壌 の 流 出 を 抑 え て い た 森 林 や 草 地 な ど が 失 わ れると侵食を起こしやすい。肥沃な表土がなくなると農業生産力が落ち、土砂災害や砂漠化の原因にもなる。
飽食の国々
満が蔓延している。WHOは二〇〇七年、世界で約一六億人が太り過ぎ、つまりB 飢餓の一方で肥 * MI︵肥満指数︶二五以上の﹁肥満者﹂ ︵過体重︶とする推計を発表した。このうち、三億人はBM
Iが三〇以上の﹁重度肥満者﹂だという。つまり、世界人口の四人に一人が肥満状態にある。
︵表②︶のうち、クウェート︵八位︶と米国︵九位︶を除けば、す
肥満の問題は先進地域の問題として取り上げられてきたが、いまや発展途上地域でも深刻化してお り、とくに都市部でこの傾向が強い。WHOの﹁世界の肥満度ランキング﹂によると、人口に占める BMI 二五以上の割合のトップ
べて南太平洋諸国・地域である。日本は二二・六%で世界の一六三位だ。
10
南太平洋の島々を回っていると、元大関の小錦関︵両親が南太平洋のサモア出身︶のような体型の 人が圧倒的に多い。国際肥満学会︵IASO︶の調査︵二〇〇五年︶によると、昔の肥満はタロイモ
やヤムイモなどのでんぷん質の食事が理由だったが、最近の肥満は輸入缶詰やファースト・フードに よるものが多く、以前は少なかった生活習慣病が急増しているという。
比率 国 名
94.5 % ミクロネシア諸島 002.
91.1 003. クック諸島
90.9 004. トンガ
90.8
005. ニウエ(ポリネシア)
81.7
006. サモア
80.4
007. パラオ
78.4
008. クウェート
74.2
009. 米 国
74.1
010. キリバス
73.6
163. 日 本
22.6
かつては、飢餓大陸の代名詞だった中国でも、 急速な経済の成長から食糧事情が好転して、太
り過ぎが社会問題になってきた。中国衛生部に
よると、中国の肥満人口は国民の二〇%の二億
六〇〇〇万人にのぼり、糖尿病患者数は約二三
〇〇万人という。今後三〇年間で、肥満人口は
現在の四倍に膨れ上がるという推定もある。
マレーシアの保健省によると、肥満症の割合 が人口の三七%に達し一〇年で一七ポイントも
103 第 4 章 飢餓か飽食か
ファースト・フードの流行で、世界的に脂肪や糖分の多い高カロリーの食生活が広がっているうえ、 途上国でも自動車が普及して運動量が減ったことが原因とみられる。WHOは﹁いまのうちに予防措
(注) 15 歳以上を対象。 (出典) WHO,2006年。
置をとらないと、一〇∼二〇年後には発展途上地域でも心臓病や糖尿病などが急増する恐れがある﹂
001. ナウル
と警 告 し て い る 。
表② 世界の肥満度ランキング (人口に占める BMI が 25 以上 の人の比率)
増加した。このまま対策を講じなければ、二〇二〇年には国民の一二% が糖尿病にかかるという。
チュア保健相はファースト・フードが肥満の元凶だとして、二〇〇七年三月に﹁広告が禁じられてい
る酒、たばこと同様にファースト・フードの広告禁止を検討する﹂と発表した。
タイでも保健省が、三五歳以上の三人に一人、人数にして約一二〇〇万人が肥満の状況にあると警 告を発している。三五歳以上の三四%が高血圧で、三〇%が高血糖であることも判明したという。ブ
ラジルでも三一%が過体重という。サンパウロだけに限ると、六一%に跳ね上がる。
むろん、米国、ドイツ、英国、ニュージーランド、オーストラリア、カナダなどの先進地域では、 相変わらず肥満が社会的関心事である。米国は政府の公式統計で、成人の七四%が過体重、うち三九
%が重度肥満だ。ヨーロッパ諸国でも肥満は増加している。経済協力開発機構︵OECD︶の調査に
よると、ヨーロッパ連合︵EU︶全体では四五%以上の二億人が太り過ぎだ。英国は五一%、ドイツ は五〇%、ロシアは五四%が過体重だった。
日本では、厚生労働省の国民健康・栄養調査によると、四〇∼七四歳の男性の二人に一人、女性の 五人に一人がメタボリック・シンドローム︵内臓脂肪症候群︶か、その﹁予備軍﹂だという。その数 は計約一九六〇万人にのぼると推計される。
* ︶ 肥 満 の 程 度 を 表 す 指 標。 体 重︵ キ ロ グ ラ ム ︶ を 身 長︵ メ ー ト BMI︵ボディー・マス・インデックス ル︶の二乗で割ったもの。WHOの判定基準では二五以上三〇未満だと﹁過体重﹂、三〇以上を﹁重度肥満﹂。 二二がもっとも病気になる確率が低い理想体重とされる。
104
史上もっともぜいたくな食生活
食品が消費者に届くまでに、どれだけの輸送エネルギーが使われているかを示す指標を﹁フード・ マイレージ﹂という。食料の輸送量に運搬距離を掛け合わせた数値で、一九九四年に英国の消費者運
動家ティム・ラング氏が提唱した。食糧の生産地から食卓までの距離が長いほど、輸送にかかる燃料
や二酸化炭素の排出量が多くなり、食糧の消費が環境に対して大きな負荷を与えていることを意味す る。
農水省の試算によると、日本の総フード・マイレージは二〇〇一年時点で約九〇〇〇億トン・キロ メートルと世界最大だ。島国なので輸送距離が長くなるという事情はあるものの、隣国の韓国の二・
八倍、日本の二倍以上の人口を持つ米国と比べても三倍になる。現代の日本人は歴史上のどの時代、
どの国の王侯貴族よりもぜいたくな食事をしている、といっても過言ではない。
英国では、大手のスーパーが食料品や花にフード・マイレージの表示をはじめた。消費者はその表 示を比べて、環境への影響の少ない商品を選択できるようになった。
*
日本は世界最大の食料輸入国で、輸入額からみると、二位のイギリスの二倍、三位のドイツのほぼ 三倍もある。その一方で、世界最大の﹁残飯生産国﹂で、農水省が二〇〇〇年にはじめて実施した食
品ロス率の調査によると、食品産業を含めて、食品廃棄物は年間二二〇〇万トン、国民一人あたり一
七〇キロにもなる。一般世帯のロス率は八%、外食産業では五%と低かったが、宴会に限ると一六%、
結婚披露宴にいたっては二四%にも上った。食品廃棄物のうち、飼料などに再利用されたのは一二%
105 第 4 章 飢餓か飽食か
に過 ぎ な か っ た 。
日本の二〇〇六年の食糧自給率︵カロリーベース︶は先進地域で最低の三九%まで下がったが、廃 棄した食料を除いて実際に食卓にのった食料だけに絞って計算すれば、五六%に跳ね上がる。国内で
一年間に食べ残された食品の金額は一一兆円余に達すると、農水省ははじいている。
もうひとつの飽食はペットである。農水省によると、日本のペットフードの市場規模は二〇〇五年 で二四二〇億円。このうちのほぼ六割の一五〇〇億円が輸入である。この輸入額は小麦の輸入額を上
回る。ペットの間にも糖尿病などの生活習慣病がはやっているというのも、この飽食と無縁ではない だろ う 。
* 食品ロス率 食用として供給された食品から、青果物の皮、魚の骨などの通常食べない部分を除き、その うちの﹁食べ残し﹂や﹁賞味期限切れ﹂などの理由で廃棄された割合。
中国とインドの行方
迫して在庫率が一五%台、消費日数換算で五六日分に落ち込んだ。そこに、凶作に
世界の食糧備蓄量は、一九九九年は消費日数に換算して一一六日分あったが、二〇〇六年には五六 日分にまで減った ︵図❸︶ 。これは、一九七二∼七四年の戦後最悪の食糧危機に酷似した状況だ。この とき は 、 需 給 が
なった旧ソ連がひそかに米国などから二四〇〇万トンもの穀物を買い付けたことが引き金となって、 穀物相場が暴騰した。
106
図❸ 世界の穀物備蓄量(消費日数換算) (日) 140
100
80
60
56 日分 40
消費日数で換算した 穀物備蓄量
120
20
小麦とコメの価格が二倍になり輸入できなくったイン ド亜大陸やサハラ以南アフリカでは、深刻な干ばつや第
一次石油危機の経済的混乱と重なって、大規模な飢饉が
発生した。今度、もしも食糧危機が起きるとしたら、中
迫し、そこに干ばつなど
国やインドなどの急激な需要増や後述するバイオ燃料の 爆発的な生産増などで需給が
の自然災害が引き金を引く、というシナリオが考えられ る。
きわどいところまできた世界の食糧事情の今後は、穀 物生産の一、三位を占める中国とインドの生産量と消費
量にかかっているといっても、過言ではない。中国は一
九六〇年前後に二五〇〇万∼三五〇〇万人、インドも一
九六〇年代半ばに約一五〇万人と推定される餓死者をそ
れぞれ出す悲惨な飢饉を経験しており、農業には力を入
れている。過去二〇年間、穀物の対外依存率は、中国は
だが、中国の一人あたりの穀物消費量は、過去二〇年
六%、インドも三%以内に留まっている。
107 第 4 章 飢餓か飽食か
2010 年 2000 1990 1980 1970 0 1960
(出典) 米国農務省。
で約二倍になった。これにつれて、輸入も急増しており、小麦と大豆では日本を抜いて世界一の輸入
国になった。今後の肉類の消費増に伴う飼料の需要増を考えると、さらに輸入量が増える可能性が高 い。
中国がヨーロッパなみに穀物を消費をするようになれば、現在の世界の穀物生産量の約四〇%相当 が必要になる。インドも、国民の二割が貧困層で約三割が一日一ドル以下で暮らしている。彼らの所 得が少しでも増えれば、穀物の消費量は急増するだろう。
中国とインドにとって、農地をどれだけ確保できるかが農業の未来を握っている。米国農務省によ ると、作付面積は中国が国民一人あたり約六〇〇平方メートル、インドは六五〇平方メートルで、と
もにテニスコートの三面分ぐらいしかない。ちなみに、米国は一九〇〇平方メートル、日本は三七〇
平方メートルである。両国の利用可能な農地はすでにほとんどが耕作し尽くされており、人口増加と
都市・産業施設の急激な拡大に伴って、一人あたりの穀物作付面積が縮小しつづけるのは避けられな いだ ろ う 。
仮に現在の耕地面積がこれ以上減らないと仮定しても、人口増加分だけで一人あたりの穀物作付面 積は、二〇二五年までに中国で五三〇平方メートル、インドで五二〇平方メートルに縮小する。
すでに、小麦やトウモロコシなどの穀物や、油脂や砂糖などの価格が近年になく上昇している。こ の影響は、ケーキやマーガリンなどさまざまな食品の値上がりとなって身辺に及んできた。このまま
世界の穀物在庫の取り崩しが止まらないとすると、もしも両国のどちらかで凶作になったり、米国や
108
EUなどの大穀倉地帯で不作がつづけば、穀物価格は世界的に高騰することになりかねない。中国と
インドの農業と食糧に、世界が固唾をのんで注目しているのはこうした事情がある。 食糧をめぐる新たな争い
もうひとつ、食糧の先行きに不安を投げかけているのが、バイオ燃料の普及だ。高騰するガソリン に代わる救世主として、世界各国が農産物を原料とするバイオ燃料の製造に走り出した。バイオ燃料
は国際情勢に左右されない﹁自前のエネルギー﹂であり、しかもその燃焼に伴う二酸化炭素は京都議
定書の排出量割り当てに算入されない。バイオ燃料は大気中の二酸化炭素を吸収した植物そのもので
あり、燃焼してももともと大気内に存在した以上の二酸化炭素を発生させることはない、という理屈 だ。
すでに、ブラジルやヨーロッパでは、甘ったるい匂いやフライドポテトの匂いの排ガスを撒き散ら しながら自動車が走っている。砂糖キビや食用油からつくった燃料がガソリンに添加されているため
だ。だが、おいしい話ばかりではない。石油高騰と食糧不作が重なったら、人と自動車が食糧を奪い
合うことになりかねない。とくに、食糧自給率の低い日本は悲惨なことになるだろう。
バイオ燃料には、バイオエタノールとバイオディーゼル燃料がある。バイオエタノール︵以下、エ タノール︶は醸造酒づくりと同じ原理で、糖質やデンプン質を含む農産物なら小麦、コメ、トウモロ
コシ、砂糖キビ、テンサイ、イモ類など何からでもつくれる。他方、バイオディーゼル燃料は、ナタ
109 第 4 章 飢餓か飽食か
ネ、大豆、ヒマワリ、パーム︵ヤシ︶などの植物油を原料とし、現在の軽油が主体のディーゼル燃料 の代 替 に な る 。
世界各国がバイオ燃料の開発や利用に力を入れているなかで、日本も遅ればせながら環境省と経済 産業省が国内で使用されるすべての自動車用ガソリンを、二〇三〇年までにエタノールを混合したガ
ソリンに切り替える方針を決めた。政府もガソリン消費量の一割をバイオ燃料に置き換え、二〇一〇 年度までに原油換算で五〇万キロリットルの導入を見込んでいる。
計画通り普及すれば、二〇三〇年には一〇〇〇万トンの二酸化炭素が削減できると、政府は試算し ている。砂糖キビの産地、沖縄・宮古島では二〇〇五年一〇月から実験がはじまり、県と市の公用車 に使われている。多くの自治体がこれに追随しようとしている。 急増するエタノール生産
自動車燃料向けのエタノールの歴史は長く、量産車のT型フォードを開発したヘンリー・フォード は一時、燃料にエタノールを使うことを考えた。しかし、エタノールには酒類として高い税金がかけ
られていたために断念したという。現在でもレーシングカーには使われ、米国のインディカー・シ
リーズ︵IRL︶では二〇〇七年シーズンからエタノール一〇〇%の燃料が使用される。
自動車燃料向けのエタノール生産は、二度の石油危機で石油価格が高騰した一九七〇年代から、世 界的に本格化した。生産量は一九七五∼二〇〇五年に八〇倍にもなった ︵図❹︶ 。とくに、最近の一〇
110
図❹ 世界のバイオエタノール生産量 (億ガロン)
100
80
60
40
20 バイオエタノール生産量
120
年間は、毎年一〇%を超える高い伸びを示している。米
国エネルギー省は、二〇三〇年までに米国の石油燃料の
三〇%をエタノールに代えることが可能とする報告を発 表している。
エタノール生産は、それぞれ穀物と砂糖の世界の最大 の輸出国である米国とブラジルが抜きん出て、両国で世
界生産の七割以上を占めている。ついで中国、インド、
フランスなどがつづいている。日本は二〇位にすぎない。
補助金政策によってエタノールの利用を推進している国 が多い。
世界のトウモロコシ生産量の約四割、輸出量の約七割 を独占する米国は、国家プロジェクトとしてトウモロコ
シ を 原 料 と す る エ タ ノ ー ル 生 産 の 増 強 を 図 っ て い る。
ブッシュ大統領の二〇〇七年一月の一般教書演説のなか
で強調した再生可能な代替エネルギー政策で、とくにエ
タノールの重要性を指摘した。石油価格対策だけでなく、
原油の中東依存を軽減する安全保障対策、さらには農家
111 第 4 章 飢餓か飽食か
2010 年 2005 2000 1995 1990 1985 1980 0 1975
(出典) ワールドウォッチ研究所。
エタノール用のサトウキビを収穫する業者(ブラジル・リオデジャネイロ州カ ンポスにて,2006 年 8 月)。
112
の所得安定、農産物の価格支持、雇用創出な
どの農業保護や内需喚起の政策としても位置 づけられている。
二〇〇五年後半の石油価格の急騰後、米国 ではエタノール生産への投資は過熱している。
米国の再生可能燃料協会︵RFA︶によれば、
二〇〇七年末にはエタノールの年間生産能力
は約二五〇〇万キロリットルに達し、二〇〇
五年の実績の一・五倍にもなる。米国でエタ
ノール生産に回されるトウモロコシは、米国
農務省の統計によると二〇〇五/〇六年︵〇
五年九月∼〇六年八月の穀物年度︶は四〇〇
〇万トンで生産量の約一八%を占めた。
タノール生産に回されることになる。輸出な
シ予想生産量の二三%、七四〇〇万トンがエ
しかし、このままエタノール需要が増えつ づければ、二〇一五/一六年にはトウモロコ
写真提供 共同通信
どを除いた米国内の需要予想量に対しては、五〇%がエタノールの原料になる。当然、飼料や食品の 価格に跳ね返ることになるだろう。
ブラジルでは、石油危機を契機に、一九七五年に砂糖キビを原料とするエタノールを普及させるた めに、政府の主導で﹁プロアルコール計画﹂を開始した。生産量は一九七五年には五六万キロリット
ルだったのが、二〇〇五年には一六〇〇キロリットルを超えて三〇倍近くにまで増えた。
寧省では普通ガソリンを販売したガソリンスタンド
アジアでは中国が熱心にエタノール工場の建設に取り組んでいる。二〇〇四年には、黒竜江省、吉 林省、 寧省などで、すべての自動車に対しエタノール混合ガソリンの利用が義務づけられた。中国 政府は将来的にこれを全国に拡大する方針だ。
には罰金を科すほか、吉林省では燃料エタノール使用車には消費税などを免除するなど、硬軟とりま ぜた推進策が採られている。
年間の自動車販売台数が日本を抜いて世界の二位に躍り出た中国は、ガソリン消費量が急増してい る。エタノールの普及は石油消費の抑制やエネルギー安全保障にとっても重要な課題だ。そのために、
エタノール製造用のトウモロコシ生産には一トンあたり一三〇〇元の補助を行っている。現在四ヵ所
の工場で年間三〇〇万トンのトウモロコシからエタノールが生産されているが、今後も増産していく 計画 だ 。
米国に次ぐトウモロコシの生産国である中国は、かつては自給自足していたが、近年は需要の六割 以上を輸入するほど対外依存を強めている。食生活の向上で食肉消費量が大きく伸びており、家畜飼
113 第 4 章 飢餓か飽食か
料としてもトウモロコシの需要がさらに伸びると考えられている。今後、中国がエタノール原料をど う確保するかが、国際相場に大きな影響を与えることになるだろう。 バイオディーゼル燃料
ディーゼルエンジンの燃料に植物油を使うのは目新しいことではない。このエンジンを発明したド イツのルドルフ・ディーゼルが、一九〇〇年にパリで開かれた万国博覧会ではじめてディーゼル車を
公開したとき、ピーナッツ油一〇〇%の燃料で走らせた。だが、その後は石油が原料となり、ディー ゼル燃料も軽油が主体となった。
軽油の高騰とともに、ディーゼル車が普及しているヨーロッパではバイオディーゼル燃料の利用が 盛んになってきた。製造に使用されている植物油は、ヨーロッパではナタネ油・ヒマワリ油、米国で
は大豆油、東南アジアではパーム油、日本ではレストランから回収された廃食用油が主に使われてい
る。燃料として使う場合、バイオディーゼルの混合率が二〇%以下であれば、既存の自動車の仕様や 部品を変える必要がない。
。トップ 世界のバイオディーゼルの生産量は、一九九一∼二〇〇五年に三四〇倍にも増えた ︵図❺︶ はドイツ、次いでフランス、米国である。これまで、バイオディーゼル燃料の価格は、軽油のディー
ゼル燃料と比較して割高だった。しかし、原油の高騰やバイオディーゼル燃料の消費量の増大ととも
に、価格は通常のディーゼル燃料を下回るようになった。しかも、バイオディーゼル燃料は、一酸化
114
図❺ 世界のバイオディーゼル生産量 (億ガロン)
8
6
4
2 バイオディーゼル生産量
10
炭素、炭化水素、粒子状物質の排出量が従来型のディー
ゼル燃料に比べて一〇∼二〇%少なく、酸性雨の原因と
なる硫黄酸化物をほとんど出さない利点がある。 食糧か燃料か
自動車は人間よりも大食いだ。SUV︵スポーツ汎用 車︶の二五ガロン︵約九八リットル︶入り燃料タンクを
エタノールだけで満たすとしたら、一人が一年間に食べ
るトウモロコシが必要だ。二週間ごとに満タンにすれば、
一年間に二六人分の食べる量に相当する。
サハラ以南アフリカや中南米諸国のなかには、米国か ら輸入、あるいは援助されたトウモロコシを主食にして
いる国が多い。牛肉、ハム、鶏肉、牛乳、卵、バター、
アイスクリーム、ヨーグルトなどは、飼料のトウモロコ
シのかたまりのようなものだ。それ以外にも、スナック
菓子、ソフトドリンク、シリアルなどさまざまな製品に
使われている。ファースト・フードは﹁トウモロコシを
115 第 4 章 飢餓か飽食か
2010 年 2005 2000 1995 0 1990
(出典) ワールドウォッチ研究所。
丸かじりしているようなもの﹂といわれるほどだ。食品の価格は、トウモロコシの価格に連動する。
二〇〇七年はじめにメキシコ各地で、トウモロコシの値上がりに抗議するデモが相次いでいる。こ の粉を練って薄く焼いたトルティーヤは、メキシコ人のもっとも重要な主食だ。国際相場の高騰のあ
おりで、トルティーヤは地域によって六割も値上がりした。現地からの報道では、市民の間から﹁エ
タノールをつくるために、米国がメキシコから大量に輸入したのが高騰の原因﹂という非難の声が上 がっ て い る と い う 。
シカゴ商品取引所︵CBOT︶のトウモロコシ価格は、二〇〇六年一一月二〇日に一九九六年以来 約一〇年ぶりの高値をつけて、一ブッシェル︵二七・二キロ︶あたり三・七八五ドルを記録した。こ
れは八月一七日の直近最安値二・四九八ドルから、わずか三ヵ月で五割以上も上昇したことになる。 トウモロコシの期末在庫率も一二%台と、歴史的低水準に落ち込んでいる。
この原因としては、①米国のエタノール向け原料需要の拡大、②中国の輸入増大、③世界的な飼料 用の需要拡大、などが挙げられる。この近年の傾向に加えて、二〇〇六年は豪州の最悪の干ばつと熱
波被害、米国、アルゼンチン、ヨーロッパなどでの干ばつの被害、さらにはウクライナで害虫の大発 生による減産が重なった。
干ばつによる減産やトウモロコシへの転換圧力から小麦相場が急騰し、二〇〇六年一〇月一〇日に は一〇年ぶりの高値をつけた。小麦は同日に一ブッシェルあたり五・二四ドルに跳ね上がった。米農
務省によると、二〇〇六/〇七年度の世界の穀物の期末在庫率は一五・八%と、二〇〇〇年の三〇%
116
台から半減する見通しで、戦後最悪の食糧危機となった一九七〇年代初期のレベルにまで低落してい る。 食糧危機の足音
こうした穀物の価格上昇は、他のエタノール原料にも及んでいる。ニューヨークの粗糖先物相場は 二〇〇六年、七年ぶりに高騰した。このあおりを食って国内製糖各社も販売価格を引き上げた。和菓
子やケーキ類の材料となるグラニュー糖が三〇∼四〇%値上がりし、製品価格に転嫁の難しい菓子業 界は頭を抱えている。
食用油も一〇年ぶりに高値圏に入った。主要一〇種の食用油脂が、中国などの急速な需要増に加え て、ディーゼル燃料に転用されたことが原因となって価格が上昇している。スーパーなどの特売品の
スターだった食用油は、店頭価格も値上がりした。ナタネ油の価格高騰で、これを原料に使っている マーガリン、マヨネーズ業界は価格を引き上げている。
二〇〇五年の世界のナタネ油生産量は約四六〇〇万トンだったが、その半分はバイオディーゼル燃 料に回されたとみられる。日本は世界最大のナタネ油の輸入国であり、バイオディーゼル燃料需要増
の影響をもろにかぶることになる。二〇一〇年にはヨーロッパのバイオディーゼル燃料生産のために、
四四〇〇万トンものナタネ油が必要になると予測されている。ヨーロッパでは原料のナタネ油の高騰
に悲鳴をあげたマーガリン業界が、ヨーロッパ議会に救済を要請したほどだ。
117 第 4 章 飢餓か飽食か
世界人口が、二〇三〇年前後に八〇億人を超えたときの世界の食糧の状況は、国際機関や研究者に よって推定にはきわめて幅がある。食糧の不足は起きないと見るものから、二億トン程度の不足から
八億トン以上不足すると予測するものまである。この推定の多くは、今後のエタノール需要を計算に 入れていない。もしも入れれば、さらに悲観的なものになろう。
毎年新たに約七八〇〇万人が増える世界人口の九五%までが発展途上地域の人口だ。世界の約二〇 億人は、収入の半分以上を食べ物に費やすほど貧しい生活を送っている。世界で穀物自給率が一〇〇 %を超える国は二割ほどしかない。
発展途上地域の多くは輸入や援助に頼っている。世界の穀物輸出の三分の一は米国が握り、これに EUとオーストラリアを加えると六割を占める。米国で年間にエタノールに回されるトウモロコシだ けで、世界の一億人が食べるのに十分な量だ。
日本は世界最大のトウモロコシの輸入国で、その九五%までを米国に依存している。飼料のトウモ ロコシが値上がりすれば、さまざまな食品が値を上げることになる。しかも、トウモロコシの作付け
の拡大に伴って、やはり日本が大きく依存している米国の小麦や大豆の作付面積が減少している。
これだけ寡占体制の穀物生産国がバイオ燃料に走り出せば、穀物価格が上昇して貧しい国々の食糧 を奪うことになる。そして、飢餓が広がれば社会や政治の不安定にもつながる。穀物価格が危険水準
にまで高騰すれば、裕福な乗用車所有者と飢えた人々の間で、早晩食糧の奪い合いに発展する可能性
は高い。現時点で前者が六億二〇〇〇万人、後者は八億五〇〇〇万人である。
118
図❻ 各国の食料自給率(カロリーベース) (%)
英国
91
130 総合食料自給率
80
スイス
74 75 68 60
韓国 46
日本
食糧高騰がいかに貧しい国に過酷だったかは、 一九七〇年代初期の食糧危機で実証ずみである。
現在の発展途上地域の人口は、前回の食糧危機
のときのちょうど二倍になっている。同様の危
機が起きたら、影響は広範囲に及ぶだろう。パ
キ ス タ ン、 バ ン グ ラ デ シ ュ、 イ ン ド ネ シ ア、
フィリピン、ナイジェリア、メキシコといった、
大人口を抱えているうえに穀物を国外に依存し
ている発展途上地域は、政治経済が混乱し悲惨
な結果を招くことになる。
日本は世界的な食糧危機の圏外にいることは できないだろう。前回の食糧危機では自給率が
六〇%近くあったが、二〇〇六年は三九%にま
で下がった ︵図❻︶ 。これは、先進地域のなかで
最低であるだけでなく、食料自給率が判明して
いる一七三ヵ国・地域のうち一三五番目という
不名誉な順位である。 ﹁独立国とは食糧を自給
119 第 4 章 飢餓か飽食か
2000 2002 年 1995 1990 1985 1980 1975 25 1970
ドイツ 100 104
119 米国
125 112
54 49 40 46
50
フランス 150
(出典) 農林水産省「我が国の食料自給率」。
できる国のことをいう﹂というド・ゴール元フランス大統領のことばをかみしめる必要があるだろう。
バイオ燃料に農業や食品製造の廃棄物、期限切れの食品、廃材、廃油などを使えば、食糧と競合し ないとする反論もあるが、量と安定供給の面から長期的な原料確保は難しい。鳴り物入りではじまっ
たごみ発電事業が、燃料のごみの不足で休止や操業短縮に追い込まれるところが出ているのが、その 教訓 で あ る 。
いまや投機の対象にもなったバイオ燃料を市場原理にまかせっぱなしにしておけば、エネルギー危 機はいずれ食糧危機に姿を変える危険性が高い。すでに、その兆候が現れている。バイオ燃料が、本
│
だれが世界を養うのか﹄レスター・ブラウン︵福岡克也監訳︶、ワールドウォッチ
食糧危機の構造﹄スーザン・ジョージ︵小南祐一郎他訳︶、朝日新聞社、一
当に割安なのか、環境にやさしいのか、はたして安全なのか。普及がはじまった現在、即刻答えを出 す必 要 が あ る 。
│
﹃なぜ世界の半分が飢えるのか
︻参考文献︼ 九八四年
ジャパン、二〇〇五年
﹃フード・セキュリティ
﹃世界食料戦争﹄天笠啓祐、緑風出版、二〇〇四年 ﹃世界の食料不安の現状二〇〇五年報告﹄国際食糧農業協会、二〇〇六年
﹃ファーストフードが世界を食いつくす﹄エリック・シュローサー︵楡井浩一訳︶、草思社、二〇〇一年 ﹃食と農の戦後史﹄岸康彦、日本経済新聞社、一九九六年
120
│ 危機の本質﹄神門善久、NTT出版、二〇〇六年
﹃よくわかる食と農のはなし﹄生源寺眞一、家の光協会、二〇〇五年
﹃日本の食と農
121 第 4 章 飢餓か飽食か
流れの途絶えた黄河 この先河口まで約 700 キロにわたって水がなくなった。 (山東省済南市洛口で)
水の争奪戦がはじまった
5
新たな資源戦争のはじまり 第
章
この章を読み終えるのに、三〇分とかからないだろう。だが、世界保健機関︵WHO︶によると、 この三〇分間に世界で約二〇〇人の子どもたちが汚れた水や衛生施設の不備によって命を落としてい
る。その大部分が、アフリカやアジアに住む五歳未満の子どもたちだ。WHOの推定によれば、下痢
やコレラや住血吸虫など水が原因で死亡する人は、成人も含めて年間一〇〇〇万人にものぼる。これ ほど水の危機が私たちの身辺にも迫っている。
河川湖沼や地下水の淡水は、地球の全水分のごくわずかしかない。すでに人類は、地球を循環して いる水資源の半分余を利用しており、これに汚染や乱開発が加わってさらに水資源が少なくなり、各
地で水を奪い合う紛争も急増している。世界人口の五人に一人が、量的・質的に十分な飲料水を確保
できず、国連や世界銀行は水資源が決定的に不足の段階に入ったことを警告している。
水の不足は単に生活用水が足りなくなるだけでなく、大量の水を必要とする稲作などの農業、ハイ テク産業や鉄鋼業などの工業や、さらには環境や気象などへの影響は測りしれない。地球温暖化で各
地の雨の降り方が、地理的・季節的に偏りがひどくなることが予想されている。その変化は、現在よ
りも湿潤地方で増加し、乾燥地帯で少なくなるというもので、洪水と干ばつが増えると懸念されてい る。
二〇二五年には四八ヵ国で水が不足する見込みで、﹁二〇世紀は石油をめぐる戦争が起きたが、二 一世紀は水をめぐる戦争になる﹂という予言の言葉も聞かれる。水は空気と同じように必要不可欠だ
が、無尽蔵と思い込んできた水資源は、いまや﹁質﹂と﹁量﹂の両面から二一世紀の地球にとって解
124
決困難な問題になりつつある。 有限な水資源
地球上の陸地の降水量の年間総量は約一一万九〇〇〇立法キロメートルにものぼるが、土壌や植生 から蒸発する水が多いため、地上に残るのはそのほぼ三分の一の約四万五〇〇〇立法キロメートルぐ
らいだ。この水資源は、地域的・季節的に偏っているため、すべてが利用できるわけではない。
降水量は季節的に大きな差があり、たとえばアフリカのサヘル地方では七∼一二月、オーストラリ アでは一∼三月、インドでは六∼九月、ブラジルでは一〇∼五月に集中する地域が多く、これ以外の 乾期にはほとんど降らない。
水資源が多いのは、グリーンランドや南極の氷河、カナダやロシアの湖沼のように高緯度か、全表 流水の一三%が集中する南米アマゾン川流域のように、人口が希薄なところである。中国、南アジア、
中東、地中海周辺などの人口稠密な地域はもともと降水量が少なく、さらに人口一人あたりにすると もっと少なくなる ︵図❶︶ 。
地球上には一三億八六〇〇立法キロ近くの水があり、日本海をマスにして計ると、一〇〇〇杯分も ある。量でみる限りはほぼ無限だ。しかし、その九七・四七%までが海水であり、淡水はわずか二・
五三%にすぎない。しかも、この淡水のうち三分の二までが極地の氷雪層や永久凍土層、氷河として
凍りついている。私たちが使える水は河川や湖沼など地上を流れる表流水や雨水など地球全体の水量
125 第 5 章 水の争奪戦がはじまった
0
1,000
1,700
2,500
5,000
15,000 50,000 605,000 m3/人
深刻な水不足 慢性的水不足 断続的水不足
図❶ 偏在する水資源(1 人あたりの年間水資源量 m3)
データなし (出典) 世界資源研究所(WRI)。
126
図❷ 地球の水資源
地球上の水の量 約 13 . 86 億 km3
海水など 97 . 47% 約 13 . 51 億 km3
河川、湖沼など 0 . 01% 約 0 . 001 億 km3
私たちの利用できる水⇒
のわずか〇・〇一%以下にすぎない ︵図❷︶ 。これに六六億
人の世界人口がしがみついているのだ。
﹁水﹂は天然資源とは考えられてい 三〇年ほど前まで、 なかった。空気と同じように無尽蔵のものとされてきた。
一九七四年の国連天然資源委員会が、水をエネルギー、鉱
物に次ぐ第三の天然資源と定義してから、にわかに資源と
して注目されるようになり、その有限性に議論が及ぶよう
127 第 5 章 水の争奪戦がはじまった
になった。一九九七年の国連総会では、発展途上地域の水
問題を最優先課題にすることが国際社会に求められた。 地球に広がる水不足
口は三〇億人に及ぶ。
これ以外にトイレや上下水道など適切な衛生設備のない人
い人口は約一二億人、当時の世界人口の約二割に相当する。
された資料では、世界で慢性的に安全な飲料水を得られな
世界では多くの人々が水不足に苦しめられている。京都 で二〇〇三年に開催された第三回世界水フォーラムに提出 (出典) 世界水機構。
地下水 0 . 76% 約 0 . 11 億 km3 淡水 2.53% 約 0.35 億 km3
南極・氷河など 1.76% 約 0.24 億 km3
図❸ 地域別世界の水資源消費量(1900∼2025 年) (1000m3/ 年) 6000 世界 5000
4500
4000
1996 2000 2025 年 (予測) 1990 1900 1940 1950 1960 1970 1980 0
アジア 北米 ヨーロッパ アフリカ 南米 オセアニア 5500
3500
3000
2500
2000
1500
1000
500
(出典) 世界資源研究所,2001 年。
水の使用量は予想をはるかに超える速度で増 えている。世界の年間水使用量は、一九四〇年
に史上はじめて一〇〇〇立方キロに達したが、
その後、わずか二〇年後の一九六〇年に二〇〇
〇立方キロになり、二〇〇五年には約四四〇〇
立方キロになった ︵図❸︶ 。過去半世紀の間に人
口は二・四倍増加したのに対し、世界の水需要
の総量は、約三倍に膨れ上がった。その内訳は、
農業用水が約七割、工業用水が約二割、生活用 水が約一割である。
水不足国の大部分は人口急増国であり、水の 不足が農業生産、経済開発、自然保全などのき
びしい制約となって現れてきている。しかも、
異常気象による干ばつの多発が、水不足をさら
に深刻なものにしている。とくに、アフリカ、
南アジア、中国の中部と北部、米国西部、中東、
オーストラリアなどでは、慢性的に干ばつが発
128
生して需要の急増に供給が追いつかない。こうした地域では、上流で取水すると下流が不足するよう な﹁ゼロ・サム・ゲーム﹂が起きている。
今後ますます事態が悪化する可能性が高い。国連は、二〇五〇年には九二億人近くになると予測さ れる世界人口のうち、四〇億人以上が慢性的水不足の国に住むと予想する。国連は﹁ミレニアム開発
目標﹂︵本書第4章︶で、二〇一五年までに安全な飲み水を利用できない人口を現在の半分にする目標
を掲げている。そのために、二〇〇五∼一五年を﹁命のための水・国際行動の一〇年﹂に指定して呼 びかけているが、達成はほぼ絶望的だ。 食糧生産のカギを握る水
農業は水資源の最大の消費者で、とくに灌漑用水は全水消費の三分の二を占めている。後述するよ うに、農産物は水の塊といっても過言ではない。増えつづけている食糧需要をどうまかなうかは、灌
漑の普及がカギを握っている。農業の歴史をひもとくと、灌漑面積は人口増加よりも速い速度で拡大
してきた。現在は世界の耕地の約一七%が灌漑農地で、四〇%の食糧を生産している。
しかし、現在では人口一人あたりの灌漑面積は一九七八年をピークに頭打ちとなり、灌漑の総面積 も年率にして一%ほどしか増えずに人口増加率の一・一七%を下回っている。灌漑施設には巨額な投
資が必要であることに加えて、水が不足して灌漑用に確保できない事情がある。
灌漑は食糧増産の﹁魔法の杖﹂でもあったが、その代償も高いものについている。河川や地下水に
129 第 5 章 水の争奪戦がはじまった
130
はナトリウム、マグネシウム、カルシウム、塩
化カリ、炭酸塩などの塩類が溶けている。良質
の水道水でもわずかながら含まれている。
の農地の約四割に相当する。
ヘクタールの農地が塩害で失われ、これは日本
は一五%という高い数字になる。毎年二〇〇万
ジプトでは三三%、インドでは一七%、中国で
ンでは八〇%、ウズベキスタンでは六〇%、エ
の被害を受けた農地の割合は、トルクメニスタ
FAOは世界の農地の二割はこうした塩害を 起こしているとみている。全農地に対する塩害
が落ち込んで崩壊していった。
に、幾多の古代文明がこの塩類集積で農業生産
に地表に塩類だけを置き去りにしていく。過去
類を溶かして、乾期の強い日射で蒸発するとき
灌漑水に含まれる微量の塩類が土中にたまっ ていく。あるいは地下に浸透した水が土中の塩
灌漑によって地中からしみ出し地表に堆積した塩類。作物が育たなくなる(タ イのコンケン近くで)。
工業でも水の需要がますます増大している。産業の拡大は人口増以上に水の使用量を増やしている のだ。小型乗用車一台をつくるにも、各部品の原料や全製造工程に要するものをすべてひっくるめて
四〇〇トン以上になる。鉄鋼一トンには冷却水など九〇トン、石油精製でも一トンにつき一八〇トン、
紙一トンには二五〇トンといった具合だ。しかも、工業用水として使われた水の八〇%は程度の差こ そあれ汚染されている。
この汚染で水の再使用が妨げられていることが、水資源の不足をさらに悪化させている。国連環境 計画︵UNEP︶の資料から汚染者を業種別でみると、先進地域では食糧が四〇%︵発展途上地域五
四%︶、紙パルプ二三%︵一〇%︶、金属一〇%︵七%︶ 、化学九%︵七%︶の順だ。 地下水の枯渇
世界的な水資源の危機をもっとも雄弁に物語るのは、最後の淡水資源である地下水の枯渇だ。地下 水の汲み上げ量は飛躍的に増加して、世界の年間水使用量の一〇%を占めるまでになった。世界人口
の四分の一以上が、飲料水を主として地下水に依存している。その人口は、ヨーロッパでは七五%、
米国では五〇%にもなる。他方、地下水を過剰に汲み上げている諸国に住む人々の数は、世界人口の ちょうど半分の三三億人に及ぶ。
安価な小型ポンプの普及、ポンプ用の電力とディーゼル燃料への助成などが、揚水規制の法的不備 と相まって過剰な汲み上げが行われ、世界の重要な帯水層の多くが急速に水位の低下を起こしている。
131 第 5 章 水の争奪戦がはじまった
地下水の供給量と使用量の収支は、毎年一六〇〇億トンもの赤字になっている。
とくに、米国は深刻の度を加えている。﹁世界のパンかご﹂と呼ばれる米国西部の大平原地帯の世 界最大の穀倉地帯は、もともと乾燥性が高く年間の降雨量が三〇〇∼五〇〇ミリとアフリカのサバン
ナなみである。ここには、オガララ帯水層という巨大な地下水脈が南北に走り、その面積は日本列島
よりもひと回り大きい約四五万平方キロ。氷河期から蓄えられてきたもので、汲み上げ分だけ水位は 低下していく。
北はサウスダコタ州、南はテキサス州に至る八つの州が、小麦やトウモロコシなどの耕作を地下水 に依存してきた。第二次大戦以降に地下水利用がはじまり、農家が競ってこの帯水層からパイプ井戸
による揚水で灌漑して、この乾燥した不毛の平原を一大穀倉地帯に変えた。帯水層に依存している農
地は、米国の灌漑面積の二七%に相当する。ここで、全米の小麦と棉花の約二〇%、トウモロコシの 一五%、肉牛の一八%が生産され、米国農業を支えてきた。
揚水量は約一三万基の井戸で、過去半世紀で約五倍に増えた。一九八〇年代に入って過剰揚水によ る水位低下が問題になってきた。地下水位は平均約三〇メートルも低下し、オガララ帯水層の枯渇が
危惧されている。水位低下から地下水に塩分が混ざるなどの実害も出はじめている。大平原南部の潅 漑面積は地下水枯渇が顕在化してきた一九八〇年から二四%も減少した。
カンザス州などでは、地下水の水位が下がったために揚水ポンプの燃料代がかさみ、採算がとれな くなって離農する農家が出はじめた。サウスダコタ南部からネブラスカ、コロラド東部、オクラホマ、
132
米国大平原の畑のスプリンクラーによる散水光景。
テキサスにまたがる一帯では過剰揚水は国家的
な懸案事項にもなっている。
このまま水位が下がりつづければ、遠からず 農業生産に深刻な影響を与えかねない。日本は
トウモロコシ輸入量の約九割と小麦輸入量の約
六割を米国に依存している。日本にとどまらず、
米国からの輸入に頼っている多くの国々に決定
133 第 5 章 水の争奪戦がはじまった
的な悪影響を及ぼすことになるだろう。
過剰揚水による地下水位の低下は世界に広 がっている。中国では穀物生産の約七割が地下
水に依存している。中国北部の乾燥・半乾燥地
一帯で地下水が枯渇しつつある。灌漑農地の生
産性は雨水に依存する天水耕地の三倍も高く、
地下水枯渇は農業生産にも響いている。
への依存が高まって地下水の枯渇の心配が出て
中国最大の穀倉地帯である華北平原を含む北 部では干ばつ傾向が強まっており、地下水灌漑
写真提供 アフロ
きた。地下水位は年に一∼一・五メートルの勢いで下がりつづけている。すでに十数万本の井戸が放
棄されたという。最近は深さ一〇〇〇メートルという井戸も登場した。地下水の大量の汲み上げで、
地盤沈下も加速している。一方で、急増する都市部の水需要が供給限界に近づいているため、都市と 農業の水の奪い合いも激しくなっている。
アジアのほかの大河川流域では、砒素を高濃度に含んだ地層が存在することが知られている。とり わけ、インドからバングラデシュにかけて、ガンジス川の河口地帯ではその濃度が高い。この河口地
帯では、一九八〇年代から住民の間で砒素中毒の症状を訴える人が増えてきた。
そ れ は、﹁ 緑 の 革 命 ﹂ と 呼 ば れ る 高 収 量 の 稲 の 新 品 種 が 普 及 す る の と、 歩 調 を 合 わ せ る よ う に 広 がった。この新品種には大量の灌漑用水と化学肥料が必要だった。そのために各地で灌漑用の浅井戸
が掘られ、インドでは農業省の統計によると、一九五〇年の三〇〇〇本から二〇〇〇年には六〇〇万
本を超えるまでに普及した。井戸のお陰で、水の涸れる乾期でもコメがとれるようになった。だが、
過剰な取水が横行して地下水位が低下、年に数千本の灌漑用井戸が涸れるまでに被害が拡大している。
住民は競って井戸を深く掘り下げたために、砒素を含んだ地層まで突き抜けて井戸水に砒素が混入 するようになった。また、地中では硫化鉄に含まれて安定していた砒素が、投入された化学肥料が地
下に浸透してバクテリアの繁殖をうながした。そのために水中の酸素が消費され、還元状態になって
地下水は住民の飲用にもなっていた。とくに、この一帯ではコレラなどの非衛生な水が原因の疫病
砒素が溶け出すようになった、とみる専門家もいる。
134
図❹ 砒素による井戸水の汚染地域
中国 パキスタン
ミャンマー インド
が流行しているため、国連機関や世界
銀行の援助で飲料用井戸を掘っていた。
これも砒素中毒に拍車をかけることに
なり、インドからバングラデシュにか
けて砒素中毒が広がり ︵図❹︶ 、その患
者は両国を合わせて二〇万∼三〇万人
にのぼると、WHOは推定している。
中毒にかかると、皮膚が黒ずんでイボ
が多発し、重くなると内臓に潰瘍や壊
疽を起こし癌になることもある。
地下水の枯渇は、このほかメキシコ、 サウジアラビア、イラン、イエメン、
イスラエルなどでも進行している。サ
ウジアラビアでは、地下の化石水を大
量に汲み上げて、小麦生産量は一九八
〇年の一四万トンから一九九二年には
四一〇万トンに急増し、 ﹁小麦輸出国﹂
135 第 5 章 水の争奪戦がはじまった
バングラデシュ ビハール州
ブータン ネパール ウッタル プラデシュ州
西ベンガル州
(出典) 谷正和『村の暮らしと砒素汚染─バングラデシュの農村から』 (KUARO 叢書 5) , 九州大学出版会,2005 年,12 ページ。
にもなった。だが、地下水層が急速に失われた結果、二〇〇四年は一六〇万トンにまで落ち込んだ。 中国の水不足
世界の水関係者の視線が注がれているのが中国である。水資源の深刻な不足国のリストに入ってい るものの、水資源対策が大きく遅れ、人口増加や近年の経済成長で水使用量が急増している。さらに
水源林の乱伐も進んでいる。全水資源の八〇%が農業用水にまわされ、水不足が土壌悪化 ︵本書第7
章︶と相まって農業生産が下がり、世界的な食糧危機を引き起こすのではないか、とまで警戒されて
いる 。
中国には北から順に海河、黄河、淮河、長江という四つの大河が流れているが、大洪水を引き起こ すほど水量が豊富なのは長江だけで、かつては洪水が頻発した黄河や淮河などでは、途中で川が干上 がる﹁断流﹂がしばしば起きている。
黄河下流域では一九九七年に年間二八二日も断流を記録した。一九九八年にははじめて年を越して 断流が発生、黄河本流のみならず、中流域の渭河などの主要な支流でも発生した。
断流によって、農作物被害のほか操業を停止する工場も続出した。生活用水に困る人々は三六〇万 人に達した。 ﹁断流﹂は一九七八年の改革・開放政策直後にはじまった。灌漑用水の急増、貯水能力 不足などに加えて、雨量の減少が追い打ちをかけた。
黄河流域以外にも、北部の淮河、海河流域などでは降雨量が少ないうえに人口が密集し、水消費は
136
膨れ上がっている。北部地域の一人あたりの水資源は全国平均の三分の一で、長江など大河川を抱え る南部地域の約六分の一にすぎない。
と く に 、 天 津 、 河 北 、 山 西 、 内 蒙 古 、 甘 粛、 新 疆 な ど 八 つ の 省 ・ 直 轄 市 ・ 自 治 区 の 水 資 源 の 枯 渇 は深刻で、毎年のように水不足が発生して農業被害が起きている。二〇〇五年には、広東省西部を
襲った干ばつのために八〇万人が渇水状態となり、多くの家畜が死んだ。農民は出稼ぎ労働者となっ て家族を養っているため、被害地の農村は空っぽになった。
迫した国になる可能性も指摘されている。
世界銀行の調査によると、中国の一人あたり水資源量はわずか二二〇〇立方メートルで、世界平均 の四分の一に過ぎない。このままでは、二〇二五年には一人あたりの水資源は一七五〇立方メートル まで下がり、世界でももっとも水資源の
このとき、年間三七〇億トンもの水が不足する。穀物一トンの生産に必要な水を約一〇〇〇トンと すると、この水の不足量は三七〇〇万トンの穀物、すなわち現在の穀物消費に換算すると一億一〇〇 〇万人の中国人を養うだけの農業用水量に相当する。 日本は最大の水輸入国
国際河川のない日本は、水紛争には無関係である。しかし、形を変えた水の問題を抱えている。世 界の陸地の年平均降水量は約九五〇ミリなのに対し、日本の年間降水量はその倍の約一七〇〇ミリも
あるが、人口で割った一人あたりの水資源にすると世界平均の約四分の一しかない ︵図❺参照︶ 。
137 第 5 章 水の争奪戦がはじまった
図❺ 世界の降水量 (1) 各国の降水量
(2) 各国の 1 人あたり年降水総量
2,620 2,360 2,010 1,718 1,470 1,420 1,191 1,170 1,064 1,000 973 760 750 700 700 660 600 522 460 250 100 65
3,000 2,500 2,000 1,500 1,000 500 (mm/年)
23,526 インドネシア 9,320 フィリピン ニュージーランド 5,114 日 本 8,217 スイス 11,867 タイ 12,164 オーストリア 3,795 インド 4,415 英 国 5,258 イタリア 21,796 世 界 25,565 米 国 7,001 フランス 7,474 ルーマニア 35,351 スウェーデン 4,958 中 国 7,661 スペイン カナダ オーストラリア 6,031 イラン サウジアラビア 9,949 951 エジプト
0
0
140,801
167,100 188,550
50,000 100,000 150,000 200,000 (m3/人/年)
(出典) ⑴ 国土交通省土地・水資源局資源部,平成 14 年版「日本の水資源」2002 年。 ⑵ I. A. Shiklomanov, , WMO, 1996.
これまでも渇水は何度となくあっ たが一時的、局地的なものに終わっ
て き た。 身 辺 に 水 が 豊 か な た め に
﹁湯水のように﹂という感覚が一般
的だ。だが、日本は世界最大の食糧
の 輸 入 国 と し て、﹁ 仮 想 水 ﹂ を 大 量
に輸入する世界最大の水の輸入大国
だ。
農産物、畜産物の生産には大量の 水が必要である。その水は表面的に
は見えないため﹁仮想水︵間接水︶ ﹂
と呼ばれる。一キロのコメをつくる
に は 七・ 七 ト ン、 一 キ ロ の 小 麦 は
四・五トン、トウモロコシは二トン
の水を必要とする。牛肉を一キロ生
産するのには飼料作物を育てる水、
牛の飲み水、肉の処理水などに合わ
138
図❻ 日本の仮想水輸入量 (1) 日本の仮想水輸入総量(1035 億 m3/年,単位:億 m3/年)
54
10
15 596 5
27
256
その他:72
日本国内の年間水資源使用量:890 億 m3/年 (2) 日本の仮想水輸入量品目別シェア その他 3 . 4%
豚肉 4 . 3%
小麦 18 . 6% トウモロコシ 12 . 4%
牛肉 45 . 3%
大豆 16 . 0%
せて一〇〇トンもいる。
豚肉が一一・一トン、鶏
肉四・九トンである。
食品でみると、食パン 一斤に必要な水は五〇〇
∼ 六 〇 〇 リ ッ ト ル、 ス
テーキ二〇〇グラムでは
139 第 5 章 水の争奪戦がはじまった
約四〇〇〇リットル、こ
れは二リットルのペット
ボトルで約二〇〇〇本分
だ。コーヒー一杯飲んで
もその背後には一四〇
リットルの水が使われて
いる。
によると、各国とも農業
東京大学生産技術研究 所の沖大幹教授らの計算
(出典) 沖大幹(東京大学生産技術研究所)。
生産に日本と同じ水量を使っていると仮定して日本の輸入農産物にあてはめると、二〇〇二年の時点
で、穀物で四八六億トン、食肉類を含めると一〇三五億トンもの水を﹁輸入﹂していることになる
。日本国内の水使用量の八九〇億トンさえ上回る。日本が食料の世界一の輸入国ということは、 ︵図❻︶ それだけ海外の水資源に大きく依存していることを意味する。
もう一つの輸入は、ビン詰めの水﹁ボトルド・ウォーター﹂の輸入である。日本の市場規模はこの 一〇年ほどで七倍にも消費が伸びた。市場規模一五〇〇億円もある。かつて、﹁フランス人はワイン よりも高い水を飲んでいる﹂と日本では笑い話にされていた。
そのころは日本の水道水は世界でももっともおいしい﹁特級﹂といわれ、日本に入港した外国船が 日本の水道水に詰め替えたともいわれた。だが、水道原水の質の悪化に伴って大都会の水道水はまず
くなる一方で、ガソリンなみに高いミネラルウォーターを飲む習慣が広がっている。 広がる水紛争
日本は島国のために無縁だが、世界には複数の国にまたがって流れる国際河川が二八二あり、世界 人口の四〇%がこれらの河川の集水域で生活している。多くの重要国際河川では、水の利用に関して
国家間で条約や協定が結ばれている。国際河川の利用を定めた国際法は存在するものの、内容が曖昧
とくに、国境を越えて流れる国際河川をめぐっては、上流と下流の水の奪い合いは激しくなってい
で一貫性がないために紛争処理の機能を果たしていない。そのためにしばしば国際水紛争が起こる。
140
る。米国ワールドウォッチ研究所︵WRI︶によると、二〇世紀に起きた武力紛争のうち、水をめぐ
る 対 立 が 原 因 と 思 わ れ る も の が 七 例 あ り、 う ち 四 例 が 実 際 に 戦 闘 に 突 入 し た。 イ ス ラ エ ル と シ リ ア
︵一九四八年︶、エチオピアとソマリア︵一九六三∼六四年︶、イスラエルとシリア︵一九六五∼六六 年︶、モーリタニアとセネガル︵一九八九∼八九年︶である。
五大陸で五一ヵ国にまたがる一七の河川で紛争の危険性があるという。世界の大河川は、アマゾン 川やコンゴ川などのように未開の地を流れるもの以外は、上流でのダム建設や取水によって急激に流
れが細くなっている。こうした紛争は今後ますます増えることになるだろう。 ⑴ 中 東
中東の紛争や政治的緊張の原因は、民族や宗教の対立、石油利権から論じられることが多いが、水 資源をめぐる抗争も深く根を張っている。中東一帯は、年間降水量は一〇〇∼二〇〇ミリで日本の一
〇分の一ほどしかない。このために、旧約聖書の時代から水をめぐる抗争が絶えなかった。アラビア
語では﹁渇き﹂を表す単語が、その程度によって八段階に分かれ、それぞれ異なることばが使われる という。中東では水がいかに切実な問題であるかの現れでもある。
この地域の最大の紛争地点は、年間を通じて利用可能なヨルダン川とその支流だ。複雑な政治的対 立をつづけるイスラエル、シリア、レバノン、それにヨルダン川西岸地区、ゴラン高原の五つの国と 地域が、ヨルダン川の水を共有している ︵図❼︶ 。
141 第 5 章 水の争奪戦がはじまった
図❼ 深刻な水紛争を抱える中東
ガザ地区
ゴラン 高原
イスラエル
ヨルダン
アフガニスタン イラク
イラン レバノン ヨルダン川
チグリス川 ユーフラテス川 トルコ
シリア
サウジアラビア
とくに、イスラエルはレバノン、ヨルダ ン、シリアに水源を押さえられており、安
全保障上の重大な脅威として神経を尖らせ
てきた。イスラエルは一九六七年の第三次
中東戦争で、それまでヨルダンが占領して
いたヨルダン川西岸地域と、エジプトが占
領していたガザ地区を占領下に置き、シリ
ア領だったゴラン高原をそれぞれ占領した。
これらの地域の占領によって、イスラエ ルは水需要の三割をまかなう水源を確保す
ることができた。ヨルダン川西岸地区の占
領によってヨルダン川中下流と主要な地下
水 層 を 三 つ 支 配 し、 ゴ ラ ン 高 原 の 占 領 に
よってヨルダン川の上流を押さえたからだ。
結局、ヨルダン川の水が西岸地区に到達す
るまでに、水量の七五%をイスラエルが独
り占めできるようになった。
142
イスラエルはヨルダン川西岸地区とガザ地区を占領後、占領地の水資源をすべて接収し国有財産と し、水資源に関する権限を軍に移管した。占領地の地下水の利用可能水量の八割以上を押さえた。イ
スラエル人入植者向けに井戸が多数掘削され、大量に取水された結果、井戸は涸れて深刻な水不足が 広がり、地下水の塩分濃度が上がって使えなくなった。
パレスチナ人のヨルダン川の水の利用を禁止し、井戸を掘るのにもイスラエルの許可が必要とされ た。その結果、占領地に住むパレスチナ人の一人あたりの年間水消費量はイスラエル人の二割にすぎ ず、慢性的な水飢饉の状態だ。
一九九三年にイスラエル政府とパレスチナ勢力間で﹁オスロ合意﹂が結ばれた。この交渉でパレス チナ人は年間四億五〇〇〇万立方メートルの取水を要求したのに対して、イスラエルは家庭用に二八
六〇万立方メートルを認めただけだった。今日においても、イスラエルによる水資源の全面的な支配 は変 わ ら な い 。
とりわけ深刻な事態に陥っているのが、シナイ半島の北東部、東地中海に面したガザ地区である。 二〇〇五年にイスラエルがすべてのユダヤ人入植地を撤去、軍隊を撤退させた。その後も両勢力の緊
張がつづいている。人口の三分の二以上をイスラエルに追われたパレスチナ難民が占め、約三六〇平
方キロほどの地域に約一四〇万人が詰め込まれた、世界でもっとも過密な地域といわれる。
ガザの住民は浅い井戸からの取水しか認められていないために、過剰な汲み上げによって地下水の 塩分濃度が高くなっている。二〇〇〇年九月にインティファーダ︵パレスチナの民衆蜂起︶が起きる
143 第 5 章 水の争奪戦がはじまった
や、イスラエルはその報復として断水させ給水施設を破壊した。二〇〇三年一月にはガザ地区南部の
町 で、 地 区 の 六 〇 % の 上 水 を ま か な っ て き た 二 つ の 井 戸 が 破 壊 さ れ、 市 民 は 水 飢 饉 に あ え ぐ こ と に なっ た 。
パレスチナ自治区では水質が悪化している。過剰汲み上げで地下水の塩分が増加し、世帯の四〇% しか下水道が整備されていないために汚染が進行し、化学肥料の浸透による硝酸塩の汚染も広がって いる 。
これまで、水をめぐるイスラエルとパレスチナの交渉は、ほとんどすべてが失敗した。イスラエル は、﹁水は力なり﹂というアラブ世界の論理を押し通している。占領地を返したがらないのも、水こ そが国家の生命線と考えているためであろう。 ⑵ チグリス・ユーフラテス川
パリのルーブル博物館には世界で最古とみられる条約文書が保管されている。紀元前二七〇〇∼二 六〇〇年ごろ、メソポタミアのラガシュとウンマの二つの都市国家で水をめぐる激しい戦闘が起き、 その結果取り交わされたものだ。
両河川はメソポタミア文明の発祥の地でもある。水源はトルコにあり、チグリス川は途中でシリア との国境を通ってからイラクに流入する。一方、ユーフラテス川はトルコからシリアを流れ、最後に イラクへ入る。二つの川は、バグダッドの南で合流する ︵図❼参照︶ 。
144
イラク、シリア、トルコの三ヵ国はもともと関係が険悪であり、数十年にわたる水争いをつづけて いる。とくに三国の国境地帯に住むクルド人の独立闘争をめぐって、トルコはシリアやイラクに拠点
を持つクルド人組織が、トルコ国内で反政府活動を展開しているとして非難してきた。上流でダム建
設などの河川開発を急ぐトルコと、下流でその影響を被るシリアとイラクとは、利害がまったく反す るか ら だ 。
トルコは一九七〇年代、ユーフラテス川にケバン・ダムとカラカヤ・ダムを建設した。その結果、 下流のシリア、イラクは慢性的に水不足に悩まされるようになった。さらに、一九八〇年代から﹁南
東アナトリア開発計画﹂ ︵GAP︶に着手し、ユーフラテス川上流地域に四〇ヵ所のダムと二キロに 及ぶ灌漑水路をつくって、大規模な棉花栽培に乗り出した。
一九九二年には、GAPの中核となるアタチュルク・ダムがシリアとの国境近くに完成した。世界 でも六番目に大きいダムで、多くの古代遺跡とともに二〇〇〇近い村が水没した。全国の電力需要の
二〇%を満たす発電所を建設し、アナトリア地方の二万ヘクタールを灌漑する壮大な計画だ。この計 画が全面的に動き出すと、ユーフラテス川の水量の半分を使うことになる。
このダム建設によって、上流でさらに水が奪われるシリアとイラクは猛反発した。アサド大統領は、 アタチュルク・ダムに対して、国境に住むクルド族をけしかけてゲリラ作戦で対抗した。トルコは、
シリアがクルド人組織を支援しつづければ、ダムを使ってユーフラテス川の水を他の地域に流出させ、 シリアに流れ込む水を減らすと警告した。
145 第 5 章 水の争奪戦がはじまった
シリアとトルコの話し合いで、月平均毎秒六〇〇立方メートルを下流に流すことで合意しているが、 実際にはこの量を下回っているとして、国境近くのシリアの農民は抗議をつづけている。チグリス・
ユーフラテス両河川の間には大湿原が横たわっているが、流量の低下とともにその面積が急速に縮ん で自然保護団体からは、復元するように要求が出されている。 ⑶ ナイル川
全 長 六 五 〇 〇 キ ロ の ナ イ ル 川 の 流 域 は、 源 流 の ウ ガ ン ダ、 ル ワ ン ダ か ら 河 口 部 の エ ジ プ ト ま で 一 〇ヵ国にまたがる。流域には二億五〇〇〇万人が住み、二〇二五年には四億人、二〇五〇年には一〇
億人に達するとする予測もある。ナイル川の恩恵は、エジプトがほぼ独占し、国民の九七%までが川
に依存している。しかし、流域人口の増大で各国との不協和音が響いてきた。
一九七九年にイスラエルとの和平条約の調印後、サダト大統領は﹁わが国がふたたび戦争に引き戻 されるとしたら、その原因は水だけだ﹂という有名な演説を行った。エジプト出身のガリ元国連事務
総長は、水紛争によってナイル川沿岸国に紛争が勃発する可能性を何度となく指摘してきた。
地中海にそそぐナイル川の河口の水量は、このところ目立って減っている。最下流に位置するエジ プトが、スーダン、エチオピア、ウガンダなど上流国のダム建設などの開発に神経を尖らせているの
問題に火をつけたのは、エジプトが一九七〇年に建設したアスワン・ハイ・ダムである。貯水容量
もこ の た め だ 。
146
は一六四〇億立方メートル。日本でもっとも貯
水容量が大きい奥只見ダムの二七〇倍もある巨
大 な も の だ。 電 力 供 給、 水 資 源、 洪 水 調 節 と
いった効果は大きく、今日のエジプトの繁栄に
貢献したことは間違いない。
んできた有機物を多量に含む氾濫原で、肥料も
いらずに耕作してきたのが、洪水の制御ととも
に有機物が行きわたらなくなったのだ。同時に
海に流れ込む有機物が減少し、地中海のプラン
クトンの発生が減ってナイル河口周辺の漁業は 壊滅的打撃を被った。
それまで洪水が洗い流していた塩類が蓄積さ れるようになって、作物に塩害が発生した。さ
らに下流の水路では、洪水で押し流されていた
巻貝が静水域で大発生し、それを宿主とするビ
147 第 5 章 水の争奪戦がはじまった
その一方で、数千年来の農業システムがダム でせき止められて崩壊してしまった。洪水が運
さまざまな生態的異変を起こしたばかりでなく,周辺国との水争いのタネをま いたアスワン・ハイ・ダム(エジプトのアスワンで)。
ルハルツ住血吸虫が国民病といわれるほどに流行するようになった。
流域国にとっては、このような大規模開発でエジプトがナイル川の水を独占するのではないか、と する心配が強まり、同時に建設後に起きた環境の激変は警戒感を呼び起こしている。他方、エジプト
にとっては、上流での取水量が増えるとアスワン・ハイ・ダムでできたナセル湖の水位が下がって発 電にも影響が出る心配がある。
エジプトとスーダンは、ナイル川をめぐってたびたび利害が衝突してきた。アスワン・ハイ・ダム による冠水地域はスーダン国内にも及び、スーダン北部の数万人のヌビア人が移住を余儀なくされ、 両国間でそのしこりがまだ残っている。
近年、内戦と干ばつがひどくなるスーダンでは、ナイル川流域への大規模な人口移動が起きている。 これに伴ってナイル川の重要性が高まり、スーダンとエジプトが中心になって、世界銀行などの援助
機関や援助国の助力を得て、二〇〇一年に﹁ナイル流域イニシアティブ﹂が結成された。これはナイ
ル川の全流域国が参加して、流域管理のためにはじめて結成された政府間組織であり、これによって 紛争が減るという期待がもたれている。 ⑷ インダス・ガンジス川
チベット高原から流れ出るインダス川は、インド・パキスタンが国境紛争をつづけるカシミールに 流れ込む。さらに両国の多くの川をより合わせてアラビア海に達する。上流のインドと下流のパキス
148
タンは、インダス川の水利権をめぐって怨念の対立をつづけてきた。
とくに、パキスタンは一九八〇年代以来、インドが計画しているトルブル運河ダムに懸念を表明し て重要な外交議題になってきた。一一億人を超える人口を抱えるインドでは、いくら水があっても足
りない。過密な人口を抱えて水質が悪化し、下痢、肝炎、寄生虫など水に起因する病気で死ぬ五歳未 満の子どもは、年間一五〇万人を超えると推定される。
この両国は一九四七年の独立以来、カシミールの領有権をめぐって武力抗争を繰り返してきた ︵本 書 第2 章 ︶ 。カシミールはインダス川の上流域に位置し、両国にとって重要な水源である。現在は停
戦合意ができて小康状態を保っているが、水利権確保をめぐるにらみ合いは収まらない。
インドとバングラデシュにまたがるガンジス川でも、上流のインドと下流のバングラデシュの間で 取水量をめぐって、緊張がつづいてきた。ガンジス川はヒマラヤ山脈に水源をもち、ネパール、イン
ド、バングラデシュを流れる。インドが一九七五年にバングラデシュ国境から約二〇キロ上流にファ
ラッカ堰を建設して以降、バングラデシュでは乾期の水不足がひどくなっていると抗議して、対立が
激しくなった。両国は一九九六年に下流の権利を尊重した﹁ガンジス川条約﹂を結び、協調の道を探 る機運が生まれている。
同時に、バングラデシュは定期的に雨期の大洪水に見舞われてきた。国土の約六割が標高七メート ル以下の低地であり、とくに河口一帯の低湿地は無数の湖沼、河川が分布している。一九五四∼五五
年、七四年、八七∼八八年、九八年、二〇〇四年の洪水は被害が大きく、八八年の洪水では国土の三
149 第 5 章 水の争奪戦がはじまった
分の二が水没するほどの規模となった。この洪水については、水源のネパールで森林破壊が進んでい るのが原因だとして、両国が対立している。 ⑸ アラル海
数多くある水危機のなかでも最大の悲劇は、カザフスタンとウズベキスタンの国境にあるアラル海 だ。パミール高原と天山山脈に発するアムダリア川とシルダリア川は、三〇〇〇キロにも及ぶ最後の
旅をアラル海で終える。流域の大部分は年間降水量が二〇〇ミリ以下の乾燥地帯だ。一九五〇年代か
ら旧ソ連政府の手によって﹁史上最大の人為的な環境改変﹂といわれる﹁自然大改造計画﹂が強行さ れた 。
そのなかで、アムダリア川から一三〇〇キロに及ぶ運河が縦横に掘られ、乾燥地帯で棉花栽培が集 中的に行われるようになった。このために、アラル海に注ぐ前に川の水は抜き取られてしまった。
一九六〇年代までは六万八〇〇〇平方キロ︵九州約二つ分︶あり、世界第四位の内陸湖だったアラ ル 海 は、 現 在 で は 二 万 三 〇 〇 〇 平 方 キ ロ 以 下 に 縮 小 し た。 な ん と 三 分 の 一 に 縮 ん で し ま っ た の だ ︵ 図
。 こ の 結 果、 カ ザ フ ス タ ン で は 土 壌 の 風 食 被 害 が 広 が っ た。 一 九 八 五 年 以 降、 五 〇 〇 万 ヘ ク タ ー ❽︶ ルの穀物作付面積のうち半分が放棄された。
一九五〇年代には年間四万四〇〇〇トンもの魚の水揚げがあり六万人の漁民が働いていたのが、い までは壊滅状態だ。湖面の急激な縮小で湖畔の森林は全滅し、湖岸の湿地帯の八五%が姿を消し、繁
150
図❽ 縮小をつづけるアラル海
1960 年
1971 年
1987 年
1976 年
北
2000 年
0 年
60km
(km3) 塩分濃度(g/ℓ) 海面高度(m)海面広さ(km2) 水量
1960
53.41
68,000
1,090
10
1971
51.04
60,200
925
12
1976
48.28
55,700
763
14
1987
40.50
41,000
374
27
2000
33.00
23,400
162
35
(注) 2000 年は予想値のまま。 (出典) 日本カザフ文化経済交流協会。
殖する鳥類は一
七三種から三八
種に激減した。
かつて二四種も
とれた魚の二〇
種までが絶滅し
てしまった。
両国は、上流 のロシアに対し
て取水量を減ら
すように執拗に
抗議してきたが、
ほとんど効果は
なかった。アラ
ル海のかつての
湖岸に立つと、
水面ははるか沖
151 第 5 章 水の争奪戦がはじまった
に後退して見ることはできない。砂漠のように砂がむき出しになった以前の湖底に、置き捨てられた
船の残骸が点々と残されている光景は異様である。だが、これは二一世紀にさらに熾烈化するであろ う、水争いを象徴する現象かもしれない。
その隣にある中央アジアで二番目に大きなカザフスタンのバルハシュ湖も、アラル海と同じ運命を たどっている。中国国境に近く、流入河川の上流で中国が大量取水しているために水量の減少が著し
い。また、湖岸には旧ソ連時代に建てられた工場が立ち並んで工場排水を湖に流し、湖畔近くに埋め られた工場廃棄物の重金属が湖にしみ出して水質が悪化している。 水と健康
水の不足に加えて、世界の主要河川の半数以上で、枯渇や汚染が進行している。WHOによると、 汚染された水が原因で毎年一二億人が病気にかかり一〇〇〇万人が死亡する。国連のアナン前事務総
長は﹁発展途上地域の感染症患者や死者の八〇%が、衛生的な飲料水を得られないことが原因になっ
ている﹂と指摘した。そして農業用水の利用効率を高めることや、地下水資源の保全、雨水利用技術 の開発などの面での国際協力の強化を各国に求めた。
一方、先進地域は化学肥料を大量にばらまき、穀物の収穫を大幅に増やしたのと引き換えに、地下 水を汚染した。川の水が平均わずか一六日で入れ替わるのに対し、地下水は入れ替わるのにときには 一〇〇〇年以上もかかる。
152
現在、世界の主要河川の半分以上で枯渇・汚染が深刻化し、農業・工業用水、飲用水などを川に頼 る流域住民の健康や生活が脅かされている。人間が水を最大限利用できるように、多くの河川がダム
で流れが変えられ、コンクリートで堤防が固められてきた。同時に、埋め立てによって低湿地や湖沼 は縮小の一途をたどってきた。
このために、多くの生き物が生息地を奪われて姿を消し、生物多様性も失われている。世界の淡水 魚の二〇%の種は、水質汚染により絶滅の危機にあると推定される。たとえば、米国漁業協会は絶滅
寸前の淡水魚を三六四種リストアップしているが、この多くは生息地の破壊によるものだ。
ナイル川にアスワンハイ・ダムが建設される前、四七種の魚が商業的に漁獲されていたが、現在で は一七種に減ってしまった。日本に生息する淡水魚はすでに三種が絶滅し、百余種が絶滅の危機にあ る。 将来の水資源
水資源枯渇のもっとも明らかな兆候は、一人あたりの水資源量が急減している地域が目立ってきた ことである。国連は、一人あたりの年間水供給量が一〇〇〇立法メートル以下の国を水不足国と定義
し て い る。 現 在、 水 不 足 国 は ア フ リ カ、 ア ジ ア、 中 東 な ど の 三 四 ヵ 国 だ。 二 〇 二 五 年 に は さ ら に 一
世界ではすでに、利用可能な淡水の約五四%を利用しているが、二〇二五年には利用率が七〇%ま
四ヵ国が加わると予想される。
153 第 5 章 水の争奪戦がはじまった
で上昇すると推定される。水不足が深刻化する結果、河川や湖の利用権をめぐり国家間や地域間の武
力紛争が頻発する事態も予測されている。人口増加が原因で、水不足が発展途上地域の生活レベル向 上の足かせになると指摘されている。
同時に、世界の主要河川の多くで水の減少や汚染が進んでおり、これに干ばつが加わって、水不足 が二五〇〇万人もの﹁環境難民﹂を生み出しているとする報告書を、UNEPなどで組織する﹁二一
世紀に向けた世界水委員会﹂が二〇〇三年にまとめた。農業、工業による過剰な水使用、ダム建設、
排水のたれ流しや森林伐採などが原因で、このままでは、二〇二五年には水が原因で一億人の環境難 民が発生すると讐告している。
とくに深刻なのは、インド、中国、西部を除くアフリカの全域、サウジアラビアなどの中東だが、 先進地域でもときとしてひどい渇水に見舞われる。二〇〇四年春、英国中・南部で、過去一〇〇年間
でもっとも深刻な渇水が起きた。英国では数百万世帯が水不足になり、水道会社はスプリンクラーや
ホースによる水まき、私有プールの水道水利用、自動洗車場の操業、ホースによる窓清掃、トイレ自 動洗浄の禁止など事細かな水使用規制措置をとっている。
水道会社は﹁近所に水を浪費する人がいたら会社まで報告してほしい﹂と、密告の呼びかけまでし ている。実際に、隣人がひそかに芝生に水をまいているといった報告が殺到して、違反者に警告書を
出し、悪質な場合には告発している。この問題は首相官邸のバラ庭園にまで飛び火した。やり玉に上
がったのは台車に載せたタンクにホースを取り付けた﹁散水器﹂。これが﹁ホースによる水まき禁止﹂
154
に違反していると糾弾された。
日本にとっても﹁対岸の火事﹂ではない。本章の執筆中にも、四国で深刻な水不足が報じられてい た。﹁カエルは住んでいる池の水は飲み干さない﹂ということわざが、インカ帝国にあったという。 まさに、現代の人間は水を飲み干そうとしているのではないか。
﹃水不足が世界を脅かす﹄サンドラ・ポステル︵環境文化創造研究所訳︶、家の光協会、二〇〇〇年
︻参考文献︼
﹃水をめぐる危険な話﹄ジェフリー・ロスフェダー︵古草秀子訳︶、河出書房新社、二〇〇二年 ﹃水の環境戦略﹄中西準子、岩波新書、一九九四年
│
世界水戦争﹄マルク・ド・ヴィリエ︵鈴木主税他訳︶、共同通信社、二〇〇二年
﹃水戦争の世紀﹄モード・バーロウ、トニー・クラーク︵鈴木主税訳︶、集英社、二〇〇三年 ﹃ウォーター
│
バングラデシュの農村から﹄谷正和、九州大学出版会、二〇〇五年
﹃水の世界地図﹄ロビン・クラーク、ジェネット・キング︵沖明訳︶、丸善、二〇〇六年 ﹃村の暮らしと砒素汚染
155 第 5 章 水の争奪戦がはじまった
上流で伐採され,川に落として筏で河口に運ばれる熱帯材 インドネシアの木材の 6 割は違法伐採と言われる。 (インドネシアの東カリマンタン州で)
横行する違法伐採
6
森林破壊の果てに 第
章
もしも地球上に森林が存在しなかったら、これだけ多様な生命が誕生することはなかっただろうし、 人間が出現することもなかっただろう。人類史の大部分の時代において、木材、燃料、食料、肥料、
飼料、繊維、紙など、生存や生活に必須な資源を森林から得てきた。とくに、日本の場合には、数十
年前までは生活の大部分を木に依存していた。木と紙と土でできた家に住み、木製の生活用具を使い、 エネルギー源は薪や炭だった。
それだけでなく、水、土壌、気候、生物多様性、防災など、森林は地上の生態系の要として地球の システムを支え、豊かな景観をつくりだして私たちに安らぎを与えてきた。今なお、世界のうち五億
人が森林に全面的に依存して生活しているとみられる。だが、近年の人口と消費の爆発によって森林 資源の枯渇が進み、このような役割は急速に奪われつつある。
世界自然保護基金︵WWF︶などの推定では、農耕が本格化する以前の八〇〇〇年前には、八〇億 八〇〇〇万ヘクタール、地表の六二% を森林が覆っていたとみられる。しかし、国連食糧農業機関
︵FAO︶の調査では、現在森林は地表の三〇%を覆っているにすぎない。つまり、人間活動の拡大 とともに半減してしまったことになる。
森林が減るのに従って、木材や紙類などの林産物の高騰、沿岸漁業の衰退、森林景観の破壊など、 さまざまな問題を引き起こした。さらに、温暖化をはじめとする異常気象が増えて、その結果、自然
災 害 の 被 害 の 拡 大 に つ な が り ︵ 本 書 第2 章 ︶ 、砂漠化や土壌侵食 ︵第7 章︶ 、エマージングウイルスの
出現 ︵第8章︶ 、森林を生活の場としている動植物の急減 ︵第9章︶などにも関わっている。
158
図❶ 土地使用形態と人口の歴史的変化 (億)
70
60
50
40
30
20
10
今後の人口や経済の拡大を考えると、ますます森 林が縮小することは避けがたい。ということは、私
たちが森林喪失から被る損失もそれだけ増えること になる。 森林伐採の加速化
古代文明以来、開墾や木材・燃料材などの利用で 連綿とつづいてきた森林の消失は、一九世紀後半に
なって一段と加速する。鉄道の枕木、電柱、紙とい
う新たな需要が加わったことが大きい ︵図❶︶ 。鉄道
と海上交通の飛躍的な発達で、かさばる木材が大量
に安価に長距離を輸送できるようになり、国際的な
木材貿易が盛んになっていく ︵図❷︶ 。大量供給で木
材価格が下がり、さらに需要を刺激した。それまで
の木材価格は、一部の高級材を除いては生産地から
消費地への輸送コストで決まってきたのだから、こ れは当然であった。
159 第 6 章 横行する違法伐採
1990
2000 2010 年 (推計) (推計) 森林(ha) 農耕地(ha) 人口(人) 1950
1900
1800
0 6000 B.C. 0 A.D.1000 1500
(出典) H. G. Lund and S. S. Iremonger, Omissions, Commissions and Decisions : The Need for Intetrated Resource Assessments , ERIM International, 1988.
図❷ 世界の木材輸入量の推移
20 6
10 3
5 1
, 2004. (出典) FAO,
輸入割合
5
総輸入量
15 4
0 年 2000 1995 1990 1985 1980 1975 1970 1965 0
(%) 25 (億 m3) 7
2
発展途上地域の輸入割合 発展途上地域 先進地域
加えて、林業の技術革新が森林の乱伐を加速するこ とになった。斧に代わって樹木を容易に切り倒すこと
のできる﹁横引き鋸﹂が普及してきたのは、一八七〇
年代である。一九二〇年代には蒸気機関を使った﹁動
力製材機﹂が普及して、大径木でも効率よく製材でき るようになった。
一九二六年には﹁チェーンソー﹂が発明され、改良 を加えられるとともに伐採速度が飛躍的に向上した。
こうして、伐採の主役は樵から機械に代わり、木材の
大量生産の時代が幕を開けた。森林伐採作業員に聞き
取り調査したところ、同口径の樹木を伐採する時間は
習熟度や材質にもよるが、チェーンソーを一とすれば
鋸は五〇倍、斧は一〇〇倍ぐらいになる。つまり、伐
採効率は百数十年の間に一〇〇倍になったのである。
第二次大戦後の復興時に起きた木材ブームのときに は、丸太を運ぶトラクターや林道建設のブルドーザー
が導入され、トラックが大量輸送に加わった。筏流し
160
の時代には河川沿いでしか伐採できなかったが、森林の奥深くにまで林道が入り込んで伐採の手が伸
びていった。とくに、一九六〇年代以後は大資本が木材生産に参入して、伐採規模もそれ以前の数百 倍に も な っ た 。
発展途上地域では、先進地域から三〇∼四〇年遅れてこうした技術革新が入ってきた。独立後、外 貨を稼ぐ必要に迫られて、手っ取り早い天然林のバーゲンセールに走った。発展途上地域では、政府
や山林所有者が一定期間の伐採を許可するという伐採権︵コンセッション︶の形で、内外の木材会社 に森林資源をそっくり売りわたす場合が多い。
この方式では長期的な森林資源の保護が考慮されることはまずなかった。大資本は短期間で資金を 回収するため、可能な限り大量の木を伐り出してまた次の森林に移っていく。こうした﹁伐り逃げ﹂
を繰り返した。大資本が撤退した後には、地元の業者が入ってきて残された木を伐採する。最後には、
伐採のためにつくった林道を伝って、地元の零細農民が林内に入り込んで焼き畑をはじめる。現実に はこうした二次的、三次的な破壊もきわめて大きい。
しかも、伐採跡に放置された枝や樹皮は山火事の危険性を高める。伐採で森林が断片化するととも に、密集していた木々はまばらになって、地表は太陽や風にさらされて乾燥し、発火しやすくなる。
東南アジアではほぼ一〇年おきに大森林火災が発生している。さらに近年各国で﹁史上最悪﹂という
形容詞つきの山火事が発生している。山火事と虫害で失われる総面積は、年間一億四〇〇万ヘクター ルとFAOは推定している。伐採面積の八倍にもなる。
161 第 6 章 横行する違法伐採
図❸ 世界の 10 大森林国(2005 年,100 万 ha)
ロシア 809 その他 1333
ブラジル 478
中国 197
オーストラリア 164 コンゴ民主共和国 134
米国 303
カナダ 310 インド 68 ペルー 69 インドネシア 88
(出典) FAO「世界森林資源評価 2005」。
森林の現状と森林稀少国
さまざまな森林統計が発表されているが、もっとも 広く引用されているのが、FAOが、一九四六年以来
五∼一〇年ごとに発表している﹁世界森林資源評価﹂
︵ The Global Forest Assessment ︶である。最新の二〇 〇五年版は、世界の二二九の国と地域を対象にして、
森林面積や森林型の変化、炭素蓄積量、林業などの現
状をまとめている。それによると、二〇〇五年時点の
世界の森林面積は約三九億五〇〇〇万ヘクタールで、
南極とグリーンランドを除く陸地面積の約三〇%を占
める。森林資源は一部の国々に集中している ︵図❸︶ 。
一九九〇年代には、年平均一四六〇万ヘクタールの 森林が減少していたが、二〇〇〇∼〇五年には一三〇
〇万ヘクタールとやや軽減した。この面積から造林や
天然林の拡大などの増加分を除くと、一九九〇年代に
は年に八九〇万ヘクタールの減少だったのが、二〇〇
〇年代に入って七三〇万ヘクタールの減少と北海道ぐ
162
図❹ 世界の森林面積の変化(1990∼2000 年と 2000∼2005 年)
減少が加速 −600
らいの面積に減ってきた ︵図❹︶ 。これは、アジアの森林
面積がはじめて一〇〇万ヘクタールの純増を記録したこ
とが大きい。なかでも中国の植林が大きく貢献している。
二〇〇〇∼〇五年に森林減少がもっとも深刻だった地 域は南米で、毎年四三〇万ヘクタールが減少した。次は
アフリカで四〇〇万ヘクタール減。オセアニアと北米と
中米の計三五万ヘクタールとつづく。この消失のうち九
四%までが熱帯で起きた。天然林の消失の半分強は、ブ
ラジル、中国、インドネシア、スーダン、ザンビア、メ
キシコ、コンゴ民主共和国︵旧ザイール︶ 、ミャンマー の八ヵ国に集中している。
とくに過去五〇年間は、人口の急増が森林の最大の脅 威になっている。FAOの森林統計と国連人口統計を突
き合わせてみると、世界人口が約三〇億人だった一九六
〇年には、人口一人あたりの森林面積は一・二ヘクター
ルあった。それが約六五億人になった二〇〇五年には、 〇・六ヘクタールに半減した。
163 第 6 章 横行する違法伐採
南米 オセアニア (万 ha/年) 世界計 アジア アフリカ ヨーロッパ 北中米 200 増加へ転換 0 −200
−400
−800
−1,000
1990∼2000 年 2000∼2005 年 (出典) FAO「世界森林資源評価 2005」。
渇して、水資源保全、洪水防止、土壌保全、汚染物質の浄化、生物多様性の保護など森林の環境的機
国連で森林条約などの検討を進める﹁森林に対する政府間パネル﹂︵IPF︶では、一九九六年に ﹁森林稀少国﹂という概念を打ち出した。森林面積が乏しい国々では、燃料材などの重要な資源が枯 能も果たせなくなっている。
森林稀少国は﹁環境を破壊せずに生存および開発を維持することが困難な森林面積しか保有しない 国﹂と定義された。具体的には、一人あたりの森林面積が〇・一ヘクタール以下の国を森林稀少国と
定義した。二〇〇五年の森林統計では、森林稀少国は世界で五七ヵ国あり、そこに二〇億以上の人々 が住んでいる。一九九〇年には四〇ヵ国だった。
このうち、二七ヵ国までがアフリカ、南アジア、中央アジア、中東の乾燥・半乾燥地帯を抱える国 である。雨量が少ないために森林の生長が遅く、伐られた後の再生が追いつかないために森林の衰退 も著 し い 。
森林の絶対面積が増えている国でも、一人あたりにすると減っている国もある。近年インドでは灌 漑や肥料の普及で農業生産性が上昇し、耕地を広げるための森林開墾の圧力が下がって、わずかなが
ら森林面積は上向きに転じた。それでも、増えつづける人口には追いつけず、結果としては一人あた りの森林面積は減って森林稀少国に属している。
中国でも燃料不足に対処するために、政府は植林を進めるとともに石炭やメタンガスの普及や燃料 効率のよいかまどを奨励してきた。この結果、中国の森林面積は増えているが、人口増を反映して一
164
人あたりでは減りつづけ、一人あたりの森林面積は〇・一ヘクタールしかない森林稀少国である。
こ の よ う な 事 実 は、 も し も 森 林 の 消 失 が 止 ま っ た と し て も、 一 人 あ た り の 森 林 面 積 は 人 口 増 加 に 伴って縮小しつづけることを意味する。一人あたりの森林面積が減るということは、森林の供給する
資源が乏しくなり、とくに貧しい国では水や燃料の不足などで住民の生活を直撃することにもなる。
森林がなくなると、立ち木だけではなく林産物も失われることになる。たとえば、コルク、ナッツ 類、ラタン︵籐︶ 、医薬原料など、国際的にも取引されている約一五〇品目があり、取引総額は年間
一一〇億ドル以上にもなる。さらに、伐採や林産物採集などで生活している多数の雇用も奪われる。 高まる森林への圧力
FAOは、今後の人口増を考えると、二〇三〇年までには一億六〇〇〇万ヘクタールの農地の供給 が必要であると予測している。供給可能な土地の多くは森林か草原しかない。この土地の開墾には商
品作物の増産圧力が荷担している。中南米では、輸出用牛肉生産のために森林が牧場に変えられてき
た。発展途上地域では、飼料用のトウモロコシやキャッサバ、嗜好品のコーヒー、紅茶の栽培のため に農地が拡大している。
しかも、こうした一次産品の価格低迷で、増産によって外貨収入を補おうとするために商品作物に 土地を奪われ、貧しい農民は土地の入手がいっそう困難になって、さらに森林の焼き畑に走る。ある
いは、山岳地帯、湿地、乾燥地帯など生態系の脆弱な土地に進出を余儀なくされて、自然災害の被害
165 第 6 章 横行する違法伐採
166
を倍加させている ︵本書第2章︶ 。
サハラ砂漠南縁のサヘル地方、インド、バングラ デシュ、ネパール、パキスタンなどの南アジア諸国
る。
は、エネルギーの七割以上を燃料材でまかなってい
ざるを得ない。アフリカのサハラ砂漠以南の国々で
化石燃料は高価で買うことはできず、燃料材に頼ら
世界でほぼ半数の人々が、暖房や調理の燃料を燃 料材に頼っている。貧しい農村地帯では電気はなく、
消費が増えつづけると予測する。
途上地域で消費された。FAOは今後とも燃料材の
七億七〇〇万立方メートルのうち、約九〇%は発展
重をもっている。二〇〇五年に生産された燃料材一
現在も世界の木材生産の半分を占めるほど大きな比
人類史の大部分でエネルギーを支えてきた燃料材は、
一方で、世界の木材消費は過去一〇〇年の間に約 三倍になり、依然として増えつづけている。とくに、
油ヤシのプランテーション造成のために焼き払われる熱帯林(マレーシアのサ ラワクで)。
では、このような燃料材の需要と供給のギャップは広がるばかりだ。薪が手に入らなくなると牛フン
に頼るようになり、田畑に戻すべき肥料が不足して次は農業生産が落ち込むことになる。
燃料材の伐採は、とくに人口の多い都市周辺で顕著である。FAOの調査では、自然林からの薪集 めはほとんどないが、燃料材の不足している地域では都市周辺の森林は丸裸にされている。ときには 街路樹までも伐られる。
その燃料集めは女性と女児が担うことが多く、燃料材を集めるために週二∼三回は長距離を歩かね ばならない。燃料の不足国はほとんどの場合、水も不足しており、薪集めと水汲みを担う女性と子ど
もたちは過酷な労働にさらされている。その労働に時間を奪われて、女性は収入源の内職ができなく
なり、子どもは母親を手伝うために学校へ通うのをあきらめなければならない。 中国の割りばし・木炭の禁輸
森林資源がいかに追い詰められているかは、中国の現状が雄弁に物語っている。中国政府は二〇〇 六年五月、﹁森林保護﹂を理由に二度にわたって輸出向け割りばしを値上げするとともに、その生産 を制限して将来的には輸出を禁止すると発表した。
割りばしは使い捨ての代表格として批判を浴びながらも、日本国内で年間約二五〇億膳が消費され、 その九割までを中国からの輸入に頼っている。二〇年前までは、国産が約半数を占めていたが、一九 九〇年代以降の低価格競争によって安い中国産に取って代わられたのだ。
167 第 6 章 横行する違法伐採
中国への全面的な依存で、国内の主産地だった北海道産は中国産との価格競合に敗れて壊滅的な打 撃を受けた。一九八五年当時、北海道には割りばし工場が約七〇社あり、約一九〇〇人の従業員が働
いていたが、二〇〇四年には八社約四〇人にまで減少した。もう一ヵ所の主産地の奈良県は、高級品 に特化したおかげで何とか生き残った。
また、中国政府は二〇〇三年八月から森林保護政策強化を理由に、直径四センチ、長さ一〇センチ 以上の棒状木炭の輸出を禁止した。中国から日本に輸出されている木炭の量は六万トン弱で、国内の
消費量の約三分の一。ただし、焼き鳥やウナギの蒲焼きに使用される白炭は、国内の消費量四万四〇
〇〇トンの九割を中国産が占めている。﹁備長炭使用の店﹂の看板のかかった店でも、使っているの はほとんどが中国製だ。
割りばしや木炭の対日禁輸は象徴的な出来事でもある。割りばしの主要原料のシラカバやポプラは、 通常建築材としては使われない。だが、中国国内では森林乱伐による洪水や砂漠化などが深刻化して
おり、こうした樹種を保護せざるを得ないところにまで追い詰められている。
中国の森林面積は一九四九年のもっとも古い統計によると、国土面積の七・九%にすぎなかった。 それが、一九九八年の第五次全国森林資源調査では、一億五三六三万ヘクタール、国土の一六・六%
にまで増えた。二〇〇五年の最新の森林面積では計一億七五〇〇万ヘクタールで、国土の一八・二%
高度成長をつづける中国は建設ラッシュにわいている。政府が巨大な土木事業を興し、年間五〇〇
にま で に 増 加 し た 。
168
万戸とも推定される住宅が新築されている︵日本は年間約一二〇万戸︶。同時に、欧米日向けの木材
製品の輸出も増えつづけている。国内材ではとうてい需要をまかないきれずに、驚くほどの貪欲さで
アジアの森林を飲み込んでいる。二〇∼三〇年前、大量の木材の輸入から﹁アジアの森食い虫﹂とし
て国際的な批判を浴びた日本に代わって、いまや非難の声は中国に集中している。
一九九八年に長江の氾濫で史上最悪の被害を出した中国は、上流の森林が乱伐されたことに原因が あるとして、長江と黄河の上流域での伐採を禁止し、他の地域でも伐採量を大幅に規制したことが輸 入に 拍 車 を か け た 。
二〇〇四年の中国の木材︵丸太と製材︶の輸入量は三五二七万立法メートル。世界の総輸入量の一 三%を占めた。一九九四年当時、木材輸入量では世界の七位だった中国は、いまや日本を抜いて米国
に次ぐ第二の輸入国にのし上った。国際熱帯木材機関︵ITTO︶は、数年以内に米国を上回って、
世界最大の輸入国になると予測している。一九九六年には六〇億ドルだった輸入額は、二〇〇五年に
は一六〇億ドルとなり、二〇一五年に三〇〇億ドルを超えると予想されている。
同時に、中国からの家具や合板などの木材製品の輸出も同じように急速に伸びている。一九九七年 に四〇億ドルだった輸出額は、二〇〇五年には一七〇億ドルに跳ね上がった。この最大の輸出先は米
国で三五%を占め、ついでヨーロッパ各国だ。いずれも、二〇〇五年までの一〇年間に八∼一〇倍に 増え て い る 。
169 第 6 章 横行する違法伐採
横行するアジアの違法伐採
中国の木材の輸入は、二〇〇一年に世界貿易機関︵WTO︶に加盟して木材輸入関税の大部分がゼ ロとなったことで拍車がかかった。だが、中国の木材輸入を調査しているWWFによれば、輸入木材
の約四〇%が違法伐採の疑いが濃いという。輸入している木材の約六〇%は、極東ロシア産の針葉樹
である。伐採現場はロシアの辺境地帯で違法伐採に監視の目も届かない。伐採にはマフィア企業がか んでいることが多く、対中国輸出の約二割が密輸と推定している。
ロシアに次ぐ輸入先がインドネシアである。軍幹部、森林所有者、多国籍企業の﹁腐敗のトライア ングル﹂といわれる構造から違法伐採が横行し、WWFはインドネシア産木材の六∼七割は違法に伐 採されたものとみている。
インドネシア国内の二〇〇三年の木材生産は、公式統計上は三七〇〇万立法メートル。国内消費と 輸出向けの総量は約一億立法メートルだから、合法的に供給される木材では年間六〇〇〇万立法メー
トル以上が不足する計算だ。この不足分が違法伐採とされる。世界銀行は二〇〇二年一〇月、スマト
ラ島の国立公園内で違法伐採が野放しにされているとして、インドネシアに対する森林保全プロジェ クト を 停 止 し た 。
司法当局が違法伐採の容疑者を逮捕しても、有罪となるほうが少ない。二〇〇七年一一月には、北 スマトラ州で十数社の森林関連の会社を束ねる大物林業経営者が違法伐採の疑いで逮捕され、メダン
地裁で禁固一〇年を求刑されたが結局無罪になった。二〇〇七年にパプア州で一四件、西スマトラ州
170
で七件の違法伐採事件が起訴されたが、いずれも無罪判決が出た。
二〇〇二年にはインドネシア海軍が中国向けの貨物船三隻を拿捕したところ、輸出が禁止されてい る丸太を満載していた。調査した英国のNGOによると、インドネシアの有力な材木企業と中国の大
手の国営海運会社が関係していることがわかった。しかし、両国の話し合いによって事件はうやむや
になった。国際的な批判を受けて、二〇〇二年末に中国・インドネシア両政府は違法木材取引を規制 する覚書に調印したが、具体的な規制策は明記されていなかった。
二〇〇二年はじめ、首都ジャカルタをはじめインドネシア各地で大規模な洪水が発生し、数百人も の人々の命を奪い、何千もの家を破壊して、数千ヘクタールもの水田を水没させた。補償要求でイン
ドネシアの保険会社は危機に陥った。それ以来、毎年各地で洪水や土砂崩れが多発して大きな被害を
出している。二〇〇七年四月にもジャカルタ市内で大洪水が発生して、三四万人に避難命令が出され た。
この記録的な洪水がつづく原因は、違法伐採などで大規模に森林が破壊されたことが原因とする見 方が強まっている。違法伐採の横行で、各地の森林が丸坊主にされていたからだ。中国が自然災害を
防ぐためにとった国内の伐採規制は、国外で大災害を引き起こす皮肉な結末になった。
FAOによると、過去五〇年でインドネシアの総森林面積は一億六二〇〇万ヘクタールから一億四 〇〇万ヘクタールへと三分の二に縮んだ。インドネシア林業省の二〇〇二年の分析によると、インド
ネシアの森林消失率は一九八〇年代には、年間一〇〇万ヘクタール以下だったが、最近では一三〇万
171 第 6 章 横行する違法伐採
∼一七〇万ヘクタールと大きく伸びた。
スマトラ、カリマンタン、スラウェシの三島は、インドネシアの主要な島のなかでは森林がまだ残 されているが、その多くは伐採の困難な山岳地域の急傾斜地と湿地帯だ。生物多様性がもっとも豊か
な低地の森林は、伐採と搬出が容易なために伐採が進み、残された森林の一五%にすぎない。とくに、
スマトラ島では、中国向け輸出のために広範囲に皆抜され、約七〇〇頭しか残されていないアジアゾ ウの生存が脅かされている。
中国の隣国であるミャンマーは、日本の森林面積の一・四倍も保有する東南アジアきっての森林国 だ。熱帯広葉樹の種類が多く質も高いために、家具や装飾材として人気が高い。統計上は、中国が輸
入する木材のうちミャンマー産は一〇%未満だが、現場関係者によると、実際は少なくともその二倍
はあるはずだという。とくに、国境地帯では反政府ゲリラが木材を中国に密輸して活動の資金源にし
ており、森林の消失も加速している。一九四九年に森林面積は国土の二一%あったのが、現在七%を 割っ た 。
カンボジアから輸出される木材の七割以上が違法に伐採されたものとみられる。この多くが中国に 流れている。カンボジア政府は二〇〇三年一月、政府と違法伐採の監視契約を結んでいた環境保護団
体グローバル・ウィットネスを国内から追放した。その理由は、この団体が木材の違法取引に関与し
ベトナムの森林も、現在のペースで伐採がつづけば二〇二〇年までには消滅する可能性が指摘され
た政府高官の実名を挙げて批判したからだった。
172
図❺ 世界主要国の違法木材(製品を含む)取引の流れ
250 万 m3 以上 51∼249 万 m3 50 万 m3 以上
(注) 違法木材(家具などの製品を含む)の丸太換算量(50 万 m3 未満の取引は除く)。 (出典) 国連・各国統計(2006 年)。
ている。ラオスでは伐採の七割が違法に行われ、軍
が公然と伐採や取引に関わっている。一九四〇年に
は国土の七〇%を森林が占めていたが、現在は四〇 %を下回っている。
中国が違法伐採・取引の疑いがある木材を大量輸 入していることに、欧米の環境保護団体は批判を強
めている。先進地域の各国政府も、発展途上地域か
ら輸入される木材を、合法的かつ持続的に生産され
たものに限ることを政府調達方針として制度化しよ
うとやっきとなっている。しかし、米国、日本、E
家具などの製品に加工されたものが輸入されている
Uなど先進地域には相変わらず、違法木材やそれが 。 ︵図❺︶
欧米は大量の木材製品を中国から輸入している。 このように製品に使われる木材の量は、輸入材の五
∼七割を占めるという推定もある。間接的にせよ、
製品の輸入国が違法木材の横行に手を貸していると
173 第 6 章 横行する違法伐採
いう批判も聞かれるようになった。
パプアニューギニアの原生林破壊に関わる日本市場﹂を公
日本も違法伐採された木材・木製品の国際取引とは無縁ではない。グリーンピース・ジャパンは、 二〇〇四年二月、パプアニューギニア最大の木材企業リンブナンヒジャウ社と日本市場の関わりを明
│
らかにした報告書﹁森林破壊の連鎖Ⅲ 表し た 。
同社はパプアニューギニアだけでなく、マレーシア、ロシア、インドネシア、ガボン、ニュージー ランドの伐採利権にも深く関わっている。グリーンピースによると、﹁土地所有者を銃や監禁などに
よって脅し、伐採を認める合意書に強制的に署名させる﹂﹁武装した企業の社員や警官を利用して、
土地所有者たちに威圧行為を行う﹂﹁企業と癒着した警察官によって、住民に拷問や暴行、違法な拘 留を行う﹂などの犯罪行為を行っているという。
パプアニューギニアにとって日本は中国に次ぐ木材取引国であり、日本の企業は同社と密接な関係 にある。輸入した原木の九〇%近くは、ビル建設などでコンクリートの型枠に使われる合板の製造に
回されている。﹁住民の困窮や環境破壊を無視して、違法に木材を産出するリンブナンヒジャウ社は、
地球規模の森林破壊を行う犯罪企業で、日本はその主要な木材市場でありながら何の対策も取ってい
ない﹂と報告書で非難している。一方で日本の製紙会社や楽器会社の多くは、違法木材を排除してい ると 弁 明 し て い る 。
174
アフリカの﹁紛争木材﹂
中国にかぎらずアジア諸国の木材需要が伸びる一方で、その供給にかげりが見えてきた。代わって アフリカからの木材輸入が着実に増加している。いまやEUを抜いて、アジアがアフリカ木材の最大
の輸入国になった。だが、ここでも違法伐採がまかり通り、アジアと同じ問題が起きている。
世界銀行の﹁森林保全戦略﹂︵二〇〇二年︶によると、違法取引されるアフリカ産木材の全体像は 不明だが、ガーナだけで年間三七五〇万ドル、ガボンでは一〇一〇万ドルにものぼる。このアフリカ
の違法伐採の背後にあるのは、紛争や国内の混乱である。反政府組織やテロ・犯罪集団の資金稼ぎの
ために木材が違法に伐採され、他方で独裁政権や政府高官のふところを潤してきた。
それが政治の腐敗を蔓延させ、それでなくても脆弱な国家財政をさらに圧迫することにもつながっ た。森林減少の激しい国の多くは国内に紛争を抱えており、伐採された木材の半分以上が違法なもの であると推定されている。
アフリカでは、スーダンを筆頭に、コンゴ民主共和国︵旧ザイール︶、ソマリア、アンゴラ、ウガ ンダ、シエラレオネなど、独立以来、国内紛争が断続的につづいている国は少なくない。長期化する
最大の理由は、木材、ダイヤモンド、石油などの資源から得られる資金が紛争を支えていることにあ
る。これらは﹁紛争資源﹂とよばれる。とくに、採掘や精錬の手間がかからず、伐採してそのまま売
政府あるいは反政府勢力は、自分たちの勢力に味方する組織に対して、その見返りとして自分の勢
れる﹁紛争木材﹂は、紛争当事者、犯罪集団、武器商人にとって格好の資金源である。
175 第 6 章 横行する違法伐採
176
力圏内の森林伐採の許可を与えるか黙認する。世界的
に熱帯の硬材は資源枯渇から高騰しており、その伐採
で資金を稼ぎ、武器などの必要な物資が調達できる。
森林資源に恵まれた熱帯地方では、アフリカのコー ト ジ ボ ワ ー ル や リ ベ リ ア、 ア ジ ア の カ ン ボ ジ ア か ら
ミャンマーに至るまで、こうした木材を仲介する業者
による闇市場のネットワークが張りめぐらされている。
一九九〇年にはじまったシエラレオネの内戦は、二 〇〇一年の終結までに二〇万人が殺害され、一〇〇万
人が家を失った。本来ならば、この最貧国で紛争が一
〇年以上もつづく余力はないはずだ。だが、高品質の
ダイヤモンドと熱帯硬材の産出国であり、この横流し
が政府・反政府勢力の軍資金になった。
アでは、不法に伐採された木材の輸出が政府の汚職を
紛争を長期化、複雑化させる元凶にもなった。リベリ
隣国のリベリアは、ダイヤモンドと木材を引き換え にシエラレオネの反政府勢力に武器弾薬を提供して、
スーダンの木材闇市場。
助長し、伐採によってできた道路が武器とダイヤモンドの密輸ルートとして利用されていた。
このダイヤモンドは、そのまま市場に流れると価格が下落することにもなり、それを恐れた国際シ ンジケートが密かに買い取っていた。国連は紛争の資金源を断つ目的で二〇〇〇年にダイヤモンドの
原産地認証制度を導入したが、ダイヤモンドを輸入する先進諸国側の規制が不十分で効果は限定的だ。 BSEが加速するアマゾン破壊
ブラジル環境省は﹁二〇〇四年八月までの一年間のアマゾン熱帯林破壊面積が二六一万三〇〇〇ヘ クタールに達し、森林はそれ以前の一年間に比べて六%減少した﹂と発表した。この面積は長野県二
つ分に相当し、年間の破壊面積としては、一九九五年の二九〇万ヘクタールに次ぐ大規模なものだ。
ブラジル国立宇宙研究所︵INEPE︶の衛星画像によると、すでにアマゾンの熱帯林の一七・三 %︵プラスマイナス五%の誤差︶が消滅した。他方、ブラジル環境団体﹁イマゾン﹂は二〇〇四年に、
INEPEの衛星画像を使って調べたところ、熱帯林の四七%がすでに失われたと発表した。この団
体は一九九〇年にアマゾン川中流のベレンで創立され、内外の約二〇人のアマゾン研究者で組織され てい る 。
破壊が進む最大の原因は、従来の肉牛用の牧場の造成と伐採に加えて、アマゾンに急拡大してきた 大豆栽培だ。世界的に大豆ブームが起きるたびに、アマゾンの熱帯林は大豆畑に転換されて森林が消 えて い く 。
177 第 6 章 横行する違法伐採
ブラジルの大豆生産は、一九七〇年代に入っ て起きたペルー沖のアンチョビー︵カタクチイ
ワシ︶の大不漁とともにはじまった。アンチョ
ビーの魚粉は肉骨粉 ︵本書第8 章︶とならぶ重
要な蛋白飼料であり、家畜業界はこの代替品の
大豆や大豆粕︵油をしぼったあとの粕︶に殺到 して価格が暴騰した。
両側は地平線まで大豆畑がつづく。最初はマホ
イウェー﹂と呼んだほうが通りがよい。国道の
マトグロッソ州からパラ州まで南北一八〇〇 キロに及ぶ国道一六三号線は、今では﹁大豆ハ
可能になり生産は爆発的に増加した。
に適していなかったが、新品種の開発で栽培が
ブームがおきた。アマゾンの気候や土壌は大豆
きっかけに多くの農民が参入して空前の大豆
ブラジルではそれまで、日系農民がわずかに 大 豆 を 作 っ て い た だ け だ っ た が、 こ の 高 騰 を
熱帯林が焼かれて見わたすかぎり広がった大豆畑。20 年前には熱帯林だった (ブラジルのマトグロッソ州で)。
178
ガニーなどの高級材を盗伐する業者が、国道から勝手に無数の支線を伸ばして木材を運びだした。そ の支線を伝って貧しい農民が入り込んで不法占拠し、農業をはじめた。
今回の大豆ブームは二〇〇二年後半からはじまった。﹁牛海綿状脳症﹂︵BSE︶が世界各地で発生 するのにつれて、肉骨粉などの動物蛋白質が家畜の飼料として禁止され、ふたたび大豆需要が急増し
てきた。だが、日本やEUでは消費者の反発で、遺伝子組み換え︵GM︶大豆が大半を占める米国、 アルゼンチン、ブラジル南部産の大豆は使えない。
大豆輸出のライバルのアルゼンチンが、米国の大手穀物会社の圧力に屈して除草剤耐性GM大豆の 作付けを増やすなかで、ブラジル中部のマトグロッソ州などのアマゾン地域では、﹁非GM大豆﹂の 生産に特化してきたことが、この地域の需要を大きく伸ばすことになった。
とくに、EUでは非GM大豆が歓迎されて、ブラジル大豆の三分の二を輸入しているほどだ。この ために、シカゴ商品取引所の大豆相場は、二〇〇二年∼〇四年に二倍になり、ブラジルの生産量はこ
の間に一・五倍に、輸出金額は二・五倍にも急伸した。いまやブラジルは米国に次ぐ世界で二番目の
生産国にのし上がった。日本の大豆の輸入先としても米国に次ぐ二番目で、二〇〇五年には約五六万 トンが送り込まれている。
二〇〇五年以来、ブラジル南部の南リオグランデ、サンタカタリーナ州などの古くからの農業地帯 が、深刻な干ばつに襲われて場所によっては壊滅状態だ。このために、干ばつ被害のなかったアマゾ
ン地域への増産圧力が高まる結果にもなった。マトグロッソ州などの北部諸州では二〇%もの増収に
179 第 6 章 横行する違法伐採
なっ た 。
このマトグロッソ州は、ここ二〇年間で広大な面積の森林が大豆畑に変わってしまった。空から見 ると、かつての数十メートルを超える巨木の茂っていた熱帯林は、ほとんど姿を消し、平地は地平線 まで大豆畑が広がっている。
大豆の栽培には、もともと酸性が強いアマゾンの土壌を中和する必要があり、石灰がまかれた。さ らに、化学肥料、殺虫剤、除草剤なども規制のないままに大量に投入され、マトグロッソ州では、川 の汚染で目に見えて魚が減ってきた。
アマゾンは南米の先住民の最後の砦だが、コロンブス到達以前にはブラジルだけで五〇〇万人以上 が住んでいたと推定される先住民は、ブラジリアの環境社会研究所︵IAS︶の調査によればわずか
三二万人しか残されていない。その生き残った先住民も、この大豆ブームで生活圏を奪われ食用の魚 が死に絶えて、息の根を止められようとしている。
広大な大豆畑の所有者は、地元の有力者である場合が多く、ブラジルの主要な大豆生産地となった マトグロッソ州では、個人としては世界最大の大豆農園主であるブライロ・マッギ氏が知事として君
臨する。二〇〇三年に知事に当選したマッギ氏は、就任後の一〇年で大豆の作付面積を三倍に増やす
ことを公約に掲げ当選した。環境保護団体は彼が就任後森林破壊が加速したと抗議している。
同時に他の石油や鉄鉱石などの原材料と同じように、中国の大豆輸入の急増が国際相場を押し上げ る原因になっている。中国は世界で四番目の大豆生産国だが、ついに世界最大の輸入国に躍り出て、
180
中国の大豆輸入量は二〇〇五年には二六五九万トンに達した。これは日本の輸入量の六倍を超える。
約六七〇〇万トンの世界の貿易量のうち、四割を中国が輸入していることになる。
これ以外にも、一五〇万トンの大豆油を輸入している。これは八〇〇万トンの大豆に相当するので、 合計で三五〇〇万トン近い大豆を国際市場から買い入れていることになる。食生活の向上で肉消費量 の増加に伴う飼料や食用油の需要が増したことが理由だ。
中国では食料品の消費拡大が依然として止まらず、国際市場から大量の農産物を調達することが見 込まれ、食糧の海外依存度の高い日本にとっても、今後の輸入の量と価格のうえで大きな問題となり そう だ 。
二〇〇七年に入って、この大豆価格に新たな異変が生じている。ブラジルでサトウキビ、米国では トウモロコシがエタノールの主要原料となっているため、エタノールの生産増のために大豆畑がサト 章︶ 。
ウ キ ビ や ト ウ モ ロ コ シ の 畑 に 転 換 さ れ て、 大 豆 が 品 薄 に な っ て 価 格 が 急 上 昇 し て き た の だ ︵ 本 書 第 4
増える紙の消費
森林資源の枯渇は、社会的にもさまざまな影響を引き起こすことが予想される。とくに、紙の主要 原料であるパルプやチップは、世界の木材生産の約二割を占めている。約一九〇〇年前に中国で紙が
発明されたときには、紙は樹皮、ボロ布、使い終わった漁網でつくられていた。九世紀終わりにヨー
181 第 6 章 横行する違法伐採
ロッパに伝わった後も、一九世紀に入るまでは布が原料だった。しかし、一九世紀半ばに原料の布が
不足するようになり、木からパルプをつくる技術が開発されて紙も大量生産時代に突入した。現在で は製紙原料の九割までが木材繊維である。
世界の紙の消費量は一九五〇年以来六倍にも増え、二〇〇四年には三億五七〇〇万トンにもなった。 二〇一〇年には四億トンを超えると予想されている。紙の用途は、四〇%が新聞・書籍やノート、六 %がトイレットペーパーなどの家庭用、残りがダンボールなどの包装用だ。
日本製紙連合会によると、二〇〇四年の世界の一人あたりの紙消費量は、年五六キロだが、先進地 域での一七五キロに対して、発展途上地域では二〇キロしかなく、この差はますます開いている。と
くに、米国は一人あたり三一二キロ、日本は二四七キロも消費している。一方、インドでは七キロ、
インドネシアでは二二キロしか使われていない。消費量の四分の三は先進地域が独占している ︵図❻︶ 。
世界人口のうち約八割は、必要最低限の紙を手に入れることができない。紙の消費の不足は、教育 や通信が十分に機能しないことを意味し、森林の減少が貧しい国々の発展も阻むことになる。先進地
域の学校ではコンピューターが普及してきたとはいえ、いまだに教育の大部分は、教科書とノートと いった紙で行われている。
しかし、サハラ砂漠以南アフリカを除く発展途上地域では、初中等教育の入学率が上がっており、
発展途上地域では一〇人中八人までが、学校で基本的な教育を受けるのに必要な量の紙を手に入れ ることができない。一方で先進地域では、紙のむだ使いが廃棄物公害の大きな原因にもなっている。
182
図❻ 主要国の 1 人あたり紙・板紙消費量(2004 年)
7 インド
312 アメリカ
285 フィンランド
253 スウェーデン
247 日 本
236 ドイツ
223 カナダ
195 イタリア
183 フランス
170 韓 国
42 中 国
22 インドネシア
56 世界平均
今後ともアジアを中心に学校の紙需要は増え
そうだ。発展途上地域だけをとっても基本的
な教育に必要な紙の総量は一億トンと、ユネ
スコは推定している。これは世界の紙生産量
の二七%に相当する量だ。
今後の人口増を考えると、学校の紙需要は 二〇五〇年までに二億三五〇〇万∼三億四〇
〇〇〇万トンに及ぶと、国連開発計画︵UN
DP︶はみている。この需要をまかなうには、
183 第 6 章 横行する違法伐採
さらに森林を伐らねばならず、製紙に大量の
水や化学薬品が必要になる。すでに、製紙工
場は世界各地で深刻な水や大気の汚染を引き 起こしている。
ペーパーレス社会の到来が予測されたのにも
進地域でも、コンピューターの出現によって
紙の消費は、人口増加と経済の成長に伴い 世界的に増えつづけることは間違いない。先
(出典) 日本製紙連合会資料。
400(kg) 350 300 250 200 150 100 50 0
かかわらず、紙の使用は急増している。米国では毎年一〇〇億冊を超える通信販売カタログが捨てら
れているといわれ、ダイレクトメールなどの不必要な郵便物も急増している。 森林をどう救う
今後とも増えつづける森林の農地転換、木材需要、紙消費などを考えると、近い将来にはアジア、 アフリカ、中東などの森林稀少国や、日本、中国、韓国、イタリア、スペインなど木材の輸入依存度
の高い国のなかには、深刻な不足や価格高騰に脅かされる国も出てくるだろう。もしも、発展途上地
域の人が一人あたり現在の先進地域なみの木材消費をしたら、二〇一〇年までに世界の木材消費は二 倍になるという計算もある。
この対策は、根本的には人口の増加を抑えるしかない。森林を維持するために、現実的に先進地域 に求められているのは、消費の抑制である。もしも、丸太の消費を八%抑えることができたら、FA
Oが予測している発展途上地域の今後の増加分を補うことが計算上は可能だ。日本や米国や英国など
の先進地域では、伐採される樹木の半数は、規格外や低品質、伐採に伴う損傷で現場に放置されてい る。この二∼三割でも利用できれば、全体の伐採量を減らすことができる。
発展途上地域でも、製材技術の立ち後れのために多くの木材をむだにしている。たとえば、ブラジ ルでは丸太から製材される板の歩留まりは、先進地域の数分の一という調査もある。丸太の三分の一
しか板にならず、あとは捨てられている。製材効率を先進地域なみに引き上げれば、同じ量の板を生
184
産するのに半分以下の伐採ですむ。
供給を増やす植林は、世界的に追い風が吹いてきた。一九九七年、気候変動枠組み条約の京都議定 書が採択されて、植林によって固定できる炭素を、その国の二酸化炭素排出量から差し引けることが 伐採
燃料材
決まったからだ。先進地域は発展途上地域で植林を開始しており、将来的に化石燃料を一部肩代わり する ﹁ 植 林
↘
植林﹂のローテーションが可能になる。
↘
↘
日本ではこれまで、木質の建築廃材はほとんど燃やされてきたが、二〇〇〇年五月に建築資材リサ イクル法が公布され、分別解体と再利用が義務づけられた。廃材を粉末にして木粉を高圧加熱処理し
て接着剤なしに成板にしたり、廃材にアスファルト乳剤を混合して弾力性のある舗装材に変えるなど
の技術開発も進んでいる。米国でもIT大手のマイクロソフト社がオフィスビルを改築するときに、
廃材の七八%までリサイクルして新たなビルに再利用するなど、意識も大きく変わってきた。
また、古紙リサイクルは世界的に盛んになっており、日本製紙連合会によると、世界の古紙回収率 は二〇〇四年には紙消費量に対して四八%近くにもなった。さらに、古紙と代替原料を増やすことが
緑と人の歴史と未来﹄石弘之、朝日新聞社、二〇〇三年
できれば、木材パルプへの依存を大きく減らすこともできる。あとは、消費者の決意しだいである。
│
﹃世界の森林破壊を追う
︻参考文献︼
﹃蝕まれる森林﹄石弘之、朝日新聞社、一九八五年 ﹃世界森林報告﹄山田勇、岩波新書、二〇〇六年
185 第 6 章 横行する違法伐採
﹃森と人間の歴史﹄ジャック・ウェストビー︵熊崎実訳︶、築地書館、一九八九年
私の森林論﹄四手井綱英、ナカニシヤ出版、二〇〇六年
﹃森と文明﹄ジョン・パーリン︵安田喜憲・鶴見精二訳︶、晶文社、一九九四年
│
﹃森林はモリやハヤシではない
186
砂漠化はアフリカ農牧業の最大の脅威であり,毎年広大な土地を呑み込 んでいる。 (スーダンの北ダルフールで)
激化する黄砂
7
誰が砂漠を広げているのか 第
章
砂漠は地表が荒廃した究極的な姿である。その多くは気候や土壌の条件によってできる自然現象 だったが、この四〇∼五〇年の間に人間活動の影響による﹁砂漠化﹂が地球規模で広がってきた。も
ともと、持続的な生産が難しい乾燥した辺境の地で、過剰な農耕や放牧から自然の容量を超えた圧力 が加わっているのが、その大きな理由だ。
それまで自然破壊は、欧米や日本などの先進地域のものだった。だが、第二次大戦をはさんで、植 民地支配下にあった国々の多くが独立するのにつれて、発展途上地域で人口の爆発的な増加が起きた
︵本書第1章︶ 。それまで人間活動が限られていた辺境に、土地を求めて多くの人々が進出してきた。
東南アジア、南米、西アフリカなどの熱帯林、ヒマラヤ山脈、アンデス山脈、東アフリカ高地など の山麓地帯、ガンジス川、ニジェール川などの河口や海岸の低湿地にも、貧しい土地のない農民が押
し寄せた。降水量が年間五〇〇ミリもないような半乾燥地帯にも、家畜とともに多くの人々が押し出
されてきた。一九五〇年代はじめから六〇年代半ばにかけては、世界的に半乾燥地帯の気候が順調で 雨量も多かったことが、この移動の後押しをした。
こうした辺境が未開地だったのは、土地の生産性が低く、頻繁に自然災害に見舞われたためだ。だ が、農民が生きるために無理な農耕や放牧に走ったことが、弱い自然に回復できない打撃を与えた。
生態系は崩壊して、洪水、干ばつ、土砂災害などの自然災害の規模が大きくなってきた ︵本書第2章︶ 。
とくに、アフリカの半乾燥地帯では順調だった気候が、一九七〇年前後からもとの不安定な降水に戻
るとともに、慢性的に干ばつが発生するようになり土壌の悪化が進行していった。
188
急増する黄砂
一一月上旬から五月にかけて中国大陸から日本に飛来する﹁黄砂﹂の規模や頻度は、年によって大 きなばらつきはあるものの、二〇〇〇年以後急増している。かつては西日本に限られていたのが、北
海道や東北地方でも残雪が茶色に染まり、東京でも駐車中の自動車がキナコのようなほこりを被るよ うに な っ た 。
気象庁は全国九八地点で一九六七年から黄砂を目視観測しており、一地点で観測された日を一日と して延べ日数を計算すると、二〇〇六年は六〇六日だった。過去最高だった二〇〇二年の一一一六日
には及ばなかったが、一一月から黄砂が飛来してその時期が早まっていることを確認した ︵図❶︶ 。東
京都心では六年ぶり、千葉市では一八年ぶりに黄砂が降った。二〇〇七年は平年なみだったが、東北 地方で広く観測された。
観測のピークは四月で、ついで三月、五月、二月の順になっている。日本に飛んで来る黄砂は年間 一〇〇万∼三〇〇万トン。降下量は一平方キロメートルキロあたり年一∼五トンと推定されている。
黄砂は屋外の洗濯物や車を汚すだけでなく、わずかな窓や戸のすき間から家に入り込み、さらに目 や呼吸器系などにも障害を起こすやっかい者だ。発生源の中国から日本への黄砂の通り道にあたる韓 国では、旅客機の定期便が欠航するほどの深刻な事態になっている。
韓国では日本より発生源に近いだけに、降り注ぐ黄砂の量も多く、社会問題化している。ある韓国 の研究グループによると、黄砂が多い年は高齢者の死亡率が高まる傾向にあるという。鉱山労働者の
189 第 7 章 激化する黄砂
図❶ 年別黄砂観測日数 (1) 黄砂観測延べ日数 (地点・日) 1400 1200 1000 800 600 400 200 0 1967 1970 1975
2006 年 12 月 31 日現在(国内 98 地点での統計)
1980
1985
1990
1995
2000
2005 年
(注) 国内の各観測点で黄砂を観測した日数の合計(同じ日に 5 地点で観測した場合は, 5 日増える)。
(2) 黄砂観測日数 (日) 70 60 50 40 30 20 10 0 1967 1970 1975
2006 年 12 月 31 日現在(国内 98 地点での統計)
1980
1985
1990
1995
2000
2005 年
(注) 国内の各観測点で黄砂を観測した日数の合計(複数地点で観測がある場合も,1 日 と数える) 。 (出典) 気象庁,2006 年。
職業病だった﹁塵肺症﹂に似た症
状を起こすと、警告する専門家も
いる。韓国の新聞は﹁病原菌を運
んでくるかもしれないし、アレル
ギーの症状を悪化させる﹂と書き
立てている。
黄砂の季節にはコンピューター などの精密機械の故障も増える。
日本でも以前には、春先になると
西日本の工場で精密部品の不良品
率が上がるという問題が起きたが、
空調技術の発達で最近は聞かれな
くなった。また、ビニールハウス
のビニールシートを黄砂が覆って
ハウス内の太陽光が弱まることに
よる、農作物への障害も報告され
ている。
190
加速する中国の黄砂被害
北京では春の砂嵐は﹁沙塵暴﹂と呼ばれ、三月初旬から四月中旬に砂混じりの強風が吹き荒れるこ とが多い。北京では、年によって日本の三倍以上の一平方キロあたり年一五トンぐらいの黄砂が降り
注ぐ。中国の黄砂は日本のような微粒子になったキナコ状ではなく、砂塵そのものである。
そのたびに空が暗くなり町並みがかすんで、さまざまな生活上の障害を引き起こす。沙塵暴が襲来 すると、空があっという間に黄色く染まり、車で走っていると数十メートル先がぼんやりとかすんで
信号も見えなくなる。フロントガラスにバチバチと音を立てて砂塵があたる。
北京市内で目を開けていられないような砂嵐の吹く日は、一九七〇年代には年間一二日ほどだった のが、二〇〇三∼〇五年の三年間には年平均一四回にのぼっている。大気のなかの浮遊状粒子量は、
毎年のように最悪を更新している。コンタクトレンズを使っている人には、北京の春は地獄の季節だ。
北京気象台は砂塵の予報を出しており、程度によって、注意報、警報、外出禁止が発令される。
二〇〇五年暮れから二〇〇六年四月にかけて、最悪の砂塵に見舞われた。とくに、北京は数回にわ たって視界がほとんどなくなり、四月一七日には一夜で三〇万トンを超える砂塵が降りそそいで市内
全域が黄色く染まった。北京に限らず中国北部の広い範囲に大量の黄砂が降下して、新疆ウイグル自 治区では砂嵐に巻き込まれて二人が犠牲になった。
国家林業局防砂治砂弁公室は、北京で緊急の記者会見を開いた。その説明によると、北西部の乾燥 地帯で砂漠化が急速に進み、大量の砂塵が供給される条件が整っていた。そこに、異常乾燥が加わっ
191 第 7 章 激化する黄砂
3 月末,激しい黄砂を防ぐためショールを顔に巻いて歩く女性(中国・北京で)。
192
たためという。内蒙古や新疆ウイグル自治区などで
は、冬の降水量が過去五〇年で二番目に少なく、大
半の地域で平年の三∼五割、なかには八割も減った 地域があった。
このところ、黄砂は北部を中心に大きな被害を出 している。全国で一五〇〇キロの鉄道、三万キロの
道路、五万キロの灌漑用水路が毎年のように砂で埋
まる。近年では砂塵による直接の経済損失は年間五
四〇億元に達し、家畜の死亡、井戸の埋没、家屋や
パオ︵遊牧民の移動用住居︶の崩壊などの被害も増 大している。 黄砂の発生源と原因
それによると、一九四〇∼九〇年ごろは発生回数が
〇〇〇年ほど、その歴史的な記録も残されている。
黄砂現象は、紀元前一二世紀の歴史書に﹁塵雨﹂ として現れるほど古くから知られる存在だ。過去一
写真提供 共同通信
減少していたが、一九九〇年代から急増してきた。
猛威を増してきた沙塵暴の背後には、中国奥地の砂漠の異変があった。中国内陸部には、広大な砂 漠や半乾燥地帯が広がっている。砂嵐の主要な発生場所は、﹁ゴビ砂漠や黄土高原﹂ ﹁北京西方の張家
口から内蒙古﹂ ﹁中国西部のタクラマカン砂漠﹂ ﹁中国中央部のバダインジャラン砂漠からグルバン テュンギュト砂漠にかけて﹂の四地域が知られている。
春になると中国北西部で発達する低気圧が強風を生み、乾燥地帯から直径五∼五〇ミクロンの微細 な砂を舞い上げるのが黄砂だ。五〇〇〇∼一万メートルの上空まで上昇し、偏西風に乗って二∼三日
で日本に飛来する。微細なものほど長距離移動できるので、日本にまで到達するのは細かな粉末状に
なっている。東アジア各地に年二∼三億トンの砂塵や黄砂が降ると推定されている。
とくに、北京で急増している砂嵐は、開発で植生が破壊され砂漠化が進行していることが原因だ。 北京の西方の張家口から内蒙古にかけて広がる大草原地帯の開墾が進み、それにつれて砂漠が一挙に
広がってきた。この過去数十年間で広がった新しい砂漠は﹁現代砂漠﹂と呼ばれる。
その面積は一万四〇〇〇ヘクタール以上に達し、北京に降りそそぐ砂塵は年間約一〇〇万トンに達 することも珍しくない。一九九〇年前後に、山間部の貧困地帯から一万三〇〇〇人の農民を砂漠周辺
の半乾燥地帯に入植させたところ、入植地は数年たらずで砂漠化してしまったほど、乾燥性が激しい
砂漠は北京の北約七〇キロにまで迫って、年に二∼三キロの速度で南下している。二〇年余で北京
地域 だ 。
193 第 7 章 激化する黄砂
図❷ 中国の砂漠化の原因
砂丘の拡大 水不足 技術的失敗
燃料材伐採
ステップでの過剰耕作
ステップでの過放牧
(出典) Z. Zhenda and W. Tao, The Trends of Desertification and its Rehabilitation in China, 22, pp. 27-29, 1993.
に達する計算だ。朱鎔基・前首相は﹁砂漠化に歯止めがかからね
ば、いずれ首都を北京から移さざるを得ない﹂と、警告している。
砂漠は全国的に拡大している。国家林業局砂漠化防止整備管理 センターによると、砂漠化が深刻化した最大の原因は土地の酷使
に尽きる。この背景には、人口の増加とともに世界的な農産物の
自由化で安い輸入穀物に対抗するために、農民が政府の後押しで 無理な増産に走ったこともある。
砂漠化の直接的な原因は﹁燃料材の伐採﹂に加えて、脆弱な生 態系のステップ︵乾燥草原︶での過放牧と過剰耕作が無計画、無
規制で横行していることが大きい。この三つで、砂漠化の原因の
する﹁砂漠化の被害が深刻な国﹂の一つに挙げられている。
八割を占める ︵ 図❷︶ 。中国は、国連環境計画︵UNEP︶が指定
中国林業局が発表した﹁第三次全国砂漠化観測﹂︵二〇〇四年 末︶によると、砂漠、半乾燥地、塩害地など利用できない土地の
総面積は、日本の国土の約一二倍に相当する四三七万五九〇〇平
方キロ、中国の国土の約四六%にも及んでいる。この面積はサハ ラ砂漠のほぼ半分に匹敵する。
194
図❸ 中国の砂漠
バダインジャラン砂漠 トングリ砂漠 グルバンテュン ギュト砂漠
内蒙古
甘粛
るまでの東西の長さ四五〇〇キロメート
砂漠化した土地は、西部のタリム盆地 か ら 東 の 松 花 江・ 嫩 江 平 原 の 西 部 に 至
ル、南北の幅約六〇〇キロメートルに点
在している ︵図❸︶ 。新疆ウイグル、内蒙
古の砂漠化した土地の面積は、それぞれ
の土地の四七%と六〇%を占める。
北京の米国大使館が二〇〇四年にまと めた﹁拡大する中国の砂漠﹂報告書によ
ると、中国北西部では砂漠化で数百万人
の生活が脅かされ、年間約六五億ドルの
被害が出ているという。中国で三番目に
大きいバダインジャラン砂漠︵五〇〇万
ヘクタール︶と、四番目に大きいトング
リ砂漠︵三〇〇万ヘクタール︶では、強
風によって砂丘が南に移動して、周辺の
放牧地や農地を呑み込んでいる。
195 第 7 章 激化する黄砂
長江 黄河
タクラマカン砂漠
ホルチン砂漠
北京 新疆
森林
砂漠
新疆ウイグル自治区では、上流のダム建設や農業用水の過剰取水でタリム川が断流を起こし、タク ラマカン砂漠とクルクターグ砂漠の周辺でも樹木がほとんど枯れて、砂塵の飛散が激しくなっている。
大小の砂漠が拡大した結果つながり合ってさらに大きな砂漠になりつつあるという。
最近になって砂嵐の勢いが増しているのは、地球温暖化と関係があるという見方も有力だ。華北や 西北地方の東部では、このところ平年を大きく上回って、一部では四〇年ぶりの高温を記録している。
この結果、氷雪の融解時期が早まって乾燥が一段と進んでいる。今後、温暖化がさらに進めば、いよ いよ乾燥化が進んで砂嵐も黄砂も激しくなる可能性が高い。
砂漠の拡大は森林破壊の裏返しでもある。森林と呼べるものが残っているのは、東北︵旧満洲︶の 一部と西南地方だけで、華北、中原地方でも十数%しか残されていない。森林を失った北部から北西 部にかけて、砂漠化、洪水や干ばつ、土壌流失に慢性的に悩まされている。
都 市 近 郊 で は 植 林 が 進 ん で も、 農 村 部 で は 森 林 の 乱 伐 が 止 ま ら な い。 全 国 の 三 億 九 〇 〇 〇 万 ヘ ク タールの草原のうち、九割以上で過放牧による土壌の荒廃が進んでいる。内蒙古草原では、牧草の平
均の背丈が一九七〇年代の七〇センチから現在は二五センチにまで低くなった。過剰な放牧が原因だ。
中国政府は、人口圧を下げて環境を再生させるために、﹁退耕還林﹂﹁退耕還草﹂という政策を進め ている。東北地方では、このスローガンをいたるところで見ることができる。荒廃の著しい農地の耕
作を一時的にやめて、森林や草原に戻そうというのだ。また、砂漠化の進む内蒙古自治区などでは、
﹁ 生 態 移 民 ﹂ と い う 制 度 を は じ め た。 人 口 圧 を 下 げ る た め に、 都 市 近 郊 の 酪 農 家 や 新 た な 入 植 者、 賃
196
金労働者らを、別の土地へ移住させるものだ。
しかし、対象となったのは蒙古族が多いために、少数民族の圧迫という批判は絶えない。別の土地 に家畜とともに移住しても、家畜密度の高い定住牧畜でかえって土地を砂漠化させ、共同井戸の水の 汲み上げ量が増えて地元民と新たな対立を招くトラブルも起きている。 カシミヤが引き起こす砂漠化
モンゴルは日本の四倍も広い。国土の七割が草原、二割が砂漠、一割が森林だ。この草原地帯で砂 漠化が進行していることが、日本の黄砂が激しくなってきた一因と考えられる。中国の四大黄砂発生
地点のひとつ、ゴビ砂漠は内蒙古から隣国モンゴルにかけて約一三〇万平方キロに広がっている。
モンゴルで進む砂漠化の原因が日本のカシミヤ・ブームにもある。高級品だったカシミヤセーター は量販店が扱うほど大衆化し、輸入統計によると、近年は前年比で三〇∼六〇%も輸入が増えるほど
人気が高い。モンゴルの草原地帯で生産されるカシミヤは、高い品質で世界に知られている。カシミ
ヤヤギからとれるモンゴル産原毛の年間生産量は、約四五〇〇トン︵二〇〇六年︶ほどだ。
ヤギの外側の太くて硬い毛の中に、わずかに生える産毛がカシミヤの原料になる。春になって産毛 が抜ける時期に ですいて集める。一頭から取れるカシミヤ原毛は二〇〇グラムほど。カシミヤセー ターをつくるのに四∼七頭、コートともなれば三〇頭分の毛が必要だ。
モンゴルは世界有数の畜産国で、一九九七年には五畜︵主要五種の家畜︶が三三〇〇万頭を超えた。
197 第 7 章 激化する黄砂
カシミヤ・ブームがヤギを増やし,さらに砂漠を拡大させている(モンゴルの アルハンガイ県で)。
198
一九六五年にはヤギの頭数は五七〇万頭だっ
たのが、九二年の市場経済への移行によって
家畜の私有化が認められたために、九九年に
は一一〇〇万頭を超えて史上最多を記録した。
その直後、ゾドによる草不足と疫病の流行 で九〇〇万頭にまで減った。ゾドとは、モン
ゴル語で﹁真冬の災害﹂という意味だ。雪害
︵白いゾド︶、雪不足︵黒いゾド︶、固くて厚
い氷︵鉄のゾド︶の三つがある。しかし、二
〇〇六年には一五〇〇万頭を突破して、もっ
とも多い家畜の地位を占めた ︵図❹︶ 。
分散させて狭い地域に集中しないようにし、
数を維持してきたからだ。家畜をつねに移動、
民とが共生して、草の再生産力に見合った頭
微妙なバランスで成り立っている草原と遊牧
草原地帯は寒冷乾燥気候のために植物の生 育が悪い。これを持続的に利用できたのは、 写真提供 鈴木孜氏
図❹ モンゴルの 5 畜(主要 5 種の家畜)の頭数の推移 (万頭) 3500
3000
2500
2000
1500
1000
500
0 1930 1950 1970 1974 1978 1982 1986 1990 1994 1998 2002 2006 年 5 畜計 ヤギ ヒツジ ウマ ウシ ラクダ
(出典) モンゴル政府統計から鈴木由起夫氏が作図。
家畜によって食べる草の種類や部分が異なるた
めに、数種の家畜を混牧することで草原への圧 力を分散してきた。
ヤギは草がなくなると木に登って葉を食べ、 土を掘って根を食べる。粗食に耐え環境適応能
力に優れている。見方を変えれば環境への影響
が大きい。ヤギが増えることは、草地の再生が
難しくなり、砂漠化を引き起こすことを意味す
る。同様の現象は干ばつが急増するアフリカで
も、砂漠拡大の原因になっている。
モンゴルで環境政策アドバイザーとして働い た元J ICA専門家の鈴木孜氏の報告書﹁モン
ゴル草原生態系保全プロジェクト﹂︵二〇〇五
年︶によると、環境・社会の両面から変化が起
きていたことがわかる。
モンゴルの遊牧社会では、影響を少なくする ために、伝統的にヤギの頭数は放牧家畜の一∼
199 第 7 章 激化する黄砂
過放牧によって荒れ果てた草原(モンゴルのトゥブ県で)。
200
二割以下に抑えてきたが、カシミヤの高騰のた
めにヤギが急増し二〇〇四年にはついにヒツジ
の数を上回ってしまった。そのうえ、市場経済
化政策によってネグデル︵協同組合︶を通じて
行われていた草原の管理組織が崩壊し、多くの
地域で井戸の維持管理、タンクへの給水システ
ムの機能がマヒしてしまった。このため、水不
足で草原面積が減少したうえに、市場に近くて
水のある場所へ家畜が集中する結果になった。
これまでに利用されなかった山間部や半乾燥地
な草地を確保している。他方、新規参入者には、
牧で暮らしてきた遊牧民は、既得権として肥沃
で学校を卒業後Uターンしてくる。これまで放
都市部では就職が難しく、地方の出身者は都市
に参入してくることも理由として挙げられる。
ヤギの飼養頭数が急増しているのは、都会か らの帰郷者が一攫千金を夢見て、大挙して牧畜
写真提供 鈴木孜氏
帯など、条件の悪い場所にしか放牧地は見つからなかった。
社会主義時代には国家が放牧頭数を管理していたが、一九九二年の市場経済化で放牧は野放し状態 となり、草原の生態系が大きく崩れることになった。モンゴル農牧産業省によれば、家畜頭数はすで
にモンゴル国土全体の草地面積に対して過剰になり、地域によっては草地面積の許容頭数に対して二 倍以上もの家畜が放牧されているという。
自然環境省には、国内の草原の七〇%が砂漠化の影響を受けているとして﹁草原の砂漠化を防ぐた めに、植物の新芽を好んで食べるカシミヤヤギの飼養頭数を半減させる必要がある﹂との見解を明ら
かにしている。だが、財政状態が悪化しているモンゴルにとってカシミヤは重要な外貨獲得源であり、 なかなか規制は進まない。 干ばつと砂漠化
砂漠化が世界的に関心を集めるきっかけとなったのは、サハラ砂漠の南に連なるサヘル地方で干ば つ が 相 次 ぎ、 こ の 結 果 発 生 し た 大 規 模 な 飢 餓 だ っ た。 と く に、 一 九 六 九 ∼ 七 四 年 に は チ ャ ド、 ニ
ジェール、マリ、オートボルタ︵現ブルキナファソ︶、セネガル、ガンビアといった、それまで名前
もほとんど知られなかった国々で、二億六五〇〇万人が被災して、一〇万∼二〇万人が餓死したと推 定さ れ る 。
このときの干ばつで、砂漠が拡大してきたとして﹁砂漠化﹂の語がマスメディアなどにあふれるこ
201 第 7 章 激化する黄砂
図❺ サヘル地方の雨量の減少(偏差値)
実測値 10 年平均値 1.4 1.2 1.0 0.8 0.6 0.4 0.2 0.0 −0.2 −0.4 −0.6 −0.8 −1.0 −1.2
1890 1900 1910 1920 1930 1940 1950 1960 1970 1980 1990 2000 年 (出典) UNEP。
とになった。これをきっかけとして、UNEPが一九
七七年にケニアのナイロビで国連砂漠化会議を開催し
た。サヘル地方は年間降水量が四〇〇∼七〇〇ミリの
半乾燥地帯。年間約五五〇ミリが必要とされる農業に
はぎりぎりの雨量で、多くの住民は乾燥に強いヤギ・
ヒツジを放牧してその乳や血、ときには肉で生活して きた。
二〇世紀半ばごろまではまだサバンナ林が残され、 土壌中の養分や水分が回復するまで十分な休耕期間を
おくことができた。しかし、二〇世紀後半になると、
人口増加と農地や集落の拡大による放牧地の減少がこ の一帯にも迫ってきた。
一九六〇年代末ごろから、サヘル地方では雨量が急 激 に 減 り は じ め、 今 日 ま で こ の 傾 向 は つ づ い て い る
。 一 九 六 九 ∼ 七 四 年 に つ づ い て、 一 九 八 一 ∼ 八 ︵図❺︶
四年、一九八六∼八七年、一九九一∼九二年、一九九
四∼九五年、二〇〇〇∼〇三年、二〇〇四∼〇五年、
202
とアフリカ大陸のどこかで、毎年のように干ばつの被害がでている。とくに、一九八一∼八四年には 人間や家畜に大きな被害が出て、世界的な救援活動が展開された。
サヘル地方では、さらに南側の雨量の多い農業適地から押し出されてくる形で、一九六〇年以後人 口が平均して六倍にも増えた。人が一人増えれば、生活の糧となる家畜が平均して三頭は増えること
になり、その過放牧とエネルギーの八割以上を頼る薪集めによって、急速に植生が失われ土壌は乾燥 し侵食されていった。そこに、干ばつが加わって一挙に砂漠化が進んだ。
狭くなる放牧地と増加する家畜によって、環境への圧力は強まっていった。たとえば、サヘル地域 では、家畜の数は一九六〇年以来三倍になったのにもかかわらず、放牧地の面積は一五%も減少した。
UNEPによると、サハラ砂漠は前世紀以来六五〇〇万ヘクタールも拡大し、スーダンの一部などで は砂漠の境界線が二〇〇キロ近くも南に移動した場所もある ︵図❻︶ 。 砂漠化とは
自然条件下では、一般的に降水量が六〇〇ミリ以上あれば森林が形成され、四〇〇ミリで草原︵サ バンナ︶となり、さらに少なくなると乾燥草原︵ステップ︶や砂漠となる。降雨が少なく、乾燥のた
め植物がほとんど育たない地域を砂漠と呼んできた。単に乾燥化だけでなく、土壌の侵食や塩類集積
メソポタミアや中国の遺跡の発掘から、砂漠の拡大は三〇〇〇年前ごろから始まり、農地や村落を
なども砂漠の成因になる。
203 第 7 章 激化する黄砂
図❻ アフリカにおける土壌悪化の原因
(1) アフリカ各地域の土壌劣化の主要因
過放牧 194.4 農業活動 60.4
2.0(億 ha) 1.5 1.0 0.5 0
土壌劣化面積
過放牧
農業活動
薪炭材の 過剰採取
森林減少・自然 資源の消滅
北部 サヘル 南部 その他 (2) アフリカ全体の土壌劣化の主要因(100 万 ha)
森林減少・自然資源 の消失 22 薪炭材の過剰採取 55.5
204
呑み込んでいた事実が知られて
い る。 ア フ リ カ で も、 ﹁緑のサ
ハラ﹂といわれて、サハラ砂漠
が緑に覆われていた時代から、
四五〇〇年前を境に乾燥化がは
じまり、砂漠がジリジリ拡大し
てきたことが地質学的にわかっ
ている。
地利用の結果、土壌侵食、水資
方で、人為派は人間の過剰な土
てきたことを強調する。その一
に伴って拡大・縮小を繰り返し
中の砂漠が過去にも気候の変化
いてきた。自然現象派は、世界
の土地利用なのか、論争がつづ
﹁砂漠化﹂の主たる原因が自 然現象なのか、人間による過度
(出典) UNEP, 「世界砂漠化地図」第 2 版,1997 年。
源の枯渇、土壌の塩類蓄積などが土地の不毛化を招いたと主張する。
一九七七年の国連砂漠化会議で使用された﹁砂漠化﹂の定義が明確にされなかったことも、こうし た混乱を招いた。UNEPは新しく﹁砂漠化﹂を定義する必要に迫られて、一九九一年に開いた会議
で﹁主に不適切な人間の活動による土地の劣化である﹂とする結論になった。
﹁乾燥・半乾燥・乾燥亜湿 しかし、翌年の﹁環境と開発に関する国連会議﹂︵地球サミット︶では、 潤地域における、気候変動と人間活動を含む多様な要因による土地の劣化である﹂と変更された。現
在では、自然の砂漠化は数百年から一〇〇〇年単位での地表の変化であり、人為的な砂漠化は、一〇 年単位で目に見える土地の荒廃であると区別される場合が多い。
アフリカの干ばつ傾向はいよいよ強まり、砂漠化の加速とともに被害も大きくなってきた。新たに アフリカの砂漠化に対処するために条約が必要になり、一九九四年に﹁国際的に連帯と協調をするこ
とによって、砂漠化の深刻な影響を受けている国々、とくにアフリカ諸国の砂漠化を防止するととも
に、干ばつの影響を緩和すること﹂を目的として、新たな条約が採択された。
正式には﹁深刻な干ばつ又は砂漠化に直面する国、特にアフリカの国において砂漠化に対処するた めの国際連合条約﹂だが、あまりに長いので﹁砂漠化対処条約﹂と呼ばれる。一九九六年に発効した
︵日本は一九九八年に批准︶。二〇〇六年の条約一〇周年を、国連は﹁砂漠と砂漠化に関する国際年﹂
砂漠化対処条約の第一条では、砂漠化を﹁乾燥、半乾燥および乾燥半湿潤地域におけるさまざまな
に指 定 し た 。
205 第 7 章 激化する黄砂
図❼ 世界の砂漠化危険地域
現存の砂漠 砂漠化危険地域
(出典) UNEP, 「世界砂漠化地図」第 2 版,1997 年。
要因による土地の劣化﹂であると定義している。こう
した地域では、もともと植生や土壌が脆弱なため、表
土が失われると、たとえ降雨があったとしても植物が 育たない。 拡大する砂漠
砂漠化対処条約事務局によると、陸地面積に占める 乾燥地の割合は、一九七七年の三一%から近年は四一
%に増加した。衛星画像を見ると、砂漠化が世界の乾
燥地域にくまなく広がっていることがわかる。砂漠や
不毛地は、一〇〇以上の国・地域で生活を脅かしてい
る ︵図❼︶ 。砂漠化による農業生産の被害は年約四二〇
億ドルにのぼり、飢餓や貧困の原因となり、社会、経
済、政治的な緊張を生み出している。
二〇〇五年六月に発表された国連の﹁ミレニアム生 態系アセスメント﹂は、砂漠化が深刻化しているとす
る報告書を発表した。これは国連や世界銀行などが、
206
新千年紀の地球生態系を再評価するために二〇〇一年に発足させたもので、 ﹁ミレニアム開発目標﹂ ︵MDGs 、本書第4章︶の大プロジェクトの一環である。
その報告書では﹁森林破壊や過剰な農畜産活動によって土地が劣化する砂漠化は、今後、地球温暖 化が進んでさらに深刻化、発展途上地域を中心に二〇億人近くの生活が脅かされる﹂と述べている。
さらに、砂漠化が深刻な中国から飛来する黄砂によって日本の大気汚染が悪化したり、アフリカか らの砂嵐がカリブ海のサンゴ礁に悪影響を与えたりするといった広域的な環境問題を招いていること
も指摘した。今後の経済成長や人口増加などを考慮した予測結果からは、砂漠化の拡大が今後の世界 の環境に大きな悪影響を及ぼすとしている。
急増する世界人口の圧力により、すべての大陸で生産力の高い土地が砂漠化に まれている。食糧 増産の圧力から乾燥性の高い土地を耕作することで土壌侵食が発生し、二〇〇五年のFAOの統計で
は、世界では約三三億頭のウシ、ヒツジ、ヤギによって持続可能な限界を超える過放牧がつづけられ、 草地の劣化が進行している。
UNEPの推定によると、これまで農業によって劣化した土地は五億六二〇〇万ヘクタール、世界 の総耕作面積の約四割にもなる面積だ。砂漠化などから農業をつづけられなくなった放棄地も、毎年 五〇〇万∼六〇〇万ヘクタールずつ増えている。
砂漠化の広がりを地域別にみると、アフリカが約四億九四〇〇万ヘクタール、アジアが約七億四七 〇〇万ヘクタールとこの両地域で世界の砂漠化の影響を受けている土地の面積の約三分の二を占めて
207 第 7 章 激化する黄砂
図❽ 砂漠化の現状 (1) 世界各地域の砂漠化面積 0
1
2
3
4
5
6
7
8(億 ha)
アフリカ 4.94 アジア 7.47 オーストラリア,ニュージーランド,近隣諸島 1.03 ヨーロッパ 2.19 北米 1.58 南米 2.43 過放牧 森林破壊 農業目的 過剰開発 その他 (2) 世界全体の砂漠化の原因(100 万 ha) その他 過剰開発 22.3 132.8 過放牧 672.7
農業目的 551.6
森林破壊 578.6 (出典) UNEP,
.
いる ︵図❽︶ 。これは
両地域で耕作が可能
な乾燥地域のうちの
それぞれ七三%、七
一%に相当し、砂漠
化問題が両地域の
人々の生活を脅かす
深刻な問題になって
いることがこれらの
数字からも明らかで
ある。
UNEPは、砂漠 化のために一九七八
∼九一年に世界で約
三〇〇〇億∼六〇〇
〇億ドルの逸失利益
が出たと推測してい
208
る。砂漠化を抑制し、劣化した土地を復旧することから生じる利益は、砂漠の拡大を放置するコスト の少なくとも二・五倍を超えるとする分析結果もある。
砂漠化対処条約事務局の予測によると、砂漠化を阻止・改善する協調努力がなされないかぎり、ア フリカでは耕作可能な土地の三分の二、アジアは三分の一を失うおそれがあるという。そうなれば貧 困と食糧不安が増大し、環境難民が急増することにもなる。
アフリカでもっとも人口の多いナイジェリアは、北部一〇州の農牧地の半分が砂漠化の影響を受け、 毎年約三五万ヘクタールを失っている。鳥取県ほどの面積だ。頻度を増す干ばつに加えて、人口圧力、
無秩序な土地利用、過放牧などの複合作用によるものだ。砂漠が広がるにつれ、残された豊かな土地 をめぐる農民と牧畜民の争いが激しくなっている。
約八〇万人が虐殺されたと推定される一九九四年のルワンダ内戦は、農耕民のフツ族と牧畜民のツ チ族が土地を奪い合ったことが惨劇の背景にある。人口の急増で農地が悪化するとともに土地が不足
して、農民が牧畜民の放牧地に侵入していったことが、両部族の緊張を強め紛争を誘発することにも なっ た 。
アフガニスタンとイランにまたがるシスタン盆地では、過去二〇年の間に砂塵によって一〇〇以上 の村が埋まった。一〇〇万頭の牛、羊、山羊が養われていたオアシスは、過放牧によって牧草地が砂
漠に変わり数十万頭の家畜が死に、村人は土地を放棄した。アムダリア川上流のアフガニスタン流域
では、長引く干ばつによって植生が失われ、長さ約三〇〇キロ、幅三〇キロにわたって砂丘がつづく
209 第 7 章 激化する黄砂
光景に変わった。道路が砂で遮断され、井戸が埋まって村人は逃げ出すしかなかった。 黄砂は善玉?
人工衛星による観測が長足の進歩を遂げて、地球上を移動する砂塵の研究が進み、その実態が明ら かになってきた。NASAは、地球全体では年間約二一億五〇〇〇万トン、北太平洋全域では、約三 億三〇〇〇万トンの砂塵や黄砂が降りそそいでいると推測している。
砂漠から砂塵が巻き上げられて長距離運ばれるのは、中国北西部の砂漠地帯に限らない。サハラ砂 漠からも、乾期に入ると毎年のように膨大な砂塵が舞い上がる。それは風に乗って、ときには三〇〇
〇メートルの高空にまで達する。北に向かった砂塵はヨーロッパ大陸を横切って北欧にまで達し、ア ルプスの氷河が黄色く染まってニュースになることもある。
さらに貿易風に乗って年間二∼三億トンと推定される膨大な砂塵が大西洋をわたってくる。五∼七 日で北米や南米大陸に到達し、米国のフロリダ州や中南米各地に降りそそぐ。三月にカリブ海のトリ
ニダード・トバゴで、空から砂がドサドサという感じで降ってきてびっくりしたことがある。サハラ 砂漠から五〇〇〇キロもの距離を飛来した黄砂だった。
飛来量が最高になる七月には、大西洋上を移動する赤味がかったかすみが、NASAの人工衛星写 真にくっきりと映し出されるほどだ。砂塵の季節には、夕日が朱色を帯びて一段と大きく映えるため、 南フロリダやカリブ海では美しい夕日が観光の売りにもなっている。
210
ところかまわず降りそそぐ細かな砂はやっかい者だったが、近年の研究で地球の生態系に重要な役 割を演じていることもわかってきた。アマゾンでは、熱帯林の内部で九五%の物質が循環している。
つまり、地上の枯れた葉や枝や動物の遺体はシロアリなどによって分解され、もう一度植物が利用で
きる有機物と二酸化炭素に戻される。ところが、林内を縦横に川が流れているために、川に落ちた葉 などが海に運ばれて毎年五%の養分が不足する。
サハラ砂漠からはるばる大西洋を越えて飛来する砂塵の量は、オランダ王立研究所のグループによ ると、アマゾンでは毎年一ヘクタールあたり一一二〇グラムほどになる。砂塵は、もともと岩石が長
い年月をかけて風化してできたものであり、リン、カルシウム、鉄などのミネラル分を豊富に含んで
いる。アマゾンで毎年失われる栄養塩は、はるか離れたサハラ砂漠から補給されていたのだ。
舞い上がった砂塵の大部分は海に落下する。だが、水中でプランクトンの栄養になり、それを食べ る魚をはじめとする海洋の多様な生き物の食物連鎖を底辺で支えている。つまり、砂塵は海の生物を
育てているともいえる。さらには、他の物質と一緒になって海底に沈んで有機物の貯蔵庫となり、そ
れが寒暖流の衝突などで水面近くまで巻き上げられる海域は、豊かな漁場となる。サハラ砂漠から大
西洋を横断する砂塵の通り道の海は、プランクトンの発生量が他の海域に比べて多いことが、人工衛 星の観測でとらえられている。
中国から舞い上がった黄砂を人工衛星で追跡すると、偏西風に乗って日本列島を越えハワイ諸島、 さらには太平洋の島々にまで流れている様子が映し出される。東シナ海やオホーツク海など日本近海
211 第 7 章 激化する黄砂
の海でも、黄砂が生態系の維持に重要な働きをしている証拠がいろいろと上がっている。
地球温暖化への影響があるとされる二酸化炭素は、一平方メートルあたり年平均一・五ワットの加 熱効果があるとされる。他方、国立環境研究所が、一九七四年から二〇〇一年までの二八年間につい
て、黄砂などの粒子が地球全体の気候に与えた影響をコンピューターで解析したところ、地球全体で
一平方メートルあたり年平均〇・三ワットという、わずかながらも冷却効果があった。日本付近では、
この冷却効果は同一∼五ワットと大きかった。黄砂の粒子はさらに、雲をつくる核となって﹁日傘効 果﹂を生み大気を冷やすともみられている。
黄砂は大気汚染物質を吸着する働きがあり、同研究所の計算では、年間で自動車七〇万台分の排ガ スを吸収するという。また、アルカリ性物質であるため、大気中で酸性雨の原因になる車の排ガスや 火山ガスを中和する働きもある。 黄砂は悪玉?
ところが、最近の研究によってふたたび﹁悪者﹂論が登場してきた。NASAなどによって、砂塵 とともに病原性の細菌や菌類やウイルスがアフリカから運ばれてくることが明らかにされた。
サハラ砂塵を長年追っている米国地質調査所が、カリブ海のバージン諸島にあるセント・ジョンズ 島でサハラ砂漠からの砂塵を採取して分析したところ、数多くの細菌や菌類が発見された。大部分は
高空で紫外線にさらされて死滅したが、砂粒のくぼみや割れ目に入りこんだものが生きていた。とく
212
に、低空で飛来した砂塵は、比較的高い温度と海面からの湿度によって、細菌などの生存率が高いこ とが わ か っ て き た 。
その多くは人体には無害だったが、米国国立衛生試験所の専門家が詳しく調べたところ、呼吸器疾 患を起こす細菌や、アレルギーの原因になる真菌類のアスペルギルスの胞子などが含まれていたとい う。このカビは土壌中に住み、喘息や肺炎を起こすことで知られている。
カリブ海のバルバドスのクイーン・エリザベス病院で外来患者のカルテを って調査したところ、 一九七二年から九六年の間に喘息患者が一七倍にも増えており、これはサハラ砂塵の飛来量の増加と
一致するという。カリブの島々では、慢性的な咳、呼吸障害、腸の異常、肺炎、極度な疲労、頭痛、
下痢などを訴える症状が増加しており、サハラ砂塵との関係を不安がる声も強い。
また、北米で流行している西ナイル熱 ︵本書第8章︶といった伝染性の高いアフリカ特有のウイル スも、砂塵とともに飛来した可能性も議論されている。サハラ砂漠周辺ではひんぱんにバッタが大発
生し、その駆除に毒性の強い農薬を大量に散布することから、その農薬も一緒に飛来することも考え
られる。韓国でも、黄砂が大気汚染物質だけでなく、鳥インフルエンザ ︵本書第8章︶や口蹄疫のよ うな家畜の伝染病を運んでくるとして、騒ぎになっている。
フロリダ州海岸では、数年に一度は赤潮が発生して漁業に大きな被害が出る。NASAが支援して いる同州の赤潮研究チームは、サハラ砂塵が赤潮発生の引き金になっているのでは、と考えている。
赤潮の原因となっているプランクトンは、トリコデスミウムというラン藻類だ。
213 第 7 章 激化する黄砂
海水中に含まれる鉄分が多くなると、このラン藻が大発生して赤潮となる。砂塵には鉄分が含まれ、 砂塵の飛来量が多かった直後に赤潮が発生することから、その原因とも目されている。トリコデスミ
ウムが大発生すると、海が赤く染まる。サハラ砂漠に近い紅海では、砂塵の飛来が引き金となってひ んぱんに赤潮が発生することから、﹁紅︵い︶海﹂と名づけられた。
カリブ海では海域によって七割以上にも被害が及んでいるサンゴの大量死も、汚染や観光と無縁の 海域でも発生していることから、海水温の上昇とともに砂塵が運んできた病原性のカビの関与を疑う 説も あ る 。
オックスフォード大学のアンドリュー・グーディ教授︵地理学︶は、サハラ砂漠から舞い上げられ る砂塵が過去五〇年間に一〇倍にもなったと推定する。とくに、一九六〇年代後半からはじまったア フリカの乾燥化とともに、砂塵の量も増えてきた。
だが、過放牧や過農耕だけでは説明できないほど砂漠化は加速しており、グーディ教授は、乾燥地 帯で4WDのオフロード・カーが普及したことを主要な原因の一つに挙げている。この4WDは、過
去 二 〇 年 間 で ほ と ん ど が 日 本 製 に な り、 政 府 や 軍 や 観 光 会 社、 あ る い は 各 国 の 大 使 館 や 援 助 機 関 が 使っ て い る 。
砂漠は砂丘のように移動する部分は別にして、砂の表面は塩類や金属分や有機物が固まってできた 薄い皮膜が、パンの皮のように覆って砂の移動を抑えている。教授は多くの4WDが砂漠を走り回る
ようになったために、その重量で皮膜が破れて砂が動きだし風で舞い上げられるようになった、と指
214
乾燥地帯の環境問題﹄赤木祥彦、東京大学出版、二〇〇五年
摘する。日本は間接的にせよ遠いアフリカの砂漠化に関与していたことになる。
│
﹃沙漠化とその対策
︻参考文献︼
﹃砂漠化ってなんだろう﹄根本正之、岩波ジュニア新書、二〇〇七年
│
その謎を追う﹄岩坂泰信、紀伊國屋書店、二〇〇六年
﹃砂漠と気候﹄篠田雅人、成山堂書店、二〇〇二年
﹃土と文明﹄ヴァーノン・ギル・カーター、トム・デール︵山路健訳︶、家の光協会、一九九五年
﹃黄砂
215 第 7 章 激化する黄砂
仲買人のもとに運ばれたサル,アルマジロなどのブッシュミート 市内のマーケットで売られる。 (コンゴ民主共和国ポアントノアールで) 写真提供 中野智明氏
新顔ウイルスの脅威
8
環境の変化が生んだ感染症 第
章
今なお人類を脅かしつづける病原体の多くは、私たちが引き起こした環境の変化によって出現した ものだ。小さな集団で暮らしていた狩猟採集時代には、自然を攪乱することもほとんどなく、人間同 士の接触も少なくて伝染病に感染する機会は限られていた。
だが、森林が切り開かれて農耕定住社会が成立するとともに環境は大きく変わり、集団で住むよう になって伝染病は一挙に拡大した。人間の伝染病の多くは動物が保有する細菌やウイルスに起源があ
り、家畜と一緒に生活するようになって動物の伝染病が人間社会に深く根を下ろした。
過去一万年にわたる家畜やペットとの緊密な関係で、イヌ、ネコ、ウシ、ヒツジ、ブタなどと三〇 〇種類を超える病気を共有することになった。米国野生動物保護学会の報告書によると、現在知られ
ている一四一五種の感染症のうち、六〇%以上が動物と人間の双方に感染力をもっているという。
また、定住地が川の上下流にまたがった場合には、上流の排泄物が下流の飲料水となって水を媒介 する消化器病が広がり、灌漑施設によって水たまりができると、マラリアや黄熱病など昆虫が媒介す る病気や魚介類を宿主とする住血吸虫などが定着した。
さらに、都市の発達は非衛生で高密度の居住環境をつくりだし、上水・下水処理の不備のために慢 性的にコレラや赤痢などの消化器病がはやり、廃棄物が放置されてネズミが繁殖し、彼らが媒介する
ペストやツツガムシ病などが大流行した。そして、産業革命を経て工業化が進むと、不潔な労働環境、
過去半世紀間、交通輸送機関の飛躍的な発達で時間と空間が短縮され、人と物資の移動で病原体も
過重労働と低栄養、農村からの非免疫者の都市流入によって、結核などの流行を招いた。
218
図❶ 世界の感染症による死亡者
死因のうち感染症・寄生虫症 による死亡の割合
, 2002. (出典) WHO,
マラリア 127.2 万人
グローバル化して、世界的な﹁感染爆発﹂が起きた。その一方
で、発展途上地域の熱帯林や山岳地帯や湿地帯など、それまで
人口が少なかった辺境の地にも開発の手が伸びて潜んでいたウ
イルスを引きずり出し、人類は新たな﹁疫病の恐怖﹂にさらさ
れることになった。これだけ医学が進んでも、依然として人類
の死因の約二〇%を感染症が占めていることが、その手強さを 証明している ︵図❶︶ 。 人間とウイルスの闘い
さまざまな病気を引き起こすウイルスの存在がわかってきた のは、一九世紀の終わりになってからだ。人類史上もっとも多
くの犠牲者を出したウイルス病は、天然痘である。その存在は
二〇〇〇年以上も前の記録にも残され、古代ローマでは人口の
四分の一を死滅させこともあり、さらにインカなど多くの文明 や民族を壊滅させてきた。
一八世紀にはヨーロッパだけで五〇〇〇万人が死亡した。一 七九六年、イギリスのエドワード・ジェンナーが種痘を発明、
219 第 8 章 新顔ウイルスの脅威
下痢症 179.8 万人 結核 156.6 万人 ハシカ 61.1 万人 その他 80.90%
エイズ 277.7 万人 その他 288 万人 19.10% (1090.4 万人)
(2) 感染症・寄生虫症の 疾患別死亡者数 (1) 死因のうち感染症・寄生虫症による 死亡の割合
正体は不明ながらも、はじめてウイルス感染症と闘うことができるようになった。それでもなお、二 〇世紀に入って三億人以上を殺したほど猛威をふるった。
一八八五年にルイ・パスツールによって狂犬病ワクチンがつくられ、ウイルス感染の予防の道が開 かれた。一九五〇年代以降ウイルス研究は大きく前進し、ポリオやハシカなど多くのウイルスが分離
され、それぞれにワクチンが開発されて、予防できるウイルス感染症が増えてきた。世界保健機関
︵WHO︶は一九八〇年五月八日に天然痘の根絶を宣言し、人類最大の強敵をついに打ち負かすこと がで き た 。
ところが、勝利宣言もつかの間、その翌年には医学最先地の米国で後天性免疫不全症候群︵エイ ズ︶の流行が明るみにでた。そればかりか、二〇世紀後半に入って、病原性の強い新顔や装いを変え た古顔のウイルスが次々に出現した。
現在知られているウイルスは約四〇〇〇種。このうち、人間に病気を起こすのは一五〇種ぐらいだ。 これらのウイルスは、それぞれの自然宿主と長い時間をかけて共存してきた。地上には未知種も含め
て少なく見積もっても、約三〇〇〇万種︵さまざまな推定がある︶の生物が生息しているとみられる。
それぞれが一種のウイルスを持っていると仮定すれば、三〇〇〇万種のウイルスが存在することにな
る。ウイルスには﹁予備役﹂の大部隊が控えているのだ。そのなかには、新たな宿主を求めて変異を
WHOと全米科学者協会は一九九三年、新たに出現して社会的に大きな影響を与えている感染症を
繰り返しているものも少なくない。
220
﹁エマージング︵新興︶感染症﹂、克服されたと信じられていたのがふたたび息を吹き返して急速に広
がっているものを﹁リエマージング︵再興︶感染症﹂と名づけて、世界的な監視を呼びかけた。
エマージング感染症のなかでも、ラッサ熱、エボラ出血熱といった﹁エマージングウイルス﹂と呼 ばれるウイルスが引き起こす病気が、とくに感染力も死亡率も高い。一九五〇年代末からこれまでに
約四〇種が知られている ︵表①︶ 。これらのウイルスはヤギ、ヒツジ、ウシなどの家畜や、野ネズミ、
コウモリ、野鳥などの野生動物が保有するウイルスに由来するものが多いが、自然宿主が不明なもの も少 な く な い 。
ウイルスは何回か変異を繰り返すうちに、宿主から飛び出して他の種に乗り移り、うまく定着でき るものが現れる。一般に、ウイルスは種を跳び越えて感染すると凶暴化し、多くの人命を奪うキラー
ウイルスに変身することが知られている。ウイルスが新たな宿主の免疫系をかいくぐろうとして、毒 性を強めるためと考えられている。
重症急性呼吸器症候群︵SARS︶の原因となったコロナウイルスの仲間が、これほど恐ろしい病 気を人間に引き起こすという認識はそれまでまったくなかった。それが、動物から人間に跳び移った ときに、凶悪になったのがいい例である。
ウイルスと人間との闘いは、遺伝子が三万数千個もあるもっとも進化したヒトと、多くても三〇〇 個ぐらいしかない地上でもっとも原始的な微生物との死闘でもあった。ときには膨大な死者を出す代
償を払って人間側が免疫を獲得し、あるいは巨額の研究費で開発された新薬で対抗すると、それをか
221 第 8 章 新顔ウイルスの脅威
表① 20 世紀後半以降に出現したおもなエマージングウイルス 年
病 気
原因ウイルス
ウイルスの自然宿主 感染経路や発生地など
1957 アルゼンチン出血熱 フニンウイルス 1959 ボリビア出血熱 1967 マールブルク病 1969 ラッサ熱 1969 急性出血性結膜炎 1976 エボラ出血熱 1977 リフトバレー熱 1979 エボラ出血熱 1981 エイズ 1985 牛海綿状脳症 (BSE) 1989 エボラウイルス感染 1991 ベネズエラ出血熱 1993 リフトバレー熱 1993 ハンタウイルス肺症 候群 1994 エボラ出血熱 1994 ブラジル出血熱 1994 ヘンドラウイルス病 エボラ出血熱 エボラ出血熱 エボラ出血熱 高病原性鳥インフル エンザ感染 1997 リフトバレー熱 1995 1996 1996 1997
ニパウイルス感染 西ナイル熱 マールブルク病 新型アレナウイルス 感染 2000 リフトバレー熱 1998 1999 1999 2000
2003 SARS
アルゼンチンヨル マウス マチュポウイルス ブラジルヨルマウス 輸入ミドリザルから マールブルクウイルス 不明 の感染 マストミス ラッサウイルス 別名アポロ 11 病 エンテロウイルス 70 ヒト 不明 ザイール,スーダン エボラウイルス での発生 リフトバレーウイルス ヒツジ,ヤギ,ウシ エジプトでの大流行 (20 万人以上が感染) 不明 スーダンでの発生 エボラウイルス ヒト免疫不全ウイル ヒト ス ウシ スクレイピー汚染に プリオン* よるウシの感染(?) 不明 輸入サルの致死的 レストン株 感染 グアナリトウイルス コットンラット リフトバレーウイルス ヒツジ,ヤギ,ウシ エジプトで再流行 米国南西部で最初に ハンタウイルス(シ シカネズミ 発生 ノンブレウイルス) 不明 コートジボアール エボラウイルス での研究者の感染 げっ歯類(?) サビアウイルス オーストラリアでの ヘンドラウイルス オオコウモリ 発生 不明 ザイールでの流行 エボラウイルス 不明 エボラウイルス ガボンでの流行 不明 エボラウイルス 南アフリカでの発生 鳥インフルエンザウ トリ 香港での致死的感染 イルス リフトバレーウイルス ヒツジ,ヤギ,ウシ ケニア,ソマリア での発生 オオコウモリ マレーシアでの発生 ニパウイルス 米国での発生 西ナイルウイルス 野鳥 コンゴでの発生 マールブルクウイルス 不明 米国カリフォルニア ホワイトウォーター ノドジロウッド ラット での発生 アロヤウイルス リフトバレーウイルス ヒツジ,ヤギ,ウシ サウジアラビアと イエメンでの発生 中国広東省での発生 SARS コロナウイルス 不明
* 感染性蛋白因子 (出典) 山内一也「21 世紀の感染症─エマージングウィルスとの闘い」『別冊日経サ イエンス』2003 年。
222
いくぐって新手を繰り出してくる。ウイルスに対する全面勝利はまだ先が見えない。 生態系攪乱とウイルス
エマージングウイルスが世界各地に出現した過去半世紀は、環境破壊が世界的に急拡大してきた時 期と一致する。人口の急増や経済の拡大に伴う、森林の伐採や開墾、鉱工業施設の拡大、都市の膨張、
大規模開発などの人間活動によって、生態系が混乱に陥った。生態系を構成する生物種が失われて構
成が変わり、物質循環や食物連鎖が断ち切られて、本来の安定した自然のシステムが随所で崩壊した。
たとえば、天敵のワシ・タカ類が激減することで、伝染病を媒介するネズミなどの動物が大発生す る。森林伐採で を失ったコウモリが、里に出てきてウイルスをばらまく。伐採や搬出に使う重機が
地面に大きな轍を残すことで、そこに雨水がたまって病原体を運ぶ蚊のボウフラが繁殖できるように
なる、といった具合だ。人間が自然を傷めつければ、自然は必ず何らかの報復をする。
森林の奥深くで動物と共生していたウイルスが、開発によって追い出されて集落や都市に侵入する と、人間の社会は巨大なウイルスの培養器となって流行を爆発させる。そして都市間を結ぶ航空機や
生態系の攪乱がウイルスを引き出したエマージングウイルスの先駆けは、一九五〇年代半ばにアル
• ウイルス性出血熱
船舶で、短時間に大量のウイルスが世界中に運ばれていく。
223 第 8 章 新顔ウイルスの脅威
ゼンチンのブエノスアイレスの西方約二四〇キロのフニン地域に現れた。パンパスと呼ばれているこ
の大草原地帯で、これまで見たこともなかった病気で農民が倒れはじめた。内臓から出血し血を吐き
ながら死んでいく悲惨な病気だ。一九五九∼八三年には約五〇〇〇人が感染し、死亡率は一五∼三〇 %と推定される高いものだった。
第一次大戦から第二次大戦にかけて、戦乱で食糧生産が落ち込んだヨーロッパ向けに、アルゼンチ ンの食糧輸出は急増した。一時は米英に次ぐ世界で三番目の経済大国にのし上がるほどの活況を呈し
た。パンパスは耕されてトウモロコシ畑に変えられ、同時に野ネズミが繁殖していった。
第二次大戦後、除草剤が導入されて頑丈な草を駆除できるようになったことで、開墾はさらに加速 した。だが、代わって除草剤の効かない雑草が入り込んできてはびこった。この雑草の種子も野ネズ
ミの大好物で、野ネズミが大発生した。彼らが保有していたフニンウイルスが尿を介して人間に感染 したことが判明し、一九五七年に﹁アルゼンチン出血熱﹂と名づけられた。
この流行と相前後して、ブラジル国境に近いボリビアのサンホアキンの町で、似たような出血熱が 流行しはじめた。ボリビアでは一九五一∼五二年当時、民族主義的革命運動党が政権を樹立したもの
の、軍部がクーデターを起こして内戦に発展した。サンホアキンも大混乱に陥り、町を逃げ出した農
民はアマゾン上流地帯の熱帯林に入り込んで、森林を焼き払ってトウモロコシの栽培で暮らしをたて
だが、彼らが選んだマチュポ川沿いの台地は、もともと野ネズミの土地だった。トウモロコシを
た。
224
たっぷり食べたネズミは猛烈な勢いで増えて、サンホアキンの町にも押し寄せ、ところかまわず尿と
ともにウイルスをまき散らした。約四〇〇〇人の地元民の約四割が感染して、一∼二割が死亡したと
推定される。一九五九年にマチュポウイルスと命名された新種のウイルスが突き止められ、﹁ボリビ ア出血熱﹂と名づけられた。
• キャサヌール森林熱 次のエマージングウイルスは、一九六五年にインド南西部のデカン高原に出現した。カルナタカ州 キャサヌールの森林で住民が次々と倒れた。突然の悪寒、発熱、頭痛、身体の痛みといったインフル
エンザのような症状にはじまり、長期にわたる高熱がつづいて肺炎や脳炎を起こす。数千人が発病し
て、約二〇〇人が死んだ。その後、一九八二∼八四年に同じ地域でふたたび流行し、一五〇〇人が発 病して一五〇人が犠牲になった。
インド国立ウイルス研究所は、原因となったウイルスをネズミやリスなどのげっ歯類から分離した。 さらにサルの死体からウイルスを保有するマダニを発見、 ﹁キャサヌール森林熱﹂と呼ばれることに なっ た 。
最初に集団発生したのは、カシューの農園をつくるために広範囲の森林を伐採した場所だった。そ の実はカシューナッツとして知られ、幹からはゴム樹液が採れる。この一帯の重要な換金作物だ。農 園の造成で森林と集落の間は広いヤブに変わった。
225 第 8 章 新顔ウイルスの脅威
森の奥深くに潜んでいたげっ歯類が追い出されて、このヤブに住み着くようになり、マダニを通じ て人間にウイルスを感染させたのだ。感染者は農園で働く貧しい農業労働者に集中していた。信心深
• リフトバレー熱
い地元民は、森林を破壊したために森の霊が怒ったのだ、と恐怖におののいた。
アスワンハイ・ダム ︵本書第5 章︶の完成から六年たった一九七七年、エジプトのナイル上流のア スワン地方で伝染病がはやりはじめた。ここはグレートリフトバレー︵大地溝帯︶の一部だ。約一万
八〇〇〇人が発熱、頭痛、おう吐などの症状を訴え、約六〇〇人が死亡した。エジプトに拠点を置く
米国海軍医学研究所が、﹁リフトバレー熱﹂が原因であることを突き止めた。蚊が媒介するウイルス 病で、以前から家畜の致命的な病気として恐れられていた。
流行はスーダン北部の家畜からはじまり、人と風によって運ばれた蚊を介してウイルスが広がって いった。とくにダムによってできたナセル湖に入り込んだ蚊は、湖周辺に広がる八〇万ヘクタールの 氾濫原や灌漑水路で大繁殖し、人間へ感染を広げていった。
リフトバレー熱はその後もダムや灌漑水路が建設されるたびに流行し、一九九八年にはそれまで流 行の記録のなかった西アフリカのセネガルとモーリタニアでも、両国の国境を流れるセネガル川に二
この年にはエルニーニョのために各地で雨が多く、蚊が大発生してケニアとソマリア両国でも流行
つのダムが建設された後、住民の間に広がりはじめた。
226
があった。二〇〇〇年に突然、アラビア半島のサウジアラビアとイエーメンでも発生した。二〇〇六 年末にはスーダンの難民キャンプでも死者が出た。
リフトバレー熱は﹁ダム病﹂として恐れられるようになった。熱帯地方でダムや灌漑施設のような 静水域をつくるのは、伝染病を運ぶ蚊に温床を提供するようなものだ。一九七〇∼八〇年代にかけて、
一時は下火になっていたマラリアが開発ブームとともにふたたび世界各地で勢いを取り戻した。イン
ド亜大陸では大規模な灌漑水路の整備とともに、一九七二年からのわずか四年間で、マラリア患者が 二・三倍にもなった。水路で蚊が大発生したのが原因だった。
このほか、眠り病︵トリパノソーマ症︶、ビルハルツ住血吸虫症、河川盲目症︵オンコセルカ症︶、 シャーガス病など、水を介して伝染する病気が発展途上地域で急増している。ガーナのダムでできた
ボルタ湖、スーダンのジュジラ灌漑網、西アフリカ各地の水田普及計画などでは、完成後に巻き貝を
中間宿主とする住血吸虫症が住民の間で激増した。これらは﹁開発原病﹂と呼ばれる。
• ニパウイルス感染症 一九九八年九月から九九年四月にかけて、マレーシアのボルネオ島で日本脳炎によく似た病気が発 生した。患者は高熱、頭痛、筋肉痛、けいれん、昏睡を訴えた。二六五人が発症して一〇五人が死亡
マレーシアで収まった後、今度はシンガポールの食肉処理場で従業員一一人が同様の症状を起こし、
した 。
227 第 8 章 新顔ウイルスの脅威
一人が死亡した。新種のウイルスによるものと断定され、最初に流行した農村の名をとって﹁ニパウ
イルス感染症﹂と命名された。ハシカやオタフクカゼの原因になるパラミクソウイルスの一種だった。
この流行は意外な連鎖で起きた。まず隣国のシンガポール政府が、狭い国土で畜産公害に悩まされ ていたことから、一九八〇年代半ばに国内での養豚を禁止した。このために、マレーシアから大量の
ブタや豚肉を輸入するようになった。マレーシア各地で養豚がブームになり、農村からあふれ出して 森林の奥深くまで養豚場が入り込んでいった。
ところが、この一帯に生息するフルーツコウモリが、ニパウイルスを保有していた。森林の急激な 減少で となる木の実が不足し、コウモリが果実を求めて村にも出没、尿とともにウイルスをばらま いた 。
まずブタが感染した。ウイルスに感染したブタは呼吸器を冒されてカゼのような咳をするようにな り、ブタから人間に感染した。発病者のほぼ全員がブタと接触しており、シンガポールの患者もマ レーシアから輸入したブタを扱っていた業者だった。
当初、日本脳炎と思い込んだ政府は蚊の退治のために殺虫剤を散布し、ブタに脳炎のワクチンを注 射した。そのときに、同じ注射器で多数のブタに接種したために、ちょうど麻薬中毒者が注射器を使
い回してエイズが広がったように、ブタにニパウイルス感染が広がった。流行を阻止するために、政 府は全飼養頭数の四割近い約九一万頭のブタを殺した。
228
家畜がもたらした疫病
この三〇年間、世界的に肉食嗜好が広まって、世界の牛肉消費は約二倍、豚肉は三倍、鶏肉は七倍 にもなった。発展途上地域でも、人口が増え都市化が進むと同時に経済が豊かになり、肉や卵の需要
は 急 増 し て い る。 こ の 需 要 に 応 え る た め に 畜 産 業 が 工 場 化 し、 高 密 度 飼 育 が 進 ん で 食 肉 の 取 引 が グ ローバル化してきた。
だが、身辺では家畜が最大の病原体の運び屋でもある。畜産の効率化は生産コストを下げ、食肉の 大衆化には大きく貢献したが、この陰で危険な飼料生産や超過密の畜舎は病原性ウイルスの培養器と
• 牛海綿状脳症︵BSE︶
化し、新たな感染症の震源にもなった。
この病気の発端は一七三〇年代に る。まずヤギで、ついでヒツジで、足がおぼつかなくなり狂っ たような異常行動を起こして体を柵にこすりつけ︵スクレープ︶、やがて弱って死んでいく。農家は
﹁スクレイピー﹂と呼んでいた。その後、米国の飼育ミンクや野生のシカでもこの病気が現れた。
一九八五年に英国・サリー州のウシが同じ症状を呈し、解剖したところ脳が海綿︵スポンジ︶状に なっていた。はじめは﹁狂牛病﹂と呼ばれ、のちに﹁牛海綿状脳症﹂︵BSE︶と名づけられた。だ
だが、この間にもBSEは増えつづけ、一九九三年には毎週八〇〇頭ものウシの感染が報告される
が、政府はその後一〇年間にわたって﹁牛肉は安全である﹂と主張しつづけた。
229 第 8 章 新顔ウイルスの脅威
までになった。各国でもBSEのウシが見つかり、日本でも二〇〇一年に最初の感染牛が確認された。
二〇〇七年五月末現在、世界二五ヵ国で約一九万頭のウシが感染した。このうちの九八%まで英国で 発生した ︵図❷︶ 。
感染牛の急増と並行して、人間の間でも﹁クロイツフェルト・ヤコブ病﹂︵CJ D︶の患者が増え ていた。普通の生活を送っていた人が、突然にうまく歩けなくなるなどの症状を示し、短期間のうち
に視力や聴力が落ちて言葉が話せなくなり、最後は痴呆状態になって死亡する。一九九三年には、英
国で乳牛農家の二人がCJ Dにかかって死亡した。さらに一五歳の少女も発病した。
それまで、CJ Dは一〇〇万人に一人ぐらいの割合で中高年に見られるか、角膜や硬膜などの移植 後に発症するきわめて稀な病気とされていた。若者の症例が立てつづけに報告され、医学界は衝撃を
受けた。従来型と区別するために﹁変異型CJ D﹂と呼ばれるようになった。
一九九五年を境にして感染者は急増に転じ、二〇〇五年一二月までに変異型CJ Dが原因と確認さ れた死者は一〇九人。推定まで含めると死者は一五三人に達した。BSEショックの波紋は世界に広
がり、牛肉は敬遠されて、魚介類の需要増大 ︵本書第3章︶や大豆飼料への転換 ︵本書第6章︶などさ まざまな混乱を引き起こした。
︵感染性蛋白因子︶という蛋白質だった。 英国で突き止められたBSEの病原体は﹁異常プリオン﹂ ﹁遺伝子をもたない蛋白質﹂が病気を引き起こすという、これまでの常識を根底から覆す感染症だっ
た。まだ、完全に解明されたわけではないが、異常プリオンが、ヒツジからウシへ、さらに人間へと
230
図❷ BSE の発生状況(2005 年まで)
発症したウシの頭数 <5 ≧5 >10 >50 >100 >500 (出典) 国際獣疫事務局(OIE),2005 年。
231 第 8 章 新顔ウイルスの脅威
感染した疑いが濃厚だ。
正常なプリオン蛋白は主に神経細胞膜に存在し、神経細胞の発育などの役割を果たしていると考え られる。何らかの理由で異常プリオン蛋白が体内に取り込まれると、正常な蛋白を連鎖反応的に異常
化させていく。異常プリオンに置き換えられると、神経細胞にさまざまな障害を引き起こす。
一九八八年には英国で の肉骨粉を通して異常プリオンの感染が拡大した疑いが強まり、家畜への 肉骨粉の給 が禁止された。それから一年半後には、一定年齢以上の牛の脳、脊髄などの特定の臓器 の食用が禁止された。
家畜を解体するときに、食肉になる部分を切り取った後の骨や内臓が大量に出る。さらに病死した 家畜なども原料にして、加熱して脂肪を取り除き圧縮乾燥させ粉砕したものが肉骨粉だ。大豆かすや 魚粉など他の蛋白飼料に比べて割安で、家畜の配合飼料に加えられてきた。
英国では、肉骨粉は離乳期の子牛に与える代用乳に添加されていた。これが乳牛に病気を発生させ た最大の原因とされている。BSEが最初に見つかった当時、イギリスでは四〇万トン、欧州共同体
︵現欧州連合︶では二五〇万トンの肉骨粉が生産され、それまでに約四〇ヵ国に輸出されていた。
を汚染したとみられている。この
BSEの震源地となったイギリスでは、肉骨粉製造は当初は高温で熱処理する方法がとられていた。 しかし、一九七〇年代の石油ショックで原油価格が高騰したため、燃料消費の少ない低温処理の方式 に転換した。この結果、もともと熱に強いプリオンが死滅せずに 処理方式の変更とイギリスでのBSEが流行時期と一致する。
232
肉骨粉はある意味では合理的なリサイクルだったが、病原体までもリサイクルする結果になった。 見方を変えれば、草食獣に自然の摂理に反した﹁共食い﹂の肉食を強要したことが、この病気の流行
を招いた。コスト削減の至上主義が、BSEという形で人間に跳ね返ってきたのだ。
• 鳥インフルエンザ 二〇世紀に入って新型インフルエンザの大流行は三回あった。最初は一九一八∼二〇年の﹁スペイ ンかぜ﹂︵H1N1︶で、全人類の半数が感染し、二〇〇〇万∼四〇〇〇万人が死亡したといわれて
きた。だが、近年の調査で発展途上地域が統計に入っていなかったことがわかり、最終的に八〇〇〇
万∼一億人が死亡したとする推定もある。日本でも三八万人が犠牲になった。
二回目は一九五七年の﹁アジアかぜ﹂︵H2N2︶で約一〇〇万人が死亡、最後は一九六八∼六九 年の﹁香港かぜ﹂︵H3N2︶で約七五万人の命を奪った。
び、世界は新たなインフルエンザの流行に脅えている。この新型が﹁鳥インフルエンザ﹂ ふたた* ︵ H 5 N 1 ︶ で あ る。 こ の ウ イ ル ス の 自 然 宿 主 は 野 鳥 だ。 ガ ン・ カ モ 類、 シ ギ・ チ ド リ 類 を は じ め と して、九〇種ほどの野鳥からウイルスが分離されている。
鳥インフルエンザウイルスは、はるか昔からカモなどの野鳥と共生してきたと考えられている。そ のウイルスをもった野鳥がシベリア、カナダ、アラスカなどから、渡り鳥として南に渡ってくる。つ
まり、渡り鳥が運び屋になっているのだ。宿主となるカモは、ウイルスに感染しても発症しない。
233 第 8 章 新顔ウイルスの脅威
ウイルスは鳥の腸内で増殖し、中国南部に渡ってきたカモが狭い池や鶏舎で排せつすると、もとも とカモから家畜化されたアヒルに感染、さらにニワトリやブタにうつる。ブタは鳥と人の両方のイン
フルエンザウイルスに感受性を持ち、ブタの体内で両ウイルスの遺伝子の組み替えが起き、強い病原 性をもった新型ウイルスが生まれるというわけだ。
アジアではこの十数年、﹁畜産革命﹂と呼ばれるほど家畜の生産が急拡大している。国連食糧農業 機関︵FAO︶によると、とりわけニワトリは世界生産の四割を占める約九〇億羽が飼われている。
最近では農家の庭先で飼う小規模養鶏ではなく、数万羽もまとめて飼う工場式養鶏が急激に普及して
いる。これは、自然光や外気がほとんど入らない閉鎖式の鶏舎に、動けないほど多数の鶏を詰め込む もの だ 。
とくに、毒性の強いウイルスは﹁高病原性鳥インフルエンザウイルス﹂と呼ばれている。このウイ ルスがいったん発生すると、またたく間に鶏舎内のニワトリ全体に感染する。そのために、一羽でも
感染すれば鶏舎全体のニワトリを処分しなければならない。これまで世界で二億羽を超えるニワトリ が処 分 さ れ て い る 。
過去一〇〇年間に発生したインフルエンザの世界的流行は、ほとんどが中国南部に起源があったさ れる。今回の鳥インフルエンザ流行の震源地も、中国南部とする説が有力だ。この地域の農家はどこ
でも、人とブタとニワトリやアヒルが同じ場所で一体となって生活している。野鳥も自由に出入りで きる 。
234
しかも、中国や東南アジアなどでは、市場で生きたニワトリを売買するのが普通だ。大量のウイル スを含むニワトリの乾燥したフンを、人が吸い込む危険性は十分にある。衛生状態や管理の良くない 市場、鶏舎、ペットショップなどは、生鳥市場と同じ状況にある。
一九九七年に香港で鳥から鳥へ感染する鳥インフルエンザが発生、二〇〇三年には世界的に広がっ て各地でニワトリの大量処分がつづいた。WHOによると、これまでに西半球とオセアニアを除く世 界五六ヵ国・地域で発生が確認されている ︵図❸︶ 。
ニワトリでの流行を追うように各地で鳥から人への感染が相次ぎ、二〇〇七年一一月末現在一二ヵ 国で三三五人が発症して二〇六人が死亡した。とくに死亡者が多いのはインドネシアで九一人、これ にベトナムの四六人、タイの一七人、中国の一六人がつづく。
人への感染経路は野鳥からではなく、ニワトリからと考えられている。野生動物と違ってニワトリ はつねに人間と接触している。それだけに感染の機会は多い。これまでの発生頻度と経験からみると、
鳥インフルエンザウイルスが変異を起こして﹁ニワトリからヒトへ﹂だけでなく﹁ヒトからヒトへ﹂
と伝染する事態になれば、世界規模でインフルエンザの﹁感染爆発﹂が予想される。
ウイルスが気道粘膜に取り付くと猛スピードで増殖し、感染者の一人が咳やくしゃみをしても、人 間がひしめく都会では多数の人がそのウイルスにさらされる。インフルエンザの潜伏期は非常に短く、
短期間で大流行を引き起こし得る。このウイルスは、都市化した人間社会に適応するように進化して きた の だ 。
235 第 8 章 新顔ウイルスの脅威
図❸ 2003∼07 年 1 月までに鳥インフルエンザ(H5N1)が確認された国
2003 年以降,ヒトおよび家禽に H5N1 感染が確認された国 2003 年以降,家禽を含む鳥に H5N1 感染が確認された国 2003 年以降,家禽以外の鳥に H5N1 感染が確認された国 (出典) 厚生労働省,国際獣疫事務局(OIE)。
236
研究者の間では、ウイルスが変異して﹁ヒトからヒトへ﹂感染するように変わるのは時間の問題、 という声も聞かれる。そのような新型インフルエンザウイルスが出現した場合、最悪の場合には世界
で一五億人が重症となり、五億人が死亡する可能性があるとWHOは発表している。厚生労働省の検
討会資料の予測によると、新型インフルエンザが流行すれば、世界で三〇億人が感染し、六〇〇〇万 人が死亡するという。
*H5N1 鳥インフルエンザウイルスの表面には、二種類のとげ状の蛋白質、HAとNAが存在する。HA 蛋白質は宿主細胞と結合するが、その抗原の違いによりH1∼ の亜型に分けられる。一方、NA蛋白質はウ
イルスが細胞から出てくる際に必要で、N1∼7の亜型に分けられる。これらHAとNAのさまざまな組み合
わせで一三五種のウイルスが存在する。なかでもH5N1がもっとも病原性が高い。
人間が運んだウイルス
人間に近い霊長類は、医学実験に必要でとくに競争が激しい新薬開発には欠かせない。日本では農 林水産省﹁動物検疫年報﹂によると、二〇〇五年に約六〇〇〇頭のサルが中国やベトナムなどから輸
入されている。世界的には年間二∼三万頭が取引されている。その多くは、アフリカとアジアから輸 出さ れ る 。
こうした輸入サルが感染源となって、思いもかけない場所に危険なウイルスをばらまく。人間に近 い だ け に、 ウ イ ル ス も 人 間 に ジ ャ ン プ し や す い。 世 界 的 な ベ ス ト セ ラ ー に な り 映 画 化 も さ れ た リ
237 第 8 章 新顔ウイルスの脅威
15
チャード・プレストンの﹃ホットゾーン﹄︵邦訳は飛鳥新社刊︶は、輸入したサルが逃げ出して凶悪
• マールブルク出血熱
なウイルスが米国社会に侵入する物語だ。
一九六七年八月、旧西ドイツ時代の大学都市マールブルク市内で、ワクチン製造会社で働いている 三人の従業員が、筋肉痛と発熱を訴えマールブルク大学病院に入院した。しだいに症状は重くなり、
最後は﹁あらゆる穴から血があふれ出して﹂もだえ死んだ。日を追うごとに、家族、病院の担当医や 看護師らに広がり、患者は二三人にまで増えた。
同じころ、そこから北に自動車で一時間ほどのフランクフルトにある国立パウル・エーリッヒ研究 所で働く六人が、やはり発病していた。さらに、旧ユーゴスラビアのベオグラードで三ヵ所目の流行 が起き、獣医とその妻が謎の出血熱に苦しんでいた。
結局、一次感染の二五人と二次感染の六人を合わせて三一人が発症し、うち七人が死亡する事態に なり、ニュースは世界を駆け巡った。生き残った人も生涯、肝炎や精神的障害に苦しむことになった。
発病者に共通していたのは、アフリカのウガンダから輸入された実験用のミドリザルに直接間接に 接触していたことだった。サルはウガンダからベオグラードに運ばれ、そこから他の二つの施設に送
り出された。最初の荷がベオグラードに着いたとき、九九頭のサルのうち四九頭が死んでいた。ベオ
グラードの獣医は、この死んだサルを解剖していた。感染した一六人は、サルの腎細胞を使ったポリ
238
オワクチンの研究に関わっていた。
このウイルスは既知のいずれのウイルスとも異なっており、 ﹁マールブルク出血熱ウイルス﹂と名 づけられた。しかし、ミドリザルはこの病気の自然宿主ではなく、ロンドン空港の検疫施設で一緒に
されていたアフリカ産の他の野生動物に自然宿主の動物がいて、それから感染したとする説が有力だ。
多くの研究者がウガンダや近隣国で、徹底的に自然宿主を探した。チンパンジーやゴリラを含めて 多くの霊長類にこのウイルスに感染した証拠が見つかった。今日に至るまでこのウイルスを保有する
自然宿主は見つかっていないが、米国疾病対策センター︵CDC︶などの最近の調査で、オオコウモ リが媒介している疑いが強くなっている。
その後もアフリカ中央部で散発的に発生している。一九九八∼二〇〇〇年にはザイール︵現コンゴ 民主共和国︶の廃鉱で金を探していた人たちの間で集団発生があり、一四九人が感染して一二三人が
死亡した。二〇〇四∼〇五年にアンゴラで三九九人が発症して三三五人が死んだ。死亡率は八割を超
えた。両国は長い内戦で混乱をつづけた最貧国で、医療施設や医師の不足、注射器の使い回しなどが ウイルスを広げたものとみられる。 危険な野生肉
アフリカの大部分の地域では、野生動物を食用にする習慣がある。慢性的な蛋白質の不足はつづい ているが、高価な家畜の肉はめったに口にすることができないため、野生動物を食用のために殺すこ
239 第 8 章 新顔ウイルスの脅威
240
とになる。この肉はブッシュ
ミートと呼ばれている。
ブッシュミートのなかでも、霊長類の取引が﹁巨大産業﹂になって、密猟が急増している。とくに、 大型で肉が多く取れるゴリラとチンパンジーが狙われる。タンザニアで長年チンパンジーの研究や保
アフリカ全域で年間六億頭以上もの野生動物が肉をとるために殺されていると推定する。
ミートの対象となる四一種の大型動物が一九七〇∼九八年の間に七六%も減少したという。WWFは、
自 然 保 護 区 で は、 ブ ッ シ ュ
もなった。ガーナの六ヵ所の
格にして七七〇万ドル相当に
年間八五〇〇キログラム、価
カの七ヵ国の二三ヵ所だけで
ニア、タンザニアなどアフリ
ブッシュミートの取引は、ケ
に発表した報告書によると、
︵W W F ︶ な ど が 二 〇 〇 〇 年
その規模はよくわかってい な い が、 世 界 自 然 保 護 基 金
過去 100 年で 10 分の 1 以下まで減ったチンパンジー (タンザニアのマケレ国立公園で)。
護に取り組む霊長類研究者のジェーン・グドール氏によると、チンパンジーの生息頭数は一九〇〇年
代はじめには二〇〇万頭以上生息していたとみられるが、一九六〇年には一〇〇万頭前後まで減り、 現在では一五万頭ほどになってしまったという。
アフリカには三亜種のゴリラが生息するが、いずれも森林伐採、開墾、密猟などによって生息頭数 は急減している ︵本書第9章︶ 。三亜種を合わせても一〇万頭以下で、もっとも稀少種のマウンテンゴ リラは七〇〇頭以下だ。
アフリカの悲劇は武力紛争の絶えないことだ。村を追われた多数の難民と、辺地で戦う政府・反政 府軍のためにブッシュミートの需要が高まる。コンゴ民主共和国には熱帯雨林が残り、霊長類も数多
く生息している。しかし、内戦によって多くの野生動物が食べられてしまった。
人類にもっとも近いとされるボノボ︵ピグミーチンパンジー︶は、この国にしか生息しない。だが、 生息地のイトゥリ地方が二〇〇二年にコンゴ愛国者連合︵UPC︶による内戦に巻き込まれ、一九八
• 後天性免疫不全症候群︵エイズ︶
〇年には一〇万頭近くを数えていたボノボは今日では一万頭を割ってしまった。
いまや世界の感染病による死亡原因の二番目に躍り出たエイズも、霊長類特有のウイルスが人間に 感染したことが原因だ。遺伝子の配列を比較すると、アフリカ産霊長類が保有する﹁サル免疫不全ウ
イルス﹂︵SIV =セイズウイルス︶と、﹁ヒト免疫不全ウイルス﹂︵HIV =エイズウイルス︶とは
241 第 8 章 新顔ウイルスの脅威
242
近い関係にある。
人間に乗り移った理由は、さまざまな仮説が 提唱されている。そのなかで、﹁地元民がブッ
IVが人間に感染したとされている。
いる。区別するためにHIV Ⅱ −と呼ばれる。 こちらは、スーティマンガベイというサルのS
く似たウイルスが西アフリカを中心に流行して
現在流行しているHIVよりも病原性も感染 力も低いために話題にならないが、HIVによ
間に感染し凶暴化したのがHIVと考えられる。
ルスが、あるときに遺伝子の変異を起こして人
ことなく、熱帯林の奥深くで共存していたウイ
り、チンパンジー自身にはエイズを発症させる
子の九〇%を共有することを突き止めた。つま
ツェゴチンパンジーのSIVが、HIVと遺伝
アラバマ大学のグループは、カメルーンから ガボンにかけて生息するチンパンジーの亜種、
エイズ死者の埋葬場所がなく,トウモロコシ畑が自然発生的に墓地となったが, たちまち満杯になった(ザンビアのルサカの市内で)。
シュミートのためにチンパンジーを殺したり解体したときに、SIVに感染した﹂とする説の支持者 が多 い 。
最古のエイズ発症者は一九五九年まで ることができ、HIVは二〇世紀前半のどこかでチンバン ジーから人間にジャンプしたことが考えられる。ウイルスは性行為を通じて感染を広げていき、一九
八一年にロサンゼルスの男性同性愛者から病気の存在が明るみに出たときには、すでに世界中に広 まっ て い た 。
国連合同エイズ計画︵UNAIDS︶が二〇〇六年一二月に発表した報告書によると、HIV陽性 者数は三九五〇万人、二〇〇六年のエイズによる死者数は二九〇万人にのぼる ︵図❹︶ 。一九九〇年以 降感染者は増えつづけ、四倍以上になった ︵図❺︶ 。
その一方で、専門家の間では﹁新たなエイズ﹂の悪夢が語られている。米国とフランスの研究チー ムは、カメルーンで捕獲した霊長類から、人間にとって危険になり得るウイルスを多数発見した。食
用として殺されたり、あるいはペットとして飼われているサル七八八頭の血液を分析した結果、一六
種のサルのうち三種類を除く全頭数の約二〇%が、それぞれの種固有のSIVに感染していた。新種
二 〇 〇 二 年 一 一 月 に は、 最 初 の S A R S 患 者 が 広 東 深 圳 市 で は 出 て い た ら し い。 ベ ス ト セ ラ ー に
• 重症急性呼吸器症候群︵SARS︶
*
のSIVも四種類見つかった。彼らも﹁予備軍﹂の資格は十分にある。
243 第 8 章 新顔ウイルスの脅威
図❹ 2006 年末の大陸別エイズ感染者数
北米 140 カリブ海 25
南米 170
西・中央ヨーロッパ 74
北アフリカ 46
南・東南アジア 780
世界:3958.1 万人
(単位:万人)
オセアニア 8.1
東ヨーロッパ・中央アジア 170 東アジア 75
サハラ以南 アフリカ 2470
(出典) 国連エイズ合同計画(AIDS Epidemic Update, 2006)より作成。
244
図❺ 世界のエイズ感染者数(推定)の推移(1990∼2006 年) (100 万人) 50
40
30
3950 万人 20
10
1990 91 92 93 94 95 96 97 98 99 2000 01 02 03 04 05 06 年 0
(出典) 国連合同エイズ計画(AIDS Epidemic Update, 2006) 。
なった元米国タイム誌の記者カール・タロウ・グリーン
フェルドが、二〇〇六年に出版したSARSのドキュメ
ンタリー﹃史上最悪のウイルス﹄︵邦訳・文藝春秋社刊︶ にそのいきさつが詳しい。
経済ブームにわく深圳市に、奥地から多くの若者が出 稼ぎのために集まってきた。ゲテモノ食いのグルメで知
られる広東省には、野生動物の肉﹁野味﹂を食べる習慣
が根づいており、 ﹁野味市場﹂にはヘビ、トカゲ、サル、
アザラシ、イタチ、ネズミ、センザンコウなどさまざま
な生きた動物やその肉が売られている。
地方から出稼ぎにきて、野味市場やこうした動物の肉 を調理して出す料理店に職を見つけた若者の間で、まず
この病気が出現したらしい。動物を解体するときに、咬
まれたり血を浴びて、動物の保有していたウイルスに感
染したのだ。発病すると、高熱、咳、呼吸困難などの症
状を訴え、衰弱して死んでいった。
SARSが世界的に知られるようになったのは二〇〇
245 第 8 章 新顔ウイルスの脅威
246
三年二月のことだ。そのころ、広州では感染者
は五〇〇人、死亡者は五〇人を超えていた。上
海と香港を経由してハノイに到着した中国系米
国人のビジネスマンが、原因不明の重症の呼吸
器病でハノイの病院に入院、その後香港の病院
に移送されたが原因不明のままに死亡した。そ
の後、彼が入院したハノイの病院では、病院職
員数十人が同じ症状を示し、また緊急移送され
た香港の病院でも、治療にあたった医師や看護
師が発病して死者がでた。
その医師は具合が悪くなり病院に運ばれたが、 客室のトイレで吐いたものや排泄物が床や壁に
かけ、市内のホテルに宿泊した。
RSに感染していることに気づかずに香港に出
治療にあたっていた中国人医師が、自分がSA
一方、同じころ香港でも意外な経路から感染 が広がっていた。広東省広州市の病院で肺炎の
世界一のゲテモノ食いといわれる広州の「野味市場」では,多種の野生動物が 売られている(広州のヘビ専門店で)。
飛び散っていた。この客室を清掃したホテル従業員が、同じ器具で別室を清掃したためにウイルスが
広がり、宿泊していたシンガポール人、カナダ人、ベトナム人ら一六人が二次感染した。さらに、彼
らがウイルスをそれぞれの国に持ち帰ったために海外へと感染が広がっていった。
その中国人医師の入院した香港の病院では、あっという間に五〇人を超える医師や看護師が同じ症 状で倒れて、病院の機能はマヒしてしまった。さらに、同じ病院に入院していた男性が弟の住む市内
の高層マンションを訪ねたために、そこに住む三二一人が感染した。香港当局によると、マンション
ションの下水管の不備で、その男性の飛沫︵糞沫︶に含まれていたウイルスが、トイレの換気扇に吸 い上げられてマンション内に拡散した可能性が高いという。
感染者は世界的に広がっていたのにもかかわらず、中国政府がWHOに発生を報告したのは、最初 の発症者が見つかってから三ヵ月後だった。この間、国家をあげて積極的にその隠 をはかり、報道
を規制した。しかし、医療機関の内部告発もあり、メディアで取り上げられて中国政府も公開に踏み
切らざるを得なくなった。情報を早期に開示していれば、世界的な流行もかなり防げたはずという批 判も 高 ま っ た 。
WHOは二〇〇三年三月にSARSの発生をつかんで、やっと国際的な活動がはじまった。病原体 は新型のコロナウイルスであることが判明、SARSウイルスと命名された。強い病原性と医療関係
者への感染は、世界中を恐怖に陥れた。二〇〇三年三月一二日、WHOは世界規模の警報を出した。
すでに、流行は中国の広東省、山西省からトロント︵カナダ︶、シンガポール、ハノイ、香港、台湾
247 第 8 章 新顔ウイルスの脅威
に広 が っ て い た 。
国際協力によって病気の封じ込めに成功して、七月五日に終息宣言が発表された。WHOによると、 終息までに二七ヵ国・地域に拡大し、八〇九六人の患者が発生して七七四人が死亡した。死亡率は一
四∼一五%と推計された。とくに、イラク戦争と重なり、航空機の利用者やアジアへの旅行者が激減
して、経済的にも大きな打撃を受けた。SARSは、かつてないほどに急拡大した人の移動が、思わ ぬ形で感染を広げる教訓となった ︵図❻︶ 。
広東省の野味市場で売られていたハクビシンとタヌキから、原因のコロナウイルスが分離され、ま たは抗体反応が出た。このほか、市場で食用に売られていたアカゲザル、ヘビ、ネコ、イヌなどで感 染した証拠が挙がっている。
だが、既知のどのウイルスとも遺伝子構造が大きく異なる新しいものだった。自然宿主は市場で売 られていた動物ではなく、捕獲後の移動中か市場で未知の野生動物から感染した可能性が高かった。
オーストラリアと香港の科学者グループは、キクガシラコウモリから高いレベルのウイルス抗体を検 出し、コウモリが自然宿主であると発表した。
こうした食習慣だけでなく、世界的なペットブームによって野生生物と人間の接触が増えている。 日本だけでなく、中国などの発展途上地域でもペットブームが過熱している。ペットショップには世
界中から集められた動物が数多く雑居状態で売られている。このような環境では、自然界では起こら
ない動物種間の接触で、SARSを引き起こした未知のウイルス感染が広がるおそれは十分にある。
248
フランス (7)
カナダ(251)
図❻ 主な国の SARS 発症件数(2003 年 7 月時点の推計)
米国(27)
ドイツ (9)
(出典) WHO Summary of probable SARS cases with onset of illness, July, 2000.
ロシア (1)
タイ (9)
シンガポール (5)
ベトナム(63)
中国(5327)
台湾(346)
香港(1755)
フィリピン(14)
249 第 8 章 新顔ウイルスの脅威
* の 略。 日 本 で は﹁ 重 症 急 性 呼 吸 器 症 候 群 ﹂ 、あるいは新型 Severe Acute Respiratory Syndrome S AR S 肺炎とも呼ばれている。
温暖化と病気
近年、加速している地球温暖化の進行がエマージングウイルス流行の原因になっているのではない か、とする不安も広がっている。こうしたウイルスの七割までが熱帯地方に起源があり、高温多湿の
熱帯性気候が、ウイルスの温床になっていると考えられるからだ。温暖化によって、そうしたウイル スが分布を広げる危険性は十分にある。
ハーバード大学医学部﹁保健・地球環境センター﹂の副部長、ポール・エプスタイン教授は﹁近年 の温暖化現象がハンタウイルス肺症候群や西ナイル熱を蔓延させる原因の一つであるという確かな証 拠がある﹂としている。
蚊は水たまりがあって比較的高い温度でなければ繁殖できない。気温、湿度の上昇とともに蚊が繁 殖できる地域が拡大し、それがさらにこの種のウイルスを急速に蔓延させることにもつながる。同じ ように病気を媒介するげっ歯類も、温暖化で繁殖しやすくなっている。
すでに、熱帯病のマラリア、黄熱、デング熱、セントルイス脳炎などが、温暖化とともに分布を広 げているという報告が相次いでいる。ブリュッセルで二〇〇七年四月に開催された﹁気候変動に関す
る 政 府 間 パ ネ ル︵I P C C ︶﹂ の 第 二 作 業 部 会 が 発 表 し た 報 告 書 に よ る と、 二 一 世 紀 末 ま で に 最 大
250
中南米
1976/1995 年 エボラ出血熱 血液などから感 染。吐血を繰り 返し,8 割が死 亡。1976 年スー ダンで初流行, 95 年に隣国ザイ ールで多発
スーダン
1999 年・西ナイル熱 蚊を通じて感染。1%が 重症に。うち 3∼15%が 死亡。1937 年東アフリ カで確認,99 年米国に 飛び火
米国
図❼ 20 世紀後半に世界で発見された主な感染症 米国 1981 年・エイズ 性行為などで感染。約 10 年後に免疫が働かな くなりさまざまな感染 症を併発。1981 年に米 国で初の症例
北米
米国 1989 年・C 型肝炎 血液などから感染。 肝硬変や肝がんに進 みやすい。ウイルス は 1989 年に米国で 分離 (出典) 『読売年鑑』2004 年。
英国 1985 年・BSE
旧ソ連・東欧
変性した異常プリオンと いう蛋白質が病原体。脳 組織が萎縮するウシの病 気。人間に感染の恐れも
西欧 中東・北アフリカ アジア 740
マレーシア マレーシア 1998 年・ ニパウイルス 感染症 1998 年,マレー シアの養豚業者 などに流行。重 症例では 1 ヵ月 以内に死亡
中国
2002 年・SARS くしゃみなどで感染。 約 15%が死亡。2002 年 11 月に広東省で発 生,03 年には世界で 8000 人以上が感染
日本
1996 年・大腸菌 O157
香港
食品や水から感染。 1982 年に米国ではじめ て確認。日本では 96 年 に 1 万人以上の患者
オセアニア
1997 年・鳥イ ンフルエンザ 香港で 1997 年, 人間への感染を はじめて確認。6 人が死亡。2003 年 2 月には香港 で 1 人が死亡
251 第 8 章 新顔ウイルスの脅威
六・四度上昇する可能性があるという。
もしも、そうなると社会も生態系が大混乱に陥るだけでなく、思いもかけなかった熱帯の伝染病が 出現することも警戒しなければならない。
• 西ナイル熱 一九九九年八月、ニューヨーク市のクィーンズ地区に熱帯病の西ナイル熱が突如として現れ、六二 人が発病して七人が亡くなった。同時に、カラスなどの鳥類やウマの死亡も報告され、米国民はパ
ニックに陥った。その後、感染は爆発的に拡大して、二〇〇二年には三九州と首都ワシントンで四一
五六人感染者を出すまでになった。二〇〇六年末までに全米四五州と首都に広がり、感染者は約二万 四〇〇〇人、死者は約八〇〇人に達した。
このウイルスに感染しても、八割ほどの人は症状が出ない。しかし、残りは突然の高熱、頭痛、筋 肉痛、関節痛などの症状を示し、一四〇∼一五〇人に一人の割合で脳炎や髄膜炎を起こして死亡する。 六五歳以上の高齢者の死亡率は五〇人に一人と高い。
もともとはアフリカ東部の病気で、野鳥が保有するウイルスが原因だった。ウガンダ北西部の西ナ イル地方で、一九三七年にはじめて患者が見つかったためにこの名がついた。その後は、ヨーロッパ、
一九九〇年代以降に集団感染が報告されたのは、米国以外にアルジェリア、イスラエル、カナダ、
西アジア、中東、オセアニアなどで人、鳥類や脊椎動物でもウイルスが発見されている。
252
コンゴ民主共和国︵旧ザイール︶、チェコ、ルーマニア、ロシアなど。日本では、二〇〇五年九月に
ロサンゼルスから帰国した三〇歳代の男性会社員が、国内初の西ナイル熱患者と診断された。
日本には米国本土から毎日約五〇便前後の定期便が飛んでくる。厚生労働省の調査では国際便の機 内で蚊が見つかった例もある。一方、農林水産省の統計では毎年、世界各地から三〇万羽もの鳥が、
検疫のないままに輸入されている。ウイルスがいつ日本に侵入してもおかしくない状況だ。
西ナイル熱ウイルスは、日本脳炎など各種の脳炎を起こすフラビウイルスの仲間だ。鳥から吸血す る蚊がウイルスを運び、それに刺されることで人間や他の動物に感染する。米国で感染が確認された 鳥類はカラス、アオカケス、イエスズメなど二二〇種類以上に及ぶ。
なぜこの大都市に侵入したかは謎だ。アフリカから輸入した鳥のペットや、蚊によって運ばれてき たとも考えられている。都会には、捨てた空き缶や空きビン、古タイヤ、よどんだドブなど、水がた
まって蚊が発生しやすい環境がいくらでもある。大都市は温暖化に加えてヒートアイランド現象で気
温が高くなり、蚊の温床になったとみられる。米国で報告された初期の患者の発症日は、夏の七月中
旬から九月上旬にかけてピークがあった。だが、近年は六月や一二月にも発生するようになった。
﹃世界を脅かす感染症とどう闘うか﹄別冊日経サイエンス編集部編、日経サイエンス、二〇〇三年
︻参考文献︼
│
迫りくる病原体の恐怖︵上・下︶﹄ローリー・ギャレット︵山内一也監訳︶、河出書
﹃ウイルスと人間﹄山内一也、岩波書店、二〇〇五年 ﹃ カ ミ ン グ・ プ レ イ グ
253 第 8 章 新顔ウイルスの脅威
│
房新社、二〇〇〇年
そいつは、中国奥地から世界に広がる︵上・下︶﹂カール・タロウ・グリーンフェル
ド︵山田耕介訳︶、文藝春秋、二〇〇七年
﹃史上最悪のウイルス
│
BSE感染の恐怖﹄フィリップ・ヤム︵長野敬・後藤貞夫訳︶、青土社、二〇〇六年
﹃グレート・インフルエンザ﹄ジョン・バリー︵平澤正夫訳︶、共同通信社、二〇〇五年 ﹃狂牛病とプリオン
﹃ホット・ゾーン﹄新装版、リチャード・プレストン︵高見浩訳︶、飛鳥新社、一九九五年
254
相変わらず密猟の絶えないマウンテンゴリラ (ルワンダのビルンガ火山群国立公園で)
動物たちの黙示録
9
六回目の大量絶滅時代 第
章
地球上に多細胞生物が現れて以来、これまでに少なくても五回の動植物の大量絶滅があったことが わかっている。大量絶滅とは、ある時期に多種類の生物が同時に絶滅することだ。隕石の衝突や火山
の巨大噴火によって引き起こされた気候の激変など、地球の大異変が原因だ。その五回目が約六五〇
〇万前の白亜紀末。恐竜が突如として姿を消し、代わって哺乳動物が地球の支配者として登場した。
四万∼二万年前ごろから、大型動物の急激な絶滅が世界の各地で目立ってきた。六回目の大量絶滅 時代に突入した、と考える生物学者が多い。アフリカに誕生した私たちの直系の祖先が、約六∼七万
年前から地球全域に拡散しはじめた時期と奇妙にも一致する。人類が新たな土地に進出すると間もな
く、その周辺からマンモス、ケブカサイ、オオイノシシ、オオナマケモノといった大型哺乳動物が姿 を消 し て い っ た 。
たとえば、北米大陸では一万五〇〇〇∼一万二〇〇〇年前に、人類がユーラシア大陸からベーリン グ地峡︵現在は海峡︶をわたってきて間もなく、体重が五〇キロを超える草食獣の七割が絶滅した。
こ の 原 因 は、 氷 期 末 の 気 候 の 変 動 に 理 由 を 求 め る 意 見 が 大 勢 だ っ た が、 近 年 に な っ て 人 類 の 祖 先 に よって狩り尽くされたとする説も有力になっている。
歴史時代に入っても野生生物の絶滅はつづく。一六世紀以降、大航海時代を経て欧州の列強が全世 界に植民地を拡大していくのに従って、狩猟や開発の圧力によって絶滅種のリストに入る動物も一段
と増えていった。一六〇〇∼一九九四年の間に三四二種の動物と三八四種の植物が絶滅した。それ以
前の絶滅の速度に比べて哺乳動物では数千倍、鳥類で数百倍にもなる。この大部分は、過去一五〇年
256
間に 起 き た も の だ 。
とくに二〇世紀半ば以降、過去のどの時代よりも絶滅の速度が加速している。﹁生物多様性﹂の概 念を打ち出したハーバード大学のエドワード・ウィルソン教授は﹁人類が引き起こした生物圏の破壊
によって、今後一〇〇年間の間に地球上の生物種の半数が絶滅するのではないか﹂と警告するほどだ。
原 因 は 地 球 の 異 変 で は な く、 地 球 が 産 み 落 と し た 人 類 と い う 一 種 類 の 動 物 の 異 常 な 増 殖 と 繁 栄 に よって、次々と野生生物が絶滅やその寸前に追いやられているのだ。その絶滅は巨大化する人類の活
動を映す鏡であり、生物の生存環境がここまで悪化したことは、同じ生物である人類への警告でもあ る。 レッドデータブック
国際自然保護連合︵IUCN︶が作成している﹁レッドデータブック﹂︵RDB︶は、絶滅のおそ れのある野生生物のリストである。一九六六年から順次公表され、報告書の表紙が赤いことからこう
呼ばれるようになった。絶滅の危険度に応じてランク分けされている ︵表①︶ 。RDBに準じて、各国
政府や自治体、学会、環境保護団体なども、地域別、分類群別にこれに類したリストを作成している。
どれをとっても、版を重ねるごとにリストは長くなり、しかも身辺の生き物に及んできた。
︵CR︶ 、 ﹁絶滅危惧種﹂ ︵EN︶ 、 二〇〇六年版のRDBによると、動植物を合わせて﹁近絶滅種﹂ ﹁危急種﹂ ︵VU︶の三ランクをひっくるめた﹁絶滅危機種﹂は、動物で七七二五種 ︵表②︶ 、植物で八
257 第 9 章 動物たちの黙示録
表① IUCN レッドリストの危険カテゴリー
絶滅 (絶滅種)
すでに絶滅したと考えられる EW
野生絶滅 (野生絶滅種)
飼育・栽培下などでのみ生存 CR
絶滅危惧ⅠA 類 ごく近い将来,野生での絶滅の (近絶滅種) 危険性がきわめて高い
判定するだけの情報が不足
CR ほどではないが,近い将来, 野生での絶滅の危険性が高い VU
絶滅危惧Ⅱ類 (危急種)
絶滅の危険が増大。近い将来,CR, EN のランクへの移行が確実 NT
準絶滅危惧 存続基盤が脆弱 (準絶滅危惧種) DD
情報不足 (情報不足種) 低
絶滅危惧ⅠB 類 (絶滅危惧種) 絶滅 危機種 EN 危 険 度
EX 高
カテゴリの略称 和名 (WWF での呼称)
(出典) IUCN レッドリスト,2006 年。
三九〇種 ︵表③︶ 、その他を合わせて総計一万六一
一八種にもなる。二〇〇六∼〇六年に動物で一・
三倍、植物で一・五倍にも増えた。
絶滅︵EX︶した種も、哺乳類で七四種、鳥類 では一三九種、両生類では三五種、魚類では九三
種を数える。絶滅危機種の、評価の対象とした種
に対する割合は、もっとも高いのが爬虫類で五一
%、ついで魚類の四〇%、両生類の三一%、哺乳
類での二三%とつづく ︵表②︶ 。つまり、爬虫類は
二種に一種、魚類は五種に二種、哺乳類のほぼ四
種に一種は危機的な状況にある。
植物では八三九〇種が﹁絶滅危機種﹂に入って いる。評価種数が少ないので、全体像はわからな
い が、 評 価 種 数 の 七 割 以 上 が 絶 滅 の 危 機 に あ る 。 ︵表③︶
リストのなかには、動物園でなじみの深いほと んどの大型獣が入っている。霊長類については、
258
表② 分類群別にみた世界の絶滅のおそれのある動物種数の割合
分類群
脊椎動物
哺乳類 鳥 類 爬虫類 両生類 魚 類
無脊椎動物
昆虫類 軟体動物 甲殻類 その他
既知種数
5,416 9,934 8,240 5,918 29,300
小 計
絶滅危 絶滅危 絶滅危 絶滅危 絶滅危 評価種 既知種 評価 機種数 機種数 機種数 機種数 機種数 に対す に対す 種数 る割合 る割合 (2006年) 2000年 2002年 2003年 2004年 2006年(2006年) 4,856 1,130 1,137 1,130 1,101 1,093 9,934 1,183 1,192 1,194 1,213 1,206 664 296 293 293 304 341 5,918 146 157 157 1,770 1,811 2,914 752 742 750 800 1,173
23% 12% 51% 31% 40%
58,808 24,286 3,507 3,521 3,524 5,188 5,624
23%
10%
52% 45% 85% 51%
0.07% 1.39% 1.15% 0.03%
950,000 70,000 40,000 130,200
1,192 2,163 537 86
555 938 408 27
557 939 409 27
553 967 409 30
559 974 429 30
623 975 459 44
20% 12% 4% 31% 4%
小 計
1,190,200
3,978 1,928 1,932 1,959 1,992 2,101
53% 0.18%
合 計
1,249,008 28,264 5,435 5,453 5,483 7,180 7,725
27% 0.62%
全六三八種のうち一九五種、つまり
約三割が﹁近絶滅種﹂に指定されて
絶滅の瀬戸際にある。国際霊長類学
会は緊急の保護を呼びかけている。
生 息 地 を 開 発 で 奪 わ れ、 ブ ッ シ ュ
ミートや実験動物として乱獲された
結果である ︵本書第8章︶ 。とくに、
ゴリラ三亜種、チンパンジー二種、
オランウータン一種のすべての類人
259 第 9 章 動物たちの黙示録
猿が絶滅の危機に瀕している。
ラの六割が生息するルワンダのビル
ンガ国立公園から、世界に悲報が伝
えられた。四頭のゴリラの惨殺体が
見つかったのだ。この年に入って計
七頭が殺された。犯人はこの一帯で
二〇〇七年七月には、約七〇〇頭 しか生存していないマウンテンゴリ
(注) 1) 絶滅のおそれのある種は,絶滅危惧ⅠA 類(CR),絶滅危惧ⅠB 類(EN) ,絶 滅危惧Ⅱ類(VU)を含む。 2) 既知種数に対して絶滅の現状評価をした種数の割合は,哺乳類 89%; 鳥類 100%; 爬虫類 8%; 両生類 100%; 魚類 10% 以下; 昆虫類 0.1%; 軟体動物 3%; 甲殻類 1.3%; その他の無脊椎動物 0.1%以下(割合は UN EP-WCMC のデータ,SSC の種データベース,SSC の専門家グループのデー タをもとに計算したもの)。 (出典) レッドリスト,2006 年(IUCN 日本委員会ホームページから) 。
表③ 分類群別にみた世界の絶滅のおそれのある植物種数の割合
分類群
既知 種数
地衣類 菌 類
絶滅危 機種数
絶滅危 機種数
絶滅危 絶滅危 絶滅危 評価種 機種数 機種数 機種数 に対す る割合 2003年 2004年 2006年 (2004年)
2000年
2002年
93 210 907 9,473 1,141
80 -141 5,099 291
80 -142 5,202 290
80 111 304 5,768 511
80 140 305 7,025 771
80 139 306 7,086 779
86% 67% 34% 74% 68%
287,655
11,824
5,611
5,714
6,774
8,321
8,390
70%
10,000 16,000
2 1
---
---
2 --
2 --
コケ類 15,000 シダ植物 13,025 裸子植物 980 双子葉植物 199,350 単子葉植物 59,300 小 計
評価 種数
小 計
26,000
3
--
--
2
2
合 計
313,655
11,827
5,611
5,714
6,776
8,323
2 100% 1 100% 3 100% 8,393
71%
(注) 1) 種数に亜種・変種は含まれていない。 2) 絶滅のおそれのある種は,絶滅危惧ⅠA 類(CR),絶滅危惧ⅠB 類(EN) ,絶 滅危惧Ⅱ類(VU)を含む。 3) 既知種数に対して絶滅の現状評価をした種数の割合は,コケ類 1% 以下;シ ダ植物 1%;裸子植物 92%; 双子葉植物 4% 以下;単子葉植物 2% 以下(割合は UNEP-WCMC のデータ,SSC の種データベース,SSC の専門家グループのデー タをもとに計算したもの)。 4) 1997 年版の掲載種は現行のカテゴリーを使用していないため,2000 年版お よび 2002 年版には含まれていない。 (出典) レッドリスト,2006 年(IUCN 日本委員会ホームページから) 。
盗伐しては木炭を焼いている難民と
みられる。
一九九四年のルワンダ内戦に端を 発して周辺九ヵ国を巻き込み、四〇
〇万人を超える死者がでた﹁アフリ
カ世界大戦﹂で、八〇〇〇人もの難
民がゴリラのすむ森林に入り込んだ。
彼らは生きていくために年間三〇〇
〇万ドルの規模と環境保護団体が推
定している木炭を製造し、それを取
り締まるレンジャーとの間で熾烈な
﹁ 戦 争 ﹂ が つ づ い て い る。 一 九 九 四
年以来一二〇人ものレンジャーが殺
された。今回は、海外の自然保護団
体からの支援で取り締まりを強化し
た報復として、ゴリラを殺害したと
みられる。
260
サイは角が漢方薬や装飾品の材料として乱獲された結果、五種すべてが絶滅の淵に立たされ、ジャ ワサイ、クロサイ、スマトラサイの三種が近絶滅種に指定されている。生き残っている全個体数を合
わせても一万五〇〇〇頭を割ったとみられている。なかでも、ジャワサイは七〇頭以下と推定され、
IUCNは地球上で最少の大型哺乳類としている。密猟を防ぐために角を切り落とす保護策がとられ てい る 。
アフリカゾウは、アフリカの三七ヵ国に生息している。だが、生息地が狭められてじわじわと追い 詰められている。一九世紀はじめにはアフリカ全土で少なくても三〇〇万頭が生息していたとみられ る。
一九七〇年代後半以後、アフリカ各地で内戦や軍事クーデターが激化するとともに、米ソの援助で 大量の火器が流れ込んで、各地で密猟が組織化され大規模化した。一九八〇年代の一〇年間だけで約
一三二万頭から約六二万頭へと半減した。最新の調査では約四八万頭と推定される。さまざまな規制
や保護策にかかわらず、年間一万二〇〇〇頭ものゾウが象牙目的に殺されている。日本は一時期、印
鑑の材料にするため最大の象牙の輸入国となり、結果的にこの激減に手を貸した。
一方のアジアゾウは、アジアの七ヵ国に生息しているが、アフリカゾウ以上の危機にある。個体数 は三万五〇〇〇∼五万頭程度にまで減った。とくに、独自の進化を遂げた亜種のボルネオゾウは、I
UCNは生き残っているのは一〇〇〇∼二五〇〇頭と推定している。ゾウは開発で生息域が狭められ
るにつれて、農地を荒らしたり住民の水場を占拠するようになって、アフリカでもアジアでも住民と
261 第 9 章 動物たちの黙示録
絶滅が心配されるクロサイ(ケニアのマサイマラ自然保護区で) (上)と 南アフリカから移入したシロサイ(ケニアのナクル湖国立公園で) (下)。 いずれも角を狙った密猟で激減している。
262
の摩擦が急増して殺害されている。
大型ネコ科の動物は美しい毛皮ゆえに密猟が絶えず、生息地の森林破壊が加わって、どの種をとっ ても急激に数を減らしている。八亜種いるトラはすでに三亜種が絶滅し、残された五亜種の合計は五
〇〇〇頭を割り込んだ。今では動物園やサーカスで飼われている頭数のほうが、野生よりも多くなっ てし ま っ た 。
八〇〇平方キロにおよぶインド・ラジャスタン州のサリスカ国立公園は、ベンガルトラの代表的な 生息地だった。一九七九年には、故ガンジー首相の肝いりでトラ保護キャンペーンの﹁プロジェク
ト・タイガー﹂がはじめられたことでも知られる。ところが、インド政府は二〇〇四年一〇月、トラ の全滅を宣言した。密猟の横行が原因だった。
ヒョウは世界で一〇亜種︵うち一種は絶滅︶の全種がリストに入っている。なかでも、ロシア科学 アカデミーが二〇〇七年四月に発表した報告書では、ロシアの極東地域に生息するアムールヒョウは
三四頭にまで減ってしまった。ロシア政府は、東シベリア石油パイプラインの最終部分がこの生息地 を横切るために、敷設ルートと石油積み出し港を変更した。
鳥類でもペンギン類は一七種︵または一八種︶のうちの一一種、オウム類は三八八種のうち五二種 が絶滅危機種に入れられている。
日本のレッドデータブックは、一九九一年から﹁日本の絶滅のおそれのある野生生物﹂として環境 省から発表され、一九九五年からは新たな評価基準で見直し、﹁改訂・日本の絶滅のおそれのある野
263 第 9 章 動物たちの黙示録
表④ 日本の絶滅のおそれのある野生生物 (1) 環境省のレッドデータブックにみる絶滅のおそれのある動植物種の数 評価対象 絶滅 総種数(a) EX
分類群
絶滅危 野生 準絶滅 機種 絶滅 危惧種 CR+EN EW NT +VU(b) 0 48 16 1 90 16 0 18 9 0 14 5 0 76 12 0 139 161 0 251 206 1 33 31
情報 (b/a) 不足 % DD
4 13 0 0 3 2 25 0
動物小計
47
2
669
456
223
--
20 0 5 3 27
5 0 1 0 1
1,665 180 41 45 63
145 4 24 17 0
52 54 0 17 0
23.8 10.0 0.7 4.5 0.4
植物等小計
55
7
1,994
190
123
--
動物・植物等合計
102
9
2,663
646
346
--
動 物
哺乳類 約 200 約 700 鳥 類 爬虫類 97 両生類 64 約 300 汽水・淡水魚類 昆虫類 約 30,000 陸・淡水産貝類 約 1,000 クモ類・甲殻類等 約 4,200
植物等
維管束植物 蘚苔類 藻 類 地衣類 菌 類
約 7,000 約 1,800 約 5,500 約 1,000 約 16,500
9 15 1 0 5 88 69 36
24.0 12.9 18.6 21.9 25.3 0.5 25.1 0.8
(注) 種数には亜種・変種を含む。 (出典) 環境省『新・生物多様性 国家戦略』2002 年(IUCN 日本委員会ホームページ より)。
(2) 日本自然保護協会および環境省のレッドデータブックにみる絶滅のおそれ のある植物種の数の変化(2000 年と 1989 年) 維管束植物
蘚苔類
藻類
地衣類
菌類
0 0
5 1
3 0
27 1
55 7
180
41
45
63
1,994
20 (35) 絶滅 EX 5 野生絶滅 EW 絶滅危機種 1,665 (824) CR+EN+VU
絶滅危惧1類 CR+EN 絶滅危惧2類 VU
準絶滅危惧種 NT 情報不足 DD 計
1,044 (146)
110
35
22
53
621 (678)
70
6
23
10
145 52(36) 1,887
計
1,264 730
4 54
24 0
17 17
---
190 123
238
71
82
91
2,369
(注) ( )は「我が国における保護上重要な植物種の現状」(NACS-J 1989)からの分 類群数。旧カテゴリーを使用しているため,あくまで参考数値。 (出典) 環境省『改訂・日本の絶滅のおそれのあるレッドデータブック植物Ⅰ,Ⅱ』 2000 年をもとに作成(IUCN 日本委員会ホームページより)。
264
│
生生物
レッドデータブック﹂︵表④︶として出版されている。IUCNとカテゴリーの呼称は異な
るが、同じ方式を踏襲している。これまで﹁哺乳類﹂﹁鳥類﹂﹁昆虫類﹂ ﹁維管束植物﹂というように、 分類群ごとに全一〇冊が刊行されている。
それによると、日本の絶滅種は、二種のオオカミを含む哺乳類四種、カンムリツクシガモ、ミヤコ ショウビンなどの鳥類一三種、陸・淡水貝類二五種など動物で総計四七種。植物では高等植物︵維管 束植物︶二〇種、藻類五種、菌類二七種など五五種を数える ︵表④︶ 。
リストに入った﹁絶滅危惧﹂︵ⅠA類・ⅠB類・Ⅱ類︶は、動物で六六九種、植物で一九九四種。 哺乳類では二四%、鳥類で一三%、陸・淡水貝類で二五%、高等植物では二四%が絶滅の危機にある。 哺乳類と高等植物では四種に一種近くが、絶滅寸前まで追い込まれている。
この絶滅危惧のリストには、哺乳類ではツシマヤマネコ、オガサワラオオコウモリなど、鳥類では シマフクロウ、ノグチゲラ、ヤンバルクイナなど、魚類ではミヤコタナゴ、リュウキュウアユ、メダ カなどが入っている。
環境省は全面的なリスト見直し作業を進めており、二〇〇七年八月にはその一部の見直しを発表し た。新たにジュゴンが絶滅の危険がもっとも高い絶滅危惧ⅠA類に分類された。国内では沖縄本島周
辺だけに五〇頭以下しか生息していないとみられる。哺乳類では他にイリオモテヤマネコやラッコの
危険度も最高に引き上げられた。淡水魚類では、琵琶湖のニゴロブナやゲンゴロウブナが、ブラック
バスなど外来種の影響などで数が減り、絶滅危惧ⅠB類になった。これで、絶滅のおそれがある種は
265 第 9 章 動物たちの黙示録
暫定的に計三一五五種となった。 沈黙の春
。レイチェル・カーソンの ﹁自然は沈黙した。うす気味悪い。鳥たちはどこへ行ってしまったのか﹂ ﹃沈黙の春﹄の一節である。筆者は子どものころからバードウォッチングが趣味だったが、春になっ てさっぱり鳴き声を聞かない鳥が、信じられないほどの勢いで増えている。
薄暗い林間から﹁ツキ・ヒ・ホシ﹂と聞こえるサンコウチョウの歯切れのよいさえずり。ちなみに この鳥はサッカーの﹁J 1ジュビロ磐田﹂のエンブレムにもなっている。三つの光からこの名がつい
た。谷底から﹁ヒョロロロ﹂と響くアカショウビン独特の声。 ﹁ヒーリーリ﹂と、山椒の実をかんだ
らこう叫びそうなサンショウクイ。青葉のころ戻ってきて﹁仏・法・僧﹂と鳴くアオバズク。深夜に
林の奥から一本調子で﹁キョキョキョキョ﹂と聞こえてくるヨタカ⋮⋮こうした多くの鳴き声を、何 年も 聞 い て い な い 。
いずれも、東南アジアから春になるとわたってくる夏鳥たちだ。筆者の周辺の年季の入ったバード ウォッチャーも、一九八〇年代に入って夏鳥が急に減ってきた、とほぼ同じ感想を抱いている。東南
アジアで越冬し、春から初夏にかけて日本にわたってきて繁殖する﹁夏鳥﹂は、ツバメ、カッコウ、 ホトトギスなど約五〇種いる。
たとえば、スマトラや中国南部で越冬して夏鳥として日本に戻ってくるサンコウチョウは一九七〇
266
年ごろまでは、丘陵地帯や雑木林で見ることができた。近年は姿を見ることは稀になった。野鳥研究
家の内田博氏の調査では、埼玉県東松山市周辺の一〇〇平方キロの範囲で、一九七二年には一九ヵ所
の 生 息 地 が あ り、 九 〇 羽 以 上 が 観 察 さ れ た サ ン コ ウ チ ョ ウ が、 一 九 九 五 年 に は ま っ た く 見 ら れ な く なっ た 。
国内の生息地で大規模の開発は行われていない。東松山市周辺のサンコウチョウの生息地では、ゴ ルフ場の造成などで森林が分断された場所は多い。しかし、以前の分布をみると小面積の森林でも生
息しており、それはいまも残されている。農薬の影響も考えられるが、一年中すむ留鳥があまり減っ ていないことから、夏鳥にだけ影響が現れるとは思えない。 越冬地の消失
疑われているのは、越冬地の東南アジアで進行する森林破壊だ。一九七〇年代から、東南アジアの 森林はそれまでの木材の伐採から、大面積を焼き払って油ヤシ ︵本書第6 章写真参照︶やキャッサバ
などの商品作物に転換する乱開発が激しくなった ︵本書第6章︶ 。とりわけインドネシアのスマトラ島 やボルネオ島で森林の後退が著しい。
スマトラ島の場合、かつて島全体を覆っていた熱帯林が近年急激に失われ、世界銀行の調査による と、 一 九 三 二 年 の 森 林 面 積 を 一 〇 〇 と す る と、 八 〇 年 に 七 〇 に な り 二 〇 〇 五 年 に 二 〇 ま で 減 っ た ︵ 図
。とりわけ、破壊が激しいのは島の東部に広がる低湿地熱帯雨林で、サンコウチョウの越冬地で ❶︶
267 第 9 章 動物たちの黙示録
図❶ スマトラ島の森林の変遷
1980 年 1900 年
1960 年
2002 年
2010 年(予測)
268
ある。この森林の縮小が大きな打撃になったと考 えられる。
ジ参照︶ 。
で生息地が狭められている ︵本書第2 章四三ペー
ブ林だ。ここも、エビ養殖や炭焼きで破壊が進ん
ビンなどカワセミの仲間の渡り先は、マングロー
瀕し、その数は世界でもっとも多い。アカショウ
インドネシアでは、特産種の数種類のオウムや インコを含めて一一八種もの鳥類が絶滅の危機に
︵本書第4章︶ 。
をヤシ農園に転換する動きが加速しているためだ
て脚光を浴びているヤシ油の生産拡大で、天然林
木材の伐採に加えて、バイオディーゼル燃料とし
年アジアにおいて鳥の激減が際立っているのは、
ベトナムなどの東南アジアが大部分を占める。近
日本からの夏鳥がわたっていく先は、このスマ トラ島以外にもフィリピン、タイ、マレーシア、
(出典) 世界自然保護基金(WWF)ジャパン公式ホームページ,2006 年。
海 岸 の 干 潟 は﹁ 渡 り 鳥 の 国 際 空 港 ﹂ と い わ れ る。 サ ギ、 シ ギ、 チ ド リ な ど の 水 鳥 は、 干 潟 に 降 り 立っては水辺の小動物を にして脂肪を蓄え、それをエネルギーに次の干潟まで飛んでいく。日本か
ら東南アジアまで、干潟はどこでも開発の標的にされ、埋め立てられて農地や工場用地に変わり、あ
るいはごみ捨て場にされている。世界の湿地面積は一九〇〇年ごろの半分しか残されていない。日本 でも過去半世紀に六割も縮小した。
渡り鳥たちが、やっとの思いで次の﹁国際空港﹂にたどり着いたら、そこは埋め立てられて﹁給 油﹂できずに力が尽きた、あるいは何千キロも飛びつづけていつもの森林にたどり着いたら、森林は
丸裸になっていた、という事態は容易に想像できる。まして、日本がこれらの国々から木材、ヤシ油、
飼料のキャッサバなどを大量に輸入して、森林破壊を加速させているのだから、夏鳥の絶滅に手を貸 しているようなものだ。
絶滅が危惧されている鳥類のうち、七割ほどが森林を主な生息地としている。ところが、北海道と 東北地方を合わせた面積に相当する一三〇〇万ヘクタール ︵本書第6章︶もの森林が毎年破壊されて いる。その半分近くは、鳥類が数多く生息する原生林だ。
中米の熱帯林も、東南アジアと並んでもっとも破壊が進行している。中米では毎年、北海道に相当 する七五〇万ヘクタールもの熱帯林が失われている。キバラメジロハエトリ、モリツグミ、キノドモ
ズモドキ⋮⋮と、中米と北米を行き来する多くの種類が急減している。ムナグロアメリカムシクイの
絶滅は、越冬地のキューバの熱帯林の九六%がサトウキビ畑に変わったことが原因だ。
269 第 9 章 動物たちの黙示録
メ キ シ コ か ら コ ロ ン ビ ア に か け て は、 か つ て 多 く の 渡 り 鳥 が コ ー ヒ ー 園 で 越 冬 し た。 日 陰 を 好 む コーヒーは、天然林の陰でつくられることが多かったからだ。だが、品種改良によって日向で育つ多
収穫品種が登場し、天然林が不要になって伐採されたために多くの鳥がすみかを失って激減した。
米国で一五〇ヵ所の気象レーダーを使って、中米と行き来する渡り鳥の数を調べているが、一九六 〇年代に比べて近年は米国にわたってくる鳥の個体数は半分以下になってしまったという。
毎年五月第二土・日曜には、各国の専門家やアマチュアが多数参加して、渡り鳥の一斉カウントを している。一九九三年に米国のスミソニアン研究所などの鳥類学者によって﹁国際渡り鳥の日﹂︵I
MBD︶としてはじめられ、二〇〇六年からは各国のアマチュアも参加して、﹁世界渡り鳥の日﹂︵W
M B D ︶ と な っ て 渡 り 鳥 の カ ウ ン ト や 保 護 活 動 が つ づ い て い る。 二 〇 〇 七 年 に は﹁ 渡 り 鳥 と 気 候 変 動﹂をテーマに掲げて、世界五六ヵ国約一〇〇ヵ所で調査が行われた。
この調査から、渡り鳥に迫る危機が伝わってくる。対象の鳥類の半数以上は数が減っている。とく に、北米温帯区で繁殖して中南米の新熱帯区︵北回帰線以南の新大陸︶で越冬する約三〇〇種の急減
ぶりが目立っている。メガネアメリカムシクイ、モリタイランチョウ、モリツグミなどはこの調査で 一貫して減りつづけている。
北米の渡り鳥でもっとも危機的状態にある二八種のうち二四種までが、繁殖地の喪失が原因だ。ハ シグロクロハラアジサシや数種のカモ類は、生息地の北米大平原地帯の湿地が埋め立てられるととも
に、急激に減少した。南西部にすむズグロモズモドキは、牧場造成などで生息地の河辺林が分断され
270
て追い詰められた。ルイジアナ州では海岸の広大な湿地帯が渡り鳥の重要な中継地となってきたが、
過去一〇〇年間に四八〇〇平方キロも開発で減って、五一種の渡り鳥が姿を消した。 地球温暖化が野鳥を直撃
地球温暖化の影響も渡り鳥に現れはじめており、二〇八〇年ごろには七割以上の鳥類が絶滅する地 域も出るという報告書が、世界自然保護基金︵WWF︶によってまとめられ、二〇〇六年一一月に発
表された。この報告書は、これまで世界で発表された二〇〇以上の研究論文をもとにして、温暖化が 鳥類に与える影響を予測したものだ。
報告書は﹁地球の平均気温が産業革命前に比べて二度上昇した場合︵現在は〇・八度上昇︶には、 ヨーロッパで三八%、オーストラリア北部で七二%の鳥類が絶滅する可能性がある﹂と警告している。
すでに、気候変動によって がとれなくなる鳥が出はじめているという。体長一四センチほどのマ ダラヒタキは、欧州で繁殖してアフリカで越冬する渡り鳥だ。オランダ生態学研究所が一九八七∼二
〇〇三年に、国内の一〇ヵ所で巣箱で繁殖する個体数の変化を調査したところ、いずれも減っており、 なかには九〇%も減少した巣箱が見つかった。
各調査地点で であるイモムシの発生量の時間的な変動を調べたところ、イモムシの発生する時期 が以前に比べて早まった地点ほど、マダラヒタキの個体数が減っていた。マダラヒタキは、ヒナの が豊富になる時期に合わせて産卵するようにプログラムされている。
271 第 9 章 動物たちの黙示録
地球温暖化の影響を被って急減しているマダラヒタキ(宮城県にて)
イモムシは、植物の若芽が吹く時期に合わせ て大量に発生する。ところが、日本のサクラの
開花日のように気温上昇に伴って芽吹く時期が
早まり、それに伴ってイモムシの発生時期は平
均して一六日も前倒しになった。一方、マダラ
不足で個体数を減らす原因
の供給と繁殖時期とがずれてしまっ
ヒタキの繁殖開始は最大で一〇日早まっただけ だった。
たことが、ヒナの
になっている可能性が高い ︵図❷︶ 。
今後の気温の上昇によって、イモムシの発生 時期がさらに早まれば、それだけ影響も大きく
なることが予測される。今後、マダラヒタキの
繁殖がどれだけ気温上昇に適応して早まるかが、
この鳥の今後の命運を分けることになる。
ンド諸島とオークニー諸島のウミガラス、クロ
二〇〇四年にはイギリスの北海沿岸で、海鳥 の孵化がこれまでになく少なかった。シェトラ
写真提供 相澤和彦氏
272
図❷ 温暖化でずれる自然のリズム
5 月 25 日 マダラヒタキの孵化の ピーク (2) 2000 年
トウゾクカモメ、オオトウゾク
カモメ、ミツユビカモメ、キョ
クアジサシなどの海鳥のコロ
ニー︵集団繁殖地︶では、ヒナ
の姿がほとんど見られなかった。
であるイカナゴの激減
その直接の原因は、海鳥たちの 主要な
だった。海水温の上昇で、海の
食物連鎖が大きく変化したこと
が理由とみられている。
北海道でも同じ現象が報告さ れている。一九六〇∼二〇〇三
年にイカナゴの漁獲量がほぼ四
分の一に激減し、一九六〇年代
に天売島には四万羽も繁殖して
いたウミガラス︵オロロン鳥︶
が、二〇〇二年にはわずか一三
273 第 9 章 動物たちの黙示録
6月1日 5月1日 4月1日
6月3日 マダラヒタキと になる虫の 孵化のピーク 4 月 25 日 マダラヒタキの 渡りのピーク (1) 1980 年
5 月 15 日 になる虫の 孵化のピーク
(出典) オランダ生態研究所。
羽になりそれ以後は巣立ったヒナはいない。
ソデグロヅルは、世界に約三〇〇〇羽しか生息していない絶滅危惧種である。ロシア北極圏とシベ リアで繁殖し、主に中国の長江中下流域で越冬する渡り鳥だ。日本にも稀にやってくる。ソデグロヅ
ルの生息地は、近年の気候変動の影響で繁殖地の北極圏だけでなく、越冬地の中国でも降水量の減少
と集中豪雨の増加によって悪化している。北極圏の温暖化が進むと森林が拡大してツンドラが失われ るため、今後個体数の七〇%が減少する可能性があるという。
熱帯の海にすむペンギンとして知られるガラパゴスペンギンも絶滅の危機にある。一九七〇年代以 降、すでに五〇%も個体数が減っている。海流の異変によって食物が不足しているため、と考えられ てい る 。
日本でもさまざまな野鳥の異変が報告されている。夏鳥として日本に戻ってくるコムクドリが、過 去二〇年間で産卵時期が二週間以上早まっていることが、樋口広芳東京大学教授らによって確かめら れた 。
が確保できるようになったのが理由とみられる。その一方で、かつて多くが越冬した
シベリアから渡ってくるガンの仲間が、越冬地をどんどん北に広げている。一九七〇年代にはほと んどいなかった八郎潟などでは、冬を過ごすガンが急増している。温暖化による暖冬で、湖沼が結氷 しな く な っ て
今後、予測通りに地球温暖化が進行するとすれば、生態系の混乱は多くの生き物を絶滅させること
琵琶湖などで減る傾向にあり、南下するはずのガンが東北地方で越冬するようになったようだ。
274
になるだろう。とくに、自分で移動できない植物は、温暖化の影響がさらに大きい。二〇%が死滅、
さらに二〇%がその危機にあるサンゴ礁も、海水温や海面の上昇でさらに死滅の範囲が広がるだろう。
海面上昇は海岸近くの湿地をのみ込み、水鳥や干潟にすむ多くの生き物の生息地を奪うことにもなる。
ブリュッセルで二〇〇七年四月に開催された﹁気候変動に関する政府間パネル︵IPCC︶﹂の第 二 作 業 部 会 が 発 表 し た 報 告 書 に よ る と、 平 均 気 温 は 一 九 八 〇 ∼ 九 九 年 に 比 べ て、 二 一 世 紀 末 ま で に
一・一∼六・四度、海面も一八∼五九センチ上昇するという。現在のまま気温が上昇をつづければ、
二〇五〇年代には、全生物種の二〇∼三〇%が絶滅する危険が高まるとしている。 悲観的な野鳥の将来
米国スタンフォード大学の研究チームは、温暖化や森林破壊などの環境の変化が生息地の分布や生 息状態にどのように影響を及ぼすか、独自に開発したコンピューターモデルで研究している。そのモ
デルで、﹁最悪﹂﹁中間﹂﹁楽観﹂の三種のシナリオについて予測したところ、楽観的な予測でも二一
〇〇年までに鳥類の六%が絶滅し、最悪のシナリオでは一四%が絶滅して約二五%が絶滅の危機にさ らされるおそれがあるという結果が出た。
﹁ 絶 滅 ﹂ と は、 通 常、 あ る 種 が そ の 生 態 系 の 一 員 と し て 機 能 し な く な っ て か ら か な り の 時 間 が た っ てから起きる。つまり、その種の個体数がしだいに減っていき、生き残った個体群が孤立して遺伝的 多様性が失われていくことで絶滅に至る。
275 第 9 章 動物たちの黙示録
図❸ 天然熱帯林面積の変化と絶滅危惧種の数 (1) 天然熱帯林面積 (1990∼95 年の年平均変化)
(2) 野生生物絶滅危惧種 (1996 年) 240
ブラジル −2554
−1084
340
インドネシア コンゴ民主 共和国
−740 −581
ボリビア
−508
メキシコ
−503
ベネズエラ
113 55 247 66
−400
マレーシア
107
−387
ミャンマー
98
−353
スーダン
−329
タイ
−327
パラグアイ
−323
タンザニア
−264
ザンビア
−262
フィリピン
−262 −3000 −2000 −1000 (千 ha)
34 110 39 132 27
コロンビア 0 0
188 119 100 200
300
400 (種)
(出典) WRI。
同研究チームは、野鳥の種類は一五 〇〇年以来一・三%が減っただけだが、
個体数にすると二〇∼二五%も減少し
たと推定している。鳥類の減少速度と
人口の増加とは高い相関を示す。人口
は二〇世紀以降四倍にもなり、六六億
人を超えた。この巨大な人口を養うた
めに、かつては野鳥の生息地だった草
原や森林や海岸の湿地は、集落、工場、
道路、農地、牧地、廃棄物処理場に変
えられていった。
一九六〇∼九〇年代に、地球上の熱 帯林の二〇%にあたる約四億五〇〇〇
万ヘクタールが伐採され、焼かれて消
失した。絶滅の危機にある鳥類のうち
八五%までが森林破壊で生息地を奪わ
れたことにその原因がある、とワシン
276
トンの世界資源研究所︵WRI︶はみている ︵図❸︶ 。
野鳥に起きているような世界的な異変は、鳥類以外の生物でも同様に起きているとみられる。炭鉱 で有毒ガスを探知するカナリアのように、鳥類は環境の変化にいち早く反応する指標生物とされてき
た。野鳥が急減しているということは、まさに人間が安心して住める環境ではないということでもあ る。
鳥類が激減すれば人間にも悪影響が及ぶ。天敵の野鳥が減って病気を伝播する昆虫や農作物の害虫 が増えるだけでなく、動物の死体の処理、種子の運搬、花粉の媒介、といった生態系の重要な機能が
失われる。たとえば、一九九七年にインドで約三万人が狂犬病で死んだが、これは天敵のハゲワシの 数が減ったために、野犬が急増したことが大きいとされている。
米国農務省林野局は、こうした野鳥の恩恵に加えて、米国では七五〇〇万人がバードウォッチング、 やり、撮影、ハンティングなどで野鳥に関わっており、その経済効果は年三八〇億ドルにものぼる と推 定 し て い る 。 カエルが消えていく
もう一つ、さっぱり聞かれなくなったものに、カエルの合唱がある。過去三〇年ほどの間にカエル やサンショウウオなどの両生類に、異常事態が発生している。この一〇年余り、国際両生類学会やI
UCNなどの専門家は、さまざまな調査委員会を組織して必死に原因を追ってきた。
277 第 9 章 動物たちの黙示録
謎の大量死をとげてほとんど姿を見かけなくなったヤドクガエル(コスタリカ のモンテベルデ雲霧林保護区で)。
各国の研究者から報告される両生類の現状 はショッキングなものだった。世界各地で同
時多発的にカエルやサンショウウオなどの両
生類の絶滅や急減、奇形の多発の報告が相次
いだ。しかも、その多くが国立公園や生物保
護区など保護の行き届いた地域で発生してい るのだ。
こ の カ エ ル の 異 常 事 態 は、 一 九 七 〇 年 代 オーストラリア北西部の熱帯林ではじまった。
一九七四年に、胃袋の中で卵をかえす珍しい
カモノハシガエルが発見され、その胃酸を抑
えるメカニズムがわかれば医薬品につながる
と大きな関心を集めた。
つかっていない。オーストラリアでは東部の
発見された一年後の一九八五年以後一匹も見
ところが、六年後にはまったく姿を消して いた。これに近いキタカモノハシガエルも、
写真提供 米国スミソニアン研究所
278
ブリスベンからヨーク岬半島に至る地域で、渓流に生息する一五種のカエルのうち一四種までが、個 体数が九〇%以上も減少して絶滅かその寸前の状態だ。
﹁ジャングルの宝石﹂ 一九八七年に、地球の反対側のコスタリカのモンテベルデ雲霧林保護区でも、 の異名をとる鮮やかな色のオウゴンヒキガエルが、突如として姿を消し、翌年には一〇匹しか確認さ
れず、その翌年に見つかったのは一匹のオスだけだった。その直後には、パナマ西部のフォルトゥナ
生物保護区でも、ヤドクガエルなどの大量死が報告された。一九九四年には、コスタリカとパナマ国 境地帯のラスタブラス保護区でもカエルの激減が起きた。
コスタリカやパナマで調査した両生類の専門家は﹁死んだカエルは、まるで生きているかのように 鳴く姿勢のまま凍りついたように見えた。死にかけているカエルは、何の反応も示さずに四肢と頭部 がけいれんしているように震えていた﹂とその不気味な様子を語っている。
米国カリフォルニア州のシエラネバダ山中には、登山者が踏まないように歩くのに苦労するほど数 多くのヤマキアシガエルがいたが、一九八九年の調査では一匹発見されただけだった。カナダでは普
通にみられたヒョウガエルが、アルバータ州では一九八〇年代に入って個体数が六割も減り、隣のブ リティッシュコロンビア州では絶滅してしまった。
日本でも、研究者の間では個体数が減少しているという声が相次いでいる。日本には外来種を含め て三七種五亜種のカエルが知られているが、そのうちの八種が絶滅危惧種リスト入りしている。とく
に、リストに挙がっている身近で親しまれてきたダルマガエル︵トノサマガエルと混同されることが
279 第 9 章 動物たちの黙示録
多い︶は見るのが難しくなっている。
国際自然保護組織のコンサーベーション・インターナショナルによると、調査の対象となった五七 〇〇種の両生類のうち、三分の一が絶滅の危機にあり一六八種がすでに絶滅したという。とくに、南
北米大陸、オーストラリアなどで深刻だ。一九九六年発行のRDBの初版には、両生類の絶滅危機種
は一二四種しかリストに載っていなかったが、二〇〇六年には一八一一種にもなり、この一〇年間で
一五倍近くに増え、危機的状況が最近になって急激に広がってきたことがわかる。
IUCNは、世界の専門家に呼びかけて、原因の究明に努めている。最大の謎は、カエルの急減地 域が、北米、中南米、オーストラリアでも比較的高地に限られていることだ。しかも、国立公園や保 護区に指定されて、自然環境がよく守られている場所が多い。
カエルにつづいて、サンショウウオなど他の両生類の絶滅も各地で報告されはじめた。同時多発的 に影響が広域に広がった原因は、感染症がもっとも疑われる。なかでも、ツボカビ症が最大の容疑者
となった。パナマ西部のフォルトゥナ生物保護区で多数見つかったカエルやオーストラリアのカエル
の死骸の皮膚は、このカビで被われていた。これが、カエルの皮膚呼吸を阻害して、窒息死させたと みら れ る 。
両生類の皮膚に感染したツボカビは、そこで増えて鞭毛の付いた遊走子︵鞭毛で水中を遊泳する胞 子の一種︶を水中に放出し、他の両生類に感染する。この遊走子は最大で七週間も水中で生きつづけ
ることができるため、感染が急激に広がる。両生類の死亡率は九〇%を超えるともいわれている。ツ
280
ボカビは人間などには感染しないが、自然界に広がると生態系に深刻な影響を及ぼすおそれがある。
二〇〇六年に日本でもはじめてツボカビ症が見つかった。麻布大学獣医学部によって東京都内で個 人がペットとして飼育していたカエルの死体からツボカビが見つかり、これが死因と断定された。環
境省の全国調査によると、動物園・水族館で飼われている両生類は六九%、ペットなどとして市販さ
れていたものは八四%も感染していた。このなかには、はじめて確認された国の特別天然記念物のオ
オサンショウウオの感染も含まれている。一方、五二三匹の野生の両生類のうち七%からツボカビの
DNAが見つかり、感染が国内の自然に広がっていることがわかった。海外から輸入したカエルから
感染したと見られる。 オーストラリアのジェイムズ・クック大学のジーン・マルク・ヒーロー教授によると、ツボカビ症 の感染が確認された野生の両生類は、オーストラリアで四三種、北米で一四種、中米で一〇種、南米
で七種、ヨーロッパとアフリカで各五種になり、このほか飼育下にある種類では世界で約七〇種に及 ぶ。
ツボカビ症は、もともとアフリカが起源と考えられる。とくに、アフリカツメガエルが実験動物や 観賞用として世界中に輸出され、温暖化によってカビの増えやすい環境が後押しして、爆発的に流行 したとする説が有力だ。
281 第 9 章 動物たちの黙示録
外来生物が狂わす生態系
生物の急減や絶滅は、他の生き物との競争に敗れて起きる場合も多い。その競争をもたらす元凶の 多くは外来生物である。とくに、島の生態系は、大陸から遠く離れて独自の進化を遂げた固有の動植
物が多く、肉食動物も少なくて侵入してくる外来種に対して競争力をもたない弱い種が多い。過去半
世紀の間に世界の貿易量は二〇倍にも膨れ上がり、大量の人や物の移動が加速して、外来生物も世界 を股にかけて動き回るようになった。
米国コーネル大学のデイビッド・ピメンテル教授によると、世界で確認された外来生物は五〇万種 に達するという。米国では、約五万種が定着して、年間一二〇〇億ドルもの損害を農林水産業に与え てい る 。
外来生物による生態系の攪乱は、世界的な重大問題になっているが、とくに影響の大きなハワイと 日本を例にとってみる。双方の地理的な共通点は、海に囲まれていることだ。島は環境容量が小さい ために、生態系は環境の変化にはきわめて影響を受けやすい。
ハワイ州は年間七〇〇万人近い観光客を受け入れており、日本も五〇〇万人ほどの外国人観光客が 訪れる。人以外にも、食料、エネルギー、原材料などの膨大な物資が他国から流れ込む。物資だけで なく、雑草の種や小さな昆虫、ときには病原体も密入国してくる。
しかも、ハワイでも日本でも、ますますペットを飼う人や園芸に精を出す人が増えている。イヌや ネコや小鳥に限らず、カブトムシから熱帯魚、イグアナ、ワニに至るまでさまざまな動物や園芸種が、
282
世界中から輸入されてくる。日本でも、住宅街でニシキヘビが見つかったり、アパートのベランダを
大型クモのタランチュラがはい回っていたり、といったニュースがひんぱんに報じられている。逃げ
出したペットの大部分は生きていけないが、なかにはうまく定住して子孫を増やすものもいる。
外来種との競争に敗れた島固有の生物種が、かつてない速度で絶滅している。ハワイ諸島をはじめ、 ガラパゴス諸島︵東太平洋︶ 、フォークランド諸島︵西大西洋︶ 、セーシェル諸島︵西インド洋︶ 、セ
ントヘレナ島︵東大西洋︶、アセンション島︵南大西洋︶、日本の小笠原諸島などでは、過去数十年間
に固有生物種が激減し、絶滅したものも少なくない。過去二〇〇年間に二〇〇〇種もの島固有の生物 種が絶滅したという推測もある。
とくに、問題になっているのは、特異の進化を遂げた固有種が多く世界遺産にも登録されているガ ラパゴス諸島である。大型のものでは、人間が持ち込んだロバ、ヤギ、イヌといった家畜が野生化し
たものだ。さらに、エクアドル本土からの入植者や多数の観光客の来訪で偶発的に侵入した外来種も
急増して、昆虫類では約五〇〇種、植物では約八〇〇種を数える。植物は在来種の約五〇〇種を上
回ってしまった。ついに、二〇〇七年六月には、危機に瀕する世界遺産である﹁危機遺産リスト﹂に 入れ ら れ た 。
ハワイ諸島は太平洋のほぼ中心にあり、島の面積が小さく大陸のようなきびしい生物間の競争がな かったことから、独特の生態系が発達してきた。その生態系は脆弱で微妙なバランスの上に成り立っ てい る 。
283 第 9 章 動物たちの黙示録
ハワイに自生する動植物種のうち八五%に相当する一二〇〇種が固有種である。なかでも代表的な のはミツドリの仲間だ。約四〇〇万年前にハワイにわたってきたたった一種が、ハワイのさまざまな
環境に適応して、五〇種近くにも進化した。ガラパゴス諸島のフィンチ類と同じである。だが、生息
域の破壊と外来鳥に追われて、現在では三分の一の種しか生き残っていない。また植物のローベリア
︵サワギチョウの仲間︶はたった一種類から一〇〇種類もの違った種を生んだ。
もともとポリネシア系の先住民が住んでいたが、一八〇〇年ごろからヨーロッパ人が移住し、その 後はアジア諸国から数多くの移民がやってきて、森林はサトウキビやパイナップルの畑に変えられた。
ハワイ諸島の自然環境は、開発と外来種の侵略で深刻な状況にあり、IUCNはこれまで絶滅した植
物は二七五種にものぼるという。ハワイでは、二〇〇六年新たに一二五の固有植物種が、IUCNの 絶滅危惧種のリストに加えられた。そのうち八五種が近絶滅種である。
ハワイの島々を調査していて、もっともびっくりしたのは森の奥から日本産のウグイスのさえずり が聞こえてきたことだ。一〇〇年も前に日本からの移民が故郷をしのぶために持ち込んだのが、野生 化したらしい。アジア産のガビチョウやソウシチョウも飛び回っていた。
ハワイ諸島は実に多くの種類の外国産の動植物がはびこっている。米国本土産のタテガミトカゲ ︵ グ リ ー ン ア ノ ー ル ︶ が い く ら で も 見 ら れ る。 日 本 に も 戦 後 侵 入 し、 小 笠 原 諸 島 の 父 島、 母 島 や 沖 縄
島に定着している。小笠原諸島では一〇〇万匹以上といわれるほどはびこり、固有種のオガサワラシ
ジミなど多く昆虫類が食べられて、地域によっては昆虫がほとんど姿を消すほどの被害が広がってい
284
る。
道路には轢かれたアジア産のジャワマングースの死体があった。一八〇〇年代の後半に、ネズミ駆 除のために放されたものが大繁殖し、のんびりした島固有の小動物たちは、動きの素早いマングース に片端から食べられている。
しかも、あちこちに南アメリカ原産のミコニアやストロベリーグァバが、ジャングルのように茂っ ている。ミコニアは赤紫色の葉が人気があり、日本では観葉植物として売られている。その後、この
果実を食べる鳥によって拡散、ハワイ諸島だけでなく南太平洋全域に広がって、熱帯の植生を大きく 変え て し ま っ た 。
オアフ島の海岸地帯で、ハワイ原産の生物を目にすることはまずない。リゾートホテルや住宅が立 ち並ぶ海岸ぎわは、海鳥や水鳥を除くと外来種の鳥と観光客しか見ることができない。繁殖している 外来鳥は二七種類に及ぶという。 日本の外来生物
日本の状況もハワイと変わらない。日本では環境省によれば、すでに哺乳動物が二五種、鳥類が二 七種、淡水魚が三九種、昆虫類が二四六種、植物に至っては約一五〇〇種の外国産の生物が見つかっ
東京都心の皇居の周辺は雑草の九〇%までが外来植物で、日本産と入れ替わってしまったのも多い。
ている。注意深く見れば、身のまわりのいたるところに外来種を見ることができる。
285 第 9 章 動物たちの黙示録
カントウタンポポはセイヨウタンポポ︵ヨーロッパ原産︶に、オオバコはヘラオオバコ︵ヨーロッパ
原産︶に、イヌノフグリはオオイヌノフグリ︵西アジア原産︶に。外国産に追われて在来種のイヌノ フグリは、絶滅危機種のリスト入りした。
北米原産のセイタカアワダチソウやオオアワダチソウは、日本の秋の風景に完全に溶け込んで、秋 には川原、空き地、休耕田などを真っ黄色に染めている。最近では、驚くほど山の奥深くまで入り込 んで い る 。
日本でもさまざまな外来生物の被害が現れてきた。そのなかで最大の被害を与えたのが、北米原産 の松の害虫マツクイムシだろう。青森と北海道を除く四五都府県に蔓延し、日本の景観を代表する松
林が各地で皆滅した。一九七九年に枯死木が二四三万立法メートルになり被害がピークに達した。こ
のあと減少傾向にあったが数年来ふたたび増加してきた。被害算定はされていないが、少なくとも数 百億円にのぼるとみられる。
明治時代に米国からマツ材を輸入したときに、マツノザイセンチュウ︵松の材線虫︶と呼ばれるセ ンチュウが持ち込まれた。長さは一ミリもないミミズのような形の寄生虫で、この仲間には農作物の
害虫が多い。これが、マツノマダラカミキリムシに寄生して運ばれる。松はとりつかれると、水を吸
い上げられなくなって弱って枯れる。天敵がいないために爆発的に広がったのが原因と考えられてい
しかし、北米のマツ類は抵抗性があってほとんど病気を起こさない。日本以外でも台湾、朝鮮半島、
る。
286
中国大陸にも上陸して大規模な被害を引き起こしている。また、ポルトガルでも被害が発生し、ヨー ロッパ各国は厳重な防疫態勢をしいている。
この逆もある。カビの一種が原因で起きるクリ胴枯病は、日本から米国に侵入して大被害を与えた。 二〇世紀に入って間もなく、米国北東部のクリの木を約四〇年間で全滅させてしまった。一九三八年 にはヨーロッパにも侵入して、ここでもクリの木をほぼ絶滅させた。
北米産のアライグマも野生化して全国に被害を広げている。三〇年ほど前に、アライグマのラスカ ル︵本来の英語の意味は﹁ならず者﹂︶を主人公にしたアニメが人気を集め、ペットとして輸入した
ものが逃げ出して広がったのだ。雑食性で何でも食べるので被害は多岐にわたっている。北海道では
にして激減させ、札幌市内の森林公園ではアオサギのコロニーを壊滅させた。
農業被害は年間三〇〇〇万円にのぼり、サケマス養殖場の被害も増えている。また、エゾサンショウ ウオ を
大阪府ではスイカやトマトやブドウなどが食い荒らされ、コイや金魚の養殖も被害にあった。神奈 川県鎌倉市内ではアライグマが民家の天井裏に住みつき、はいせつ物で部屋が汚されたり生ごみを食 い散らかすなどの被害が相次いでいる。
ハワイがネズミ駆除のために導入したのと同じように、毒ヘビ駆除のために九州の奄美大島に放し たジャワマングースが、天然記念物の稀少なアマミノクロウサギをはじめ動物や鳥を襲い、農作物を
荒らす被害が出ている。約三〇年前に、三〇頭ほど放されたマングースが、現在では推定一万頭を超 えて毎年三割ほどの割合で増えている。
287 第 9 章 動物たちの黙示録
一九二五年に米国カリフォルニア州から箱根・芦ノ湖に放流されたブラックバスは、ルアーフィッ シングを楽しむ釣り人が日本各地の湖沼に放したこともあって、いまや全国的に大繁殖している。旺 盛な食欲で多くの在来魚を絶滅寸前に追い込んでいる。
そしてブラックバスは一九七〇年代から、各地でトラブルを起こすようになった。山梨県河口湖や 茨城県の霞ヶ浦や牛久沼では、ブラックバスによってワカサギや在来の小魚が減少したとして漁業被
害が問題になった。研究者からは生態系の危機が叫ばれ、一方でバス釣りブームが起きて、釣り人か
らはブラックバスの擁護論も出て、論争になった。水産庁と全国内水面漁協連合が外来魚の密放流に ついて﹁被疑者不詳﹂で刑事告発するところまで発展した。
鳥の世界でも外来種が増えている。東京都内ではワカケホンセイの大きな群れが定着している。南 アジア産の緑色のきれいなインコで、ペットとして輸入されたがの野生化した。なじみのペットのセ
キセイインコ︵オーストラリア産︶も、数は少ないが日本で繁殖するようになった。
昆虫の世界に至っては、全外来動物が四分の三を占めるほど多い。日本が世界一の食料輸入国であ ることを反映して、輸入した農作物にまぎれて侵入する害虫が多い。つねに、新たな昆虫が入り込み、
最近では一九九九年に発見されたトマトの大害虫、中南米原産のトマトハモグリバエが中国四国地方
を中心に被害を広げている。ハウスで栽培されるトマトの花粉媒介のために、一九九一年にヨーロッ
パから日本に導入されはじめたセイヨウオオマルハナバチも野生化していることが確認され、在来の マルハナバチ類が減少することが懸念されている。
288
庭木などが丸坊主にされるなどの被害を受けたのは、戦後間もなく進駐軍とともに日本進出を果た した米国産のアメリカシロヒトリであろう。あるいは、日常的に悩まされている小型のチャバネゴキ
ブリは、新幹線のなかで見かけたこともある。アフリカの原産で、奴隷船に潜んで米国に密航、これ
も戦後米軍とともに日本に進駐したといわれる。日本でも冬の暖房が普及したことで、この熱帯産の ゴキブリが繁殖できるようになった。
社会問題化した外来生物を規制するために、政府は二〇〇五年に﹁特定外来生物被害防止法﹂︵外 来生物法︶を制定し、アライグマやマングースなど三七種類を駆除の対象とした。特定外来生物に指
定されると、輸入や譲渡、飼育、野外へ放すことなどが禁じられる。ハワイでも日本以上にきびしく 動植物の持ち込みを規制している。
大型の動物は取り締まることができるが、海外でズボンの折り返しに入った雑草の種が日本に持ち 込まれるとか、輸入原毛に混じっていた雑草の種がごみとして捨てられ、毛織物工場付近で発芽する といった偶発的な持ち込みは規制が困難だ。 日本が輸出した外来生物
日本からも他国に生物を﹁輸出﹂している。﹁外行生物﹂とでもいうべきか。米国のジョージア州 からミシシッピ州にかけて、日本産のつる植物のクズがすさまじい勢いで増えて、大統領直属の対策 委員会が組織されているほどだ。
289 第 9 章 動物たちの黙示録
一九三〇年代にテネシー渓谷開発公社︵TVA︶がダムや道路などの大規模開発をしたときに、斜 面の侵食防止のために導入して植えたのが、広がってしまった。盛夏には毎日三〇センチも伸びるほ
ど生長が速く、クズは完全に自生の植物や植生を圧倒してしまった。電柱をはい上がってその重みで
電線を切断したり、空き家にしておくとひと夏で家も敷地もすべて覆い尽くされるなどの被害が出て いる 。
日 本 か ら 園 芸 植 物 の ア ヤ メ に く っ つ い て 米 国 に わ た っ た、 マ メ コ ガ ネ も 米 国 で は ジ ャ パ ニ ー ズ・ ビ ー ト ル と 呼 ば れ て 三 〇 〇 種 を 超 え る 作 物 を 食 い 荒 ら し て 大 き な 被 害 を 出 し て い る。 ﹁国立ジャパ
ニーズ・ビートル研究センター﹂という研究所があるほどだ。ライン川など欧米の大河川沿いには、 日本のイタドリが繁茂している。
もっとも頭の痛い外来種は海の生き物だ。まったく駆除の手段がない。日本は全製品すべての輸出 入額ともに世界で四位。日本の港を出入りする船舶も多い。タンカーなどの貨物船は空荷のときには、
船を安定させるために積荷の代わりに海水、つまりバラスト水を船腹に取り込んでいる。その量は載
貨重量の二五∼三〇%程度だ。世界各地で満たした海水は、荷を積む前にその国の近海で放出される。
そのバラスト水の中には、さまざまな生き物が紛れ込んでいる。貝、魚、カニ、クラゲ、ヒトデな どの海洋動物をはじめ、植物の種子、胞子、細菌、ウイルス⋮⋮。国際海事機関︵IMO︶によると、
世界で年間一二〇億トンのバラスト水が各国間を移動する。国土交通省によると、他国から日本に運
ばれてくるバラスト水は約一七〇〇万トンであるのに対し、日本から他国に輸出するバラスト水は約
290
図❹ バラスト水によって運ばれてきた海の外来動物 (種類)
150
125
100
75
50
25
1790 1820 1850∼79 1880∼1909 1910∼39 1940∼69 1970∼99 年 ∼1819 ∼49 0
ヨーロッパ沿岸 北米沿岸
(出典) 国連ミレニアム生態系評価,2005 年。
三億トンと推定され、世界最大のバラスト水の﹁輸 出国﹂だ。
バラスト水に混じって、毎日三〇〇〇個体以上の 動植物が別の海域へ移動していると推定される。そ
のなかには、遠く離れた海で定着するものもいる。
これまで、バラスト水に混じって運ばれてきた海の
外来動物は、環境省生物多様性センターによると、
少なくとも日本近海で三八種が定着している。一九
七〇∼九九年に北米でも一二五種、ヨーロッパでも
五三種が確認されている ︵図❹︶ 。
その代表格がチチュウカイミドリガニ︵地中海原 産︶やイッカククモガニ︵北・中米太平洋岸原産︶
だ。イッカククモガニの日本最初の記録は、一九七
〇年に昭和天皇が相模湾で採集されたものとされる
が、現在では日本全国に分布を広げている。それば
かりか、韓国、ブラジル、アルゼンチン、オースト
ラリア、ニュージーランドなどでも分布が確認され、
291 第 9 章 動物たちの黙示録
バラスト水に便乗して世界中に勢力を広げている。 大きな被害も出ている。シーフードでなじみの地中海産のムラサキイガイは、各地で大発生してい る。東京湾で堤防や船底や工場の排水口に付着した生物全体の重量の八〇%を占め、その量は東京湾 全体で二万トン以上に達するという推定もある。
とくに日本最大の広島県のカキ養殖場一帯で大発生し、養殖カキの殻の表面を被ってカキの生長を 悪化させ、カキ養殖が三分の二に減ってしまった。真珠の産地で有名な三重県英虞湾などでも、真珠
の母貝となる養殖アコヤガイが大きな被害を蒙っている。長崎県では、外国産の有毒プランクトンが 貝に蓄積し、それを食べた人が食中毒にかかった事件もあった。
日本でも発見されたが、ヨーロッパ原産のカワホトトギスカイは、バラスト水によって北米に侵入、 発電所の排水口や水道管を詰まらせて大きな被害を出している。
日本近海からバラスト水によって、北米、南米、オセアニア地域、さらにはヨーロッパへと数多く の日本在来の海洋生物が運ばれている。世界各地へ拡散した日本産の生物は、四〇種以上とみられる。
そのなかには移入先で大発生して、経済や生態系に大な被害を与えた例がいくつもある。
オーストラリアのタスマニア島沿岸で、数年前から大発生してホタテガイ養殖に大打撃を与えてい るヒトデは、バラスト水で運ばれたらしい日本在来種のマヒトデだった。IUCNによって﹁最悪の
侵略的外来種﹂のリストにも入れられた。オーストラリア政府は、世界に先駆けて二〇〇三年にバラ スト水の排出を禁止した。
292
IMOの提唱で、二〇〇四年に﹁船舶のバラスト水及び沈殿物の規制及び管理のための条約﹂が結 ばれ、二〇一二年からバラスト水のなかの生物を殺滅する装置が義務づけられる。だが、そうした装 置は各種考案されているが、有効性には疑問がもたれている。
こうした議論がつづいている間にも、数多くの自然界の﹁密航者﹂は世界を飛び回り、その一方で 絶滅種や危機種のリストは長くなりつづけている。筆者は、RDBの新版が発表されるたびに、新た
に絶滅種に加わった生物種をチェックしてきた。それは、地球が四〇億年近くかけてつくりあげてき たこの生態系のなかから、抹殺された種を確認する作業でもある。
子どものころ、こんな遊びをしたことがある。将棋盤の上に駒を山になるように積み上げて、交互 に駒をひとつずつ抜いていき、山を崩したら負け。いつ山が崩れるのかハラハラしながら遊んだもの
だ。一種、また一種と地球上から生き物が﹁抜かれて﹂いる。もしかしたら、私たちは地球を相手に 同じゲームをしているのだろうか。
﹃滅びゆく日本の動物五〇種﹄上野俊一編、築地書館、一九九三年
︻参考文献︼
│
消えゆく生物を守れるか﹄ビバリー・ピータースン・スターンズ、スティーブン・
﹃滅びゆく日本の植物五〇種﹄岩槻邦男編、築地書館、一九九三年 C・スターンズ︵大西央士他訳︶ニュートンプレス、二〇〇〇年
﹃レッドデータの行方
﹃日本の絶滅のおそれのある野生生物﹄環境省自然環境局野生生物課編、自然環境研究センター、二〇〇六年
293 第 9 章 動物たちの黙示録
│
﹃絶滅危惧種・日本の野鳥
│
東洋館出版社、二〇〇三年 会訳︶、コモンズ、二〇〇五年
﹃アフリカゾウを護る闘い
バードライフ編レッドデータ・ブックに見る日本の鳥﹄川那部真・谷口高司、
地球の危機﹄ハロルド・クーポウィッツ、ヒラリー・ケイ︵大場秀章訳︶、八坂書房、一
ガラパゴスと小笠原﹄小野幹雄、岩波書店、一九九四年
ケ ニ ア 野 生 生 物 公 社 総 裁 日 記 ﹄ リ チ ャ ー ド・ リ ー キ ー︵ ケ ニ ア の 大 地 を 愛 す る
﹃孤島の生物たち
│ │
﹃植物が消える日 九九三年
特 集﹁海洋生物の越境移入と沿岸生態系の攪乱﹂﹃海洋と生物﹄一七〇号、生物研究社、二〇〇七年六月号
294
化学物質は人体に蓄積される。その蓄積は母体内や授乳から はじまる。世界的に化学物質の規制を要求する声が高まって いるが,次々と登場する化学物質の前には「モグラたたき」 のように追いつかない。 写真提供 共同通信
からだをむしばむ化学汚染
10
どこまで汚せば気がすむのか 第
章
*
DDT、PCB、TBT、PCDD、PBDE、PFA⋮⋮暗号のような名で呼ばれる化学物質が、 約五万種類も身辺にあふれている。わが国で工業用途として届け出があるものだけでも、毎年約三〇 〇種の新たな化学物質が、毒性もよくわからないままこれに加わる。
そして、窒素酸化物、硫黄酸化物、一酸化炭素、オゾン、ベンゼンといった汚染物質が大気中に排 出され、鉛、カドミウム、水銀、砒素、クロムといった重金属が河川や地下水や土壌を汚染する。
環境への排出規制など対策がとられている化学物質は約六〇種類。国内で流通しているもののごく 一 部 だ。 ひ と た び 環 境 中 に 放 出 さ れ た 物 質 の な か に は、 食 物 連 鎖 に 取 り 込 ま れ て 禁 止 後 三 〇 年 以 上
たっても、大気 │ 水 │ 生物︵人間︶の間を回りつづけているものも少なくない。
こうした化学物質や汚染物質に、私たちのからだが四六時中さらされるようになってわずか半世紀 しかたっていない。進化の歴史で、人体にとってはじめての体験だ。私たちのからだの脂肪組織や血
液や尿から、少なくても数十種類の化学物質が検出される。知らない間に体内に蓄積されていたのだ。 不気味に増えつづける病気との関係にも不安が高まっている。
そればかりか、北極のシロクマも南極のペンギンも太平洋の真ん中を泳ぐシャチも、そしてヒマラ ヤ山頂から深海底、成層圏から地下水まで、化学物質で汚染してしまった。気がつかないところで、
多くの生き物が死に絶え、生態系がずたずたにされている。だが、私たちは、化学物質がなければ毎
米国NGOの環境防衛基金によれば、米国内で使われている推定七万五〇〇〇種類の化学物質のう
日の生活ができないほどに、慣らされてしまった。
296
ち、基本的な毒性テストの結果が公開されているのはその四分の一にすぎない。私たちは化学物質と どう付き合っていくべきなのか。
* DDT︵有機塩素系農薬︶。PCB︵トランス油や熱媒体用の有機塩素化合物︶。TBT︵殺生物剤として船 底塗料に使われる有機スズ化合物︶ 。PCDD︵ダイオキシン類の一種︶ 。PBDE︵難燃剤の臭素化合物︶ 。 PFA︵耐熱・耐薬品性のフッ素樹脂︶。いずれも多くの人を汚染している。
化学物質に囲まれた生活
生まれてから死ぬまで、朝起きてから寝るまで、私たちはさまざまな化学物質や汚染物質にさらさ れている。胎児のときには胎盤とへその緒を通過して、生まれてからは母乳を通じて、母親からさま ざまな汚染物質が注ぎ込まれる。
生活の場である室内も汚染の巣だ。米国環境保護局︵EPA︶が約三〇〇〇人の被験者を対象に調 査した結果、日常的にさらされている汚染の九〇%までが室内で起きていた。屋内にはさまざまな化
学物質の発生源がある。消臭剤、洗剤、ドライクリーニングした衣類、カーペット、シャンプー、石
鹼、ローション、ヘアスプレー、ひげ剃りクリーム、化粧品、マニキュアとリムーバー、ブリーチ
⋮⋮。芳香を出すために使われている物質の九五%以上は、石油から合成された物質である。
食器、食品添加物、食品包装ラップなどのなかには、内分泌攪乱作用が疑われる化学物質︵環境ホ ルモン︶が入っているものもある。なべの焦げつきを防ぐテフロン加工や衣類を汚れにくくする表面
297 第 10 章 からだをむしばむ化学汚染
加工には、残留性が高いフッ素樹脂も使われている。カーテン、カーペット、家具、電気製品に延焼 を防止する臭素系の難燃剤が多用されている。
学校などで、新築、改修、改装で使われる建材、塗料、接着剤から、ホルムアルデヒ 自宅、職場、 *1 ドなどのVOCをはじめ各種の化学物質が放散され、﹁シックハウス﹂﹁シックビル﹂﹁シックスクー ル﹂症候群といわれて、体の変調の原因になる。
﹁吐き気がする﹂﹁頭痛がする﹂﹁めまいがする﹂﹁気分が悪い﹂﹁せき込む﹂﹁息苦しい﹂﹁目がチカ チカする﹂﹁喉が痛い﹂などの症状のほかに、﹁湿疹﹂﹁かゆみ﹂﹁アレルギーの症状の悪化﹂など、複 数の症状を訴える人が多い。
EPAの調査では、農薬や大気汚染物質の濃度は室内のほうが五∼一〇倍高い。室内の汚染源に加 えて、汚染大気が溜まりやすいからだ。室内汚染によるリスクは、ごみ処理施設周辺などによる屋外
の汚染と比べても高い場合がしばしばある。喫煙者が屋内にいる場合には、さらにリスクが跳ね上が る。
自動車の運転も化学物質を吸いながら走っているようなものだ。大阪府立公衆衛生研究所が二〇〇 四年に、使用中の国産車種一〇一台を対象にして車内の空気の汚染を調査したところ、合計二七五種 *2
の化学物質が検出された。高級車ほど汚染濃度が高かった。ただ、ホルムアルデヒド、フタル酸エス
こうした室内化学汚染は先進地域が圧倒的に多いが、発展途上地域でも室内大気汚染が深刻化して
テルなど、厚生労働省が指針値を定めている九物質の濃度はいずれも指針値以下だった。
298
いる。炊事に使う薪炭、石炭、家畜フンなどの燃焼に伴う煤煙、一酸化炭素などの有毒ガスによって、 世界保健機関︵WHO︶は年間一五〇万人が死亡していると推定する。
*1 VOC︵揮発性有機化合物 ︶ 常温で揮発しやすい有機化合物で、ホルムアルデヒド、トルエン、ベンゼ ンなどさまざまな種類の総称。塗料、接着剤、洗浄剤、芳香剤などに広く使われてきた。ガソリンからも揮発 して光化学スモッグの原因にもなる。
*2 フ タ ル 酸 エ ス テ ル 主として塩化ビニル樹脂︵塩ビ︶などのプラスチックに柔軟性を与える可塑剤。数 十種類がある。壁紙、床材などの建材、電線の被覆材、自動車の内装や家具などに使われるレザー。そのほか はきもの、衣類、包装用品、おもちゃなどにも使われる。
汚染が蓄積される人体
尿、血液、母乳などのサンプルから、人体に蓄積している汚染物質を測定するのは、環境汚染がど れだけ人体に及んでいるかを知る、もっともわかりやすい指標である。
人体汚染のなかでももっともショッキングなのは、胎児の時期に汚染がはじまることだ。出産が間 近になってくると、へその緒を通して酸素や栄養を含んだ血液が毎日三〇〇リットルも母体から胎児
に流れ込む。胎盤は汚染物質を通さないと信じられていたが、へその緒の化学分析が進むにつれて、
驚くほど多様な物質が胎児に移行していることがわかってきた。母体の有害物質は、次世代に引き継 がれ て い る の だ 。
米国の科学者や弁護士らで組織するNGO﹁環境ワーキング・グループ﹂︵EWG︶が、研究機関
299 第 10 章 からだをむしばむ化学汚染
新生児汚染﹂によると、すべて合わせて二八七種、平均二〇〇種もの物質が
と協力して二〇〇四年八∼九月に生まれた一〇人の新生児のへその緒からとった血液を分析した。そ
│
含まれていた。二〇六種までがへその緒から発見されるのがはじめての物質だった。
の報告書﹁体の負担
そのうち、一八〇種は発がん物質、二一七物質は脳や神経に有毒なもの、二〇八種は動物実験で先 天奇形や発達障害を起こす疑いのもたれる物質だった。このなかには、難燃剤や表面加工に使われる 有機フッ素化合物、多種類の農薬、石油などの燃焼物質も含まれている。
大部分の濃度は一〇〇〇億分の一から一兆分の一の極微量だが、とくにPCBや有機塩素系農薬で は一億分の一、難燃剤のポリ臭化ジェフェニールエーテル︵PBDE︶は一〇億分の一で、他の物質
よりも高かった。いずれも、食物、飲み水、大気から人体を汚染したものだ。
子どもをたくさん産んだ女性ほど、母乳中のPCBやダイオキシンなどの化学物質の濃度が低く、 先に生まれた子どもほど体内の汚染濃度が高いことがわかっている。つまり、母親の体内に蓄積され
た汚染物質が、それだけ血液や母乳を通して胎児や新生児に移行していることを物語っている。
最近話題になったのは、米国の科学記者デビッド・ユーイング・ダンカン氏が実験台になったもの だ。米国のナショナル・ジオグラフィック協会の支援で、二〇〇六年に分析機関が身辺の三二〇種の
化学物質について彼の尿と血液を検査した︵結果は﹃ナショナル・ジオグラフィック﹄誌の二〇〇六
その結果、一六五種が検出された。つまり、検査対象となった化学物質の半数以上が体内を汚染し
年一二月号に掲載︶。費用は一万五〇〇〇ドルかかったという。
300
ていた。PCBでは分析対象の二〇九種中九七種、殺虫剤では二八種中一六種で、フタル酸エステル
では七種のすべて、難燃剤のPBDEは四〇種中二五種、有機フッ素化合物は一三種中七種、重金属
は四種中三種、がそれぞれ見つかった。ここでもPBDEは、他の化学物質に比べて高い濃度が検出 され た 。
ヨーロッパでも、広域にわたる有害化学物質による体内汚染調査結果が、二〇〇四年にまとまった。 一七ヵ国から選出されたヨーロッパ連合︵EU︶議会議員ら四七人の血液を分析したところ、検査対
象となった一〇一種の有害な化学物質のうち、七六種類が被験者の血液中に存在することがわかった。 七五%もの高い率だ。
この血液検査の対象になった化学物質は、残留性、生物濃縮性、有毒性をもつ以下の五グループで ある。①DDTなどの有機塩素系化合物質、②PCB、③臭素系難燃剤、④フタル酸エステル、⑤P され て い た 。
FOSなどのフッ素化合物。すべての人が、この五つのグループのいずれかに属する化学物質で汚染
一人から検出された化学物質は五四種がもっとも多く、平均は四一種類だった。少なくとも一三種 の物質は全員から共通して検出された。そのなかには、フタル酸エステルやフッ素化合物のような今
日広範囲に使われている化学物質だけでなく、禁止されたはずの有機塩素系の殺虫剤も含まれている。
さらに、臭素系難燃剤の一種ヘキサブロモシクロドデカン︵HBCD︶が一人の血液から検出され た。ヨーロッパでこの物質が人の血液から発見されたのは、はじめてのことだ。難燃剤のデカBDE
301 第 10 章 からだをむしばむ化学汚染
図❶ 母乳中の有機塩素化合物濃度の経年変化 (μg/g)
7
β-HCH
ディルドリン 6
DDT
HCB 5
DDE
HCE
3
2 乳脂肪中濃度
4
PCB
クロルデン
1
0.12 0
0.08
0.04
2000 年度 1995 1990 1985 1980 1975 0 1970
(出典) 大阪府公衆衛生研究所『公衛研ニュース』第 26 号(2005 年 1 月)。
も最高濃度で検出された。
日本でも、大阪府公衆衛生研究 所が、一九七二年から三一年間に
わたって、府下在住の初産婦の母
乳中の有機塩素化合物︵DDTな
ど七種︶の濃度を調査した。それ
によると、一九七〇年代にはもっ
とも汚染レベルが高かった農薬の
β 㿌HCHは二五分の一に、DD
Tは一〇分の一、PCBは五分の
一に減少したものの、使用中止か
ら三〇年を経てもまだ母乳汚染が
つづいている ︵図❶︶ 。
これらの分析結果から、どこに 住んでいても多種類の化学物質の
汚染とは無縁でいられないことが
わかる。いずれも、量的には微量
302
図❷ 母乳および脂肪組織の難燃剤 PBDE による汚染例 (ppb) 40
35
30
20 含有濃度
25
15
10
5
米国 米国 米国 カナダ ドイツ スウェーデン フィンランド 英国 インディアナ州 サンフランシスコ テキサス州 2002 年 2000 年 2000 年 1996 年 2002 年 2001 年 1990 年代末 2002 年 0
(出典) Figure 3 in A. Schecter et al.( , August 2003),Table 1 in A. Mazdai et al. ( , July 2003),and Table 1 in O. Kalantzi et al.( , July 2004) .
だが、いまのところこれらの化学物質が乳幼児や私
難燃剤
たちの体、そして野生生物にどのような影響を及ぼ すかわかっていない。
│ 第四の地球汚染物質
一九七〇年代から普及してきた難燃剤は、DDT、 P C B、 ダ イ オ キ シ ン に 次 ぐ 第 四 の﹁ 地 球 汚 染 物
質﹂の地位を固めた。気がついたときには、地球の
すみずみまで汚染し、先進地域ではほとんどすべて
の人の血液や尿や母乳から検出されるまでに広がっ ていた ︵図❷︶ 。
難燃剤は、プラスチック、ゴム、木材、繊維など の可燃性物質を燃えにくくするために、添加したり
コーティングして使われ、有機系、無機系、リン系、
塩素系などなどさまざまな種類がある。
近年汚染が問題になっているのは、残留性の高い 有機系、とくに臭素を含んだ難燃剤のPBDEだ。
303 第 10 章 からだをむしばむ化学汚染
これは、毒性の強いダイオキシンと似た構造を持つ化合物で、二〇〇種類以上の種類の総称である。
臭素の量によって﹁ペンタBDE﹂﹁オクタBDE﹂﹁デカBDE﹂の三種類に大別される。単にPB DEといった場合には、その総量である。
日本では大部分が米国やイスラエルからの輸入で、日本難燃材協会によると一九九〇年代には九〇 〇〇トンも使われたが、二〇〇六年には二二〇〇トンまで落ち、そのほとんどがデカBDEだ。テレ
ビ受像器の外枠などに多用されていたが、最近は別の難燃材に代わってきた。世界では年間約六万∼ 七万トンが生産され、うち半分が米国で消費される。
PBDE は、先進工業国では家庭用品に広く使われている。家具や建材、カーペット︵裏打ち部 分︶やカーテンなどの繊維製品、テレビやコンピューターなどの電気製品などだ。米国では石油掘削
のときに、ペンタBDEを油井に注入してより比重の軽い原油を浮かせる目的で大量に使われた。前
出のダンカン記者が多種類の難燃剤で汚染されていた原因はわからなかったが、ひんぱんに航空機に
乗ることから、機内の内装にふんだんに使われている難燃剤を浴びた可能性が高いとみられる。
PBDEの人体汚染は加速している。国立環境研究所が、一九七〇年に採取して凍結保存されてい た人体の脂肪組織と、二〇〇〇年に採取した各一〇の検体を分析したところ、一九七〇年の脂肪から
は二九pp t ︵pp t は一兆分の一の単位︶が検出されたが、二〇〇〇年の検体からは約四四倍の一
二八八pp t も含まれていた。また、東京湾の海底の堆積物を年代ごとに採取して調べると、一九八 〇年前後から急速に増加、二〇〇〇年には一九七〇年の約三倍になった。
304
図❸ 大阪府およびスウェーデンにおける母乳中 有機塩素化合物(PBDEs)濃度の経年変化 (ppb)
大阪府
スウェーデン
4
2 脂肪あたり濃度
3
1
スウェーデンと大阪府の母乳の分析でも、一九七 二年以前にはPBDEはほとんど見つかっていない
が、一九九〇年代半ば以後、平均三年ごとに倍増す
るほど汚染の進行は急ピッチだ ︵図❸︶ 。
米国テキサス大学のアーノルド・シェクター教授 らの研究グループが、テキサス州内の四七人の母乳
を 分 析 し た と こ ろ 全 員 か ら P B D E を 検 出 し た。
ヨーロッパの母乳分析の結果と比較すると、一〇倍
から一〇〇倍も濃度が高かった。この調査対象で職
業上PBDEと接触した人はいなかった。
最高の濃度は四一九pp bで、二一%が一〇〇p p bを超えており、三二%の一五人が五〇pp bを
超えていた。これまで、各国で実施された母乳分析
のなかでも異常に高い数値で、動物実験で影響が現 れた濃度を超えている。
カリフォルニア大学の研究チームが、サンフラン シスコ在住の女性の乳房組織中に含まれる難燃剤の
305 第 10 章 からだをむしばむ化学汚染
2000 年 1990 1980 0 1970
PBDEs 濃度=3∼6 臭素化物の主要異性体 8 種類の合計値
(出典) 大阪府公衆衛生研究所『公衛研ニュース』第 23 号(2004 年 1 月) 。
図❹ 北極海を汚染する PBDE (ppb) 6
4
クロモンアザラシ
スウェーデンの母乳 2
2000 年 1990 0 1980
(出典) ES&T ; adapted from Ikonomou et al., 2002.
濃度を分析した結果も、ヨーロッパや日本の女性の五〇
倍も高かった。米国で母乳汚染が進行している理由はわ
かっていないが、PBDEの消費量が桁違いに多いため とみられる。
人体だけでなく、シロクマ、アザラシ、マッコウクジ ラなどの野生生物も汚染されている。オランダ自由大学
のヤコブ・デ・ボーア教授らの分析では、大西洋のイル
カの体内から七・七pp m ︵一pp m は一〇〇万分の一
の単位︶ 、アザラシから一・四pp m という比較的高濃
度のペンタBDEが検出された。また、スウェーデンの
調査では、北極海のクロモンアザラシが人間の母乳なみ
のPBDE汚染を受けており、難燃剤による海洋汚染が
北極海にまで広がりつつあることが明らかにされた ︵図 。 ❹︶
北米五大湖周辺に生息するカモメの卵からも高濃度の PBDEが見つかっている。カナダのブリティシュコロ
ンビア州の養殖場のサケや、同州沖のシャチからもPB
306
DEが検出される。カナダ漁業海洋省の専門家によると、過去三〇年間にバンクーバー沖に生息して
いた八五頭のシャチを絶滅寸前にまで追いやったのも、PBDEが関係している可能性があるという。
人体汚染の経路は解明されていないが、サンフランシスコ湾で海鳥のアジサシから六三pp m とい う高濃度のPBDEが見つかっており、PBDEを含んだ製品が焼却されて大気経由で海洋を汚染し、 魚介類と通じて人体に取り込まれた可能性が指摘されている。
PBDEの毒性、変異原性、発がん性は低いとされているが、はっきりしていない。とくに﹁ペン タBDE﹂﹁オクタBDE﹂の二種は生物に蓄積しやすい。動物実験では、脂肪中に蓄積して甲状腺
や神経系を侵し、ラットに大量投与した実験では、学習障害や行動異常など脳神経機能に回復不能な
影響を与えることが報告されている。後述する自閉症の急増と関係づける説もあり、胎児や新生児期 には重大な影響を及ぼすことが心配されている。
この二種については、世界的に規制が進んでいる。ヨーロッパでは二〇〇三年に、米国でも二〇〇 四年に使用が中止され、州ごとに段階的に禁止されている。日本では、二〇〇三年から業界が使用を
自主的に中止し、現在使われているのは残留性がほとんどないとされるデカBDEのみだ。
し か し、 先 進 地 域 で は 規 制 が 進 ん で も、 P B D E を 使 う 工 程 を 規 制 の 緩 い ア ジ ア な ど に 移 転 す る ﹁公害輸出﹂もあり、発展途上地域での汚染は進んでいる。愛媛大学の田辺信介教授らの調査による
と、アジア八ヵ国で行った母乳の分析では全試料からPBDEが検出され、とくに中国、フィリピン、
マレーシアなどで高かった。ただ、欧米よりは、まだ相対的に濃度は低いが、法的規制が未整備のア
307 第 10 章 からだをむしばむ化学汚染
ジアでは今後汚染が進む可能性がある、と同教授は警告している。 増える子どものがん
人体からは毒性の強い化学物質が数多く検出されているものの、それらと病気との因果関係がまだ 確定しているわけではない。分析機器の性能が飛躍的に上がり、極微量の物質まで捕捉できるように なって無用な不安をあおっている、とする批判もついて回る。
しかし、化学物質以外には該当する原因が見つからず、状況証拠から強く因果関係が疑われるもの は少なくない。化学物質の研究・啓発を進める米国のレイチェル・カーソン協会がまとめたデータ
︵表①︶によると、二〇〇〇年時点とカッコ内の前回調査年と比べて、これだけ増加した病気がある。
留性有機汚染物質︵POPs ︶と関連性が高いとする研究論文が世界的に増えている。
*4
米国では、がんの死亡率が全体として減少しているものの、悪性のリンパ腫である非ホジキンリン * 1 *2 *3 パ腫︵NHL︶、多発性骨髄腫、小児がんの発病率は増加をつづけている。これらのがんの増加は残
一三 米国立がん研究所︵NCI︶によれば、〇∼一五歳の小児がんの発病率は一九七五∼九八年に* 5 %増加し、毎年八〇〇〇人以上が小児がんと診断されている。なかでも小児の急性リンパ性白血病が *6
六二%、小児脳腫瘍が四〇%、NHLが二一%とともに増加している。がんは米国の子どもの死亡原
日本ではきちんとした小児がん患者の登録データが少ないが、小児がんが増加しているとする報告
因では、事故死に次いで二番目だ。尿道下裂など男児の先天異常も二倍になった。
308
表① 化学物質との関係の疑われる病気の急増
2002 年時点でカッコ内の 年と比較した増加率 病 名 ・自閉症
1000%(1980 年代) ・喘 息
160%(1980 年) ・尿道下裂
100%(1968 年) ・精巣がん
85%(1973 年) ・急性リンパ性白血病
62%(1980 年代) ・脳腫瘍・神経がん
50%(1980 年代) ・小児がん
26%(1975 年) (出典) 米国のレイチェル・カーソン協会。
は多い。厚生労働省の研究班によると、一九七四∼九四年の二
〇年間に六歳未満の悪性脳腫瘍が三五%も増加した。
子どもはタバコを吸わないし、職業上有害物に接することも ない。しかし、食物、母乳、水、空気を通じて、成人よりも多
量の汚染物質を取り込む危険が高い。体重あたりで比較すると、
子どもは成人より二倍の空気を吸い、三∼四倍の食物を食べ、
二∼七倍の水を飲む。しかも、成人よりも化学物質に対する感
受性が高い。小児がんの増加をすべて化学物質によって説明す
ることはできないが、その関連を示す間接的な状況証拠はいろ いろと挙がっている。
NCIの報告によれば、米国におけるNHLの全年齢層の発 病率は一九五〇年以来三倍になっている。とくに関連性が疑わ
れているのはフェノール系除草剤のなかで、もっとも大量に使
わ れ た、 二・ 四 ジ ク ロ ロ フ ェ ノ キ シ 酢 酸︵ 二・ 四 D ︶ と 二・
四・五トリクロロフェノキシ酢酸︵二・四・五T︶だ。
二・四・五Tは製造過程で不純物として副生されるダイオキ シン類を含んでいる。米軍がベトナム戦争の最中、反政府軍が
309 第 10 章 からだをむしばむ化学汚染
隠れる熱帯林を除去する目的で広範囲に散布したとき、この除草剤を浴びた住民の間で先天異常など
さまざまな健康障害を引き起こした。二重胎児として誕生したベトちゃんとドクちゃんも、除草剤に 含まれる物質が疑われている。
それにとどまらず、米国のベトナム退役軍人と除草剤工場の従業員、さらに農民の間でもNHLの 発病率が高い。二・四・五Tは、日本では催奇性などの疑いから一九七五年に、米国では一九七九年 にそれぞれ農薬として失効した。
米国では二・四Dは一九八五年に農薬登録が失効した。日本では経済産業省によって﹁第三種監視 化学物質﹂に指定されているが、使用は認められている。日本では主として水稲に使用され、米国で
も農業外の芝生、園芸、公園などで広く使用されている。しかし、環境保護団体グリーンピースは、
米国のこの除草剤を使用している人を対象とした疫学調査で、NHLの発病率がベトナム退役軍人と
同様に高く、二・四Dとの関係が認められるとして生産を全面中止するよう求めている。
このほかに、除草剤とNHLの増加を関係づける報告が、各国で発表されている。オランダでは職 業上フェノール系除草剤に曝露する男性のNHL発病率は、それ以外の人よりも二倍も高い。カナダ
でも職業上、農薬や除草剤に接する男性はNHLのリスクが高く、曝露期間と発病率が密接に関連し
ている。スウェーデンの森林伐採労働者で高濃度のフェノール系除草剤を浴びた人たちもNHLの発
南カリフォルニア大学の研究グループの調査によれば、芝生や園芸に除草剤を使用する家庭の子ど
病率が高い、という。
310
もは、そうではない家庭の子どもに比べて、七倍もNHLのリスクが高いとしている。ドイツの同様
の調査では、リスクは二・六倍になるという。NCIの研究者が、七四人のNHL患者と一四七人の
健康な人たちの血液を比較した結果、NHL患者のPOPs の平均血中濃度は、対照群の四・五倍も あっ た 。
多発性骨髄腫も、化学物質との関係が疑われている。米国での発病率は一九五〇年以来三倍となっ ている。この発病率は工業先進地域のほうが発展途上地域よりも高く、殺虫剤、塗料、溶剤、毛染め *7
剤との接触と関係が深いとする報告もある。
CDCによると、米国では自閉症と診断された子どもの数が、一九八〇年代の一万人あたり四∼五 人から一九九〇年代の三〇∼六〇人と一〇年間で一〇倍に増加している。カリフォルニア大学デイビ
ス校の神経発達障害のMIND研究所によると、一九八五年からの一〇年間で自閉症の数が二七〇% 増え、その後も増加をつづけている。
カナダ、ヨーロッパ各国、中国からも自閉症の急増が報告されている。横浜市港北区で横浜市総合 リハビリテーションセンターが行った調査でも、一九九二年以前は出生児一万人あたり四七・六∼八
五・九だったのが、一九九三年以降は九六・七∼一六一・三とほぼ倍増している。診断基準の変更に
よって増えたという見方もあるが、それだけではこの大幅な増加を説明するのは難しい。
この世界的な自閉症の急増で、原因論争は過熱している。MMR︵麻疹・おたふくかぜ・風疹の混 合ワクチン︶が疑われたこともあり、米国では予防接種の保存剤、有機水銀化合物のチメロサールが
311 第 10 章 からだをむしばむ化学汚染
表② 「残留性有機汚染物質(POPs)に関する ストックホルム条約」が指定している物質
PCDD(ポリ塩化ジベンゾ・パラ・ジオキシン) PCDF(ポリ塩化ジベンゾフラン) 非意図的生成物 (ダイオキシン類)
アルドリン,ディルドリン,エンドリン,DDT,ヘ プタクロル,クロルデン,HCB(ヘキサクロロベン ゼン),マイレックス,トキサフェン 農 薬 意図的 生成物
工業化学物質 PCB(ポリ塩化ビフェニル)類
原因として訴訟が起こされた。だが、いずれも原因とする決定的証拠は
なかった。しかし、PBDEのような環境中の化学物質を疑う報告が、 相次いで発表されている。
化学物質が子どもの脳の中で何を引き起こすのか、脳にどんな影響を 及ぼすのか、わかっていないだけに恐ろしい。新たな化学物質が市場に
投入された当初は、無害とされたものが後になって被害が明らかになり、 安全性がくつがえされた例は数多くある。
こうした危機感は世界的に高まっていて、米国環境保護局︵EPA︶ は一九九六年に﹁小児の健康保護のための国家戦略﹂を策定し、EUも
二〇〇三年に﹁ヨーロッパ環境・健康戦略﹂で、子どもを対象にした化
学 物 質 の 監 視 の 強 化 を 決 め て い る。 日 本 で も、 環 境 省 が 二 〇 〇 六 年 に
﹁小児の環境保健に関する懇談会﹂を立ち上げた。
*1 非 ホ ジ キ ン リ ン パ 腫 リンパ組織にできる悪性腫瘍。ホジキン病と非 ホジキンリンパ腫に大別されるが、日本では後者のほうが圧倒的に多い。ご
み焼却炉の周辺で発生率が高いという報告もある。
*2 多 発 性 骨 髄 腫 多 発 性 骨 髄 腫 と は 骨 髄 の が ん。 全 身 の 骨 髄 で が ん が 増 殖するのでこの名がついた。高齢者に見られる稀ながん疾病と考えられてい
312
たが、近年若年層で増加して環境有毒物質の関与が注目されている。
*3 小児がん 白 血 病、 脳 腫 瘍、 神 経 芽 細 胞 腫、 骨 肉 腫 な ど 多 く の 種 類 が あ る。 白 血 病 に 次 い で 脳 腫 瘍 が 多 い。成人と違って全身にできることが多い。胎児や乳幼児の時期に曝露した化学物質との関係が注目されてい る。
*4 POPs ︵残留性有機汚染物質 ︶ PCB、DDT、ダイオキシンなど一二種の環境中での残留性が高い 化 学 物 質 の こ と。 そ の 規 制 の た め に、 二 〇 〇 一 年 五 月﹁ 残 留 性 有 機 汚 染 物 質 に 関 す る ス ト ッ ク ホ ル ム 条 約 ﹂
﹁血液のがん﹂といわれる白血病の一種。悪性化した未熟なリンパ球が骨髄や血液
︵通称、POPs 条約、表②︶が採択され、二〇〇四年五月に発効した。日本は二〇〇二年に批准。 で異常に増加する病気。
*5 急性リンパ性白血病
*6 尿道下裂 男 児 の 先 天 異 常。 尿 道 の 形 成 が 未 熟 な 状 態 で、 ペ ニ ス が 下 向 き に 曲 が っ て い た り、 尿 道 が 短 く尿の出口の位置が先端にない。
*7 自閉症 社 会 性 や 他 人 と の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 能 力 の 発 達 が 遅 れ る 発 達 障 害 の 一 種。 症 状 は さ ま ざ ま で 明確に診断がつかない場合も多い。驚異的な記憶力など特異な能力を示す人もいる。原因は不明とされている。
有害化学物質の地球汚染
いまや、化学物質は人体のみならず地球のすみずみに広がっている。もはや、世界のいかなる場所 にすむ生物も、化学物質の汚染を免れることは不可能だ。
大気や水中に排出された化学物質や汚染物質は、風や海流に運ばれ海中への降下や蒸発を繰り返し ながら長距離を移動していく。この過程で生物に取り込まれて食物連鎖に入り込むと、化学物質は高
濃度に濃縮されていく。西部太平洋の調査では、海水中のDDTが、動物プランクトン イワシ
⇒
イ
313 第 10 章 からだをむしばむ化学汚染
⇒
カ
⇒
スジイルカと食べ継がれていくうちに、イルカの体内では海水中の濃度の三七〇〇万倍にも濃縮
されていた。食物連鎖では人間もイルカとほぼ同じ地位にいる。
とくに、高緯度地方の冷たい海域では、下降気流によって大気から海水中に化学物質が降下しやす く化学物質の溜まり場になりやすい。沿岸から遠く離れて回遊する、マグロ、カツオ、イルカ、クジ
ラなどが高濃度の化学物質で汚染されているのも、これで説明ができる。厚生労働省が二〇〇三年に
発表した﹁鯨肉由来の食品汚染の実態調査﹂によると、南氷洋のミンククジラの脂肪組織からPCB が平均〇・〇四pp m 、メチル水銀が〇・〇一pp m 検出されている。
北極や南極にすむシロクマ、シャチ、アザラシ ︵図❹︶などの動物や汚染された野生動物を食べて いるイヌイット︵エスキモー︶ら北極地方の先住民からも高濃度の化学物質が検出される。彼らの血
液中から検出されたPCBは、先進地域の人々の五〇倍にもなる。カナダ北部に住む先住民の血中の
有機塩素濃度は、南部の非先住民よりも二倍から一〇倍濃度が高いという調査もある。
WWFは、最近の研究報告などをもとにして、化学物質が原因と疑われる北極地方の野生生物の異 常を発表した。ホッキョクグマでは免疫系やホルモン系の異常、骨のカルシウム量の減少などが起き
ている。ノルウェー北部のスバールバル諸島に生息するホッキョクグマからは、PCBや有機塩素系
農薬が検出され、生殖器の発達や精子の産生に関わるテストステロンというホルモンの分泌量が下 がって、子孫が残せなくなる心配も出ている。
アシカ・アザラシ類では、骨格の変形、繁殖行動の異常、皮膚病、免疫系の障害、腫瘍、甲状腺ホ
314
ルモンのレベルの低下、白血球数と赤血球数の
変化などが見つかった。とくに、ゴマフアザラ
シからは難燃剤のPBDEの高濃度の汚染が明
らかにされ、血球数の異常との関係を指摘する 研究報告もある。
ん、生殖・免疫の異常が見つかった。また、シ *
ロカモメなどの鳥類でも高濃度のPCBやPF
OSに汚染され、抱卵期に親鳥が抱卵を放棄し
たり、孵化しない卵が増加している。
南極でもさまざまな化学汚染が報告されてい る。南氷洋のイルカやクジラではPCB、オッ
トセイやアザラシでは水銀の濃度が高い。アデ
リーペンギン、トウゾクカモメ、アホウドリか
イルカやクジラではPCBやDDE︵DDT
らも、塩素系有機化合物が微量だが検出される。
315 第 10 章 からだをむしばむ化学汚染
過去二五年間に水銀の蓄積量が二∼四倍に なったベルーガ︵シロイルカ︶では、腸管のが
アデリーペンギンやトウゾクカモメまでも PCB や DDT で汚染されている (南極半島のペンギン島で)。
の代謝物︶などの有機塩素系化合物の九〇%以上が、体外に排出されずに体内に蓄積する。イルカの
研究では明らかに雌と雄とで汚染に差がある。オスは年齢とともに脂肪中の化学物質の濃度が上昇す るが、メスでは母乳として体外に排出できるので濃度が低下する。
一般に、陸上動物は分解酵素の働きが強く、とくに人間は肝臓中の酵素の働きで有害物質を分解す る能力が高い。これに対して、イルカなどの海洋哺乳動物は、有害物質の分解酵素の働きがないかき
わめて弱く、有害物質を分解できず体内に高濃度で蓄積することにもなる。その結果、さまざまな障 害が発生することにつながる。
地球のいたるところに拡散した化学物質は、その半減期が数十年から数百年に及ぶものも少なくな い。ということは、今後何世紀にもわたって、人体を含めて生物が汚染物質の貯蔵所になることを意 味す る 。
* パーフルオロオクタンスルホン酸塩の略。有機フッ素化合物の一種で、難燃剤として多用途に PFOS 使用されてきた。人体や生物に高濃度で蓄積し、広く環境中に残留していることが明らかになり、毒性が注目 されている。
地球最悪の汚染地域
汚染の悲劇は数多くあった。そしてまだつづいている。その最大なものは、熊本県で発生した有機 水銀中毒の水俣病であろう。一九五六年五月一日に公式に病気が確認されて以来、認定患者数は約二
316
三〇〇人、うち死亡者は約一六〇〇人を数える。二〇〇七年一月時点で、患者認定申請者は約五〇〇
〇人、約一二〇〇人が損害賠償を求めて提訴している。その後も一九六〇年に、新潟県阿賀野川流域 でも同様の有機水銀中毒の発生が確認され、新潟水俣病と呼ばれている。
一九六八年には、福岡県を中心とした西日本一帯でカネミ油症事件が発生した。約一万四〇〇〇人 が被害を訴えたが、認定患者数は二〇〇六年末現在で約一九〇〇人。カネミ倉庫が販売した食用の米
*1
ぬか油の製造工程で、加熱用に使われたPCBが製品の油に混入し、それを食べた人々に、皮膚の発 疹、肝機能障害などさまざまな症状を引き起こした。
物質は、PCBに含まれていたポリ塩化ジベンゾフラン︵PCDF︶とコプ その後の調査で、原因* 2 ラナPCB︵CO㿌PCB︶であることが明らかになった。この二つとも、ダイオキシン類と総称さ れて い る 。
イランでは一九七一∼七二年に、メチル水銀を含む薬剤で殺菌処理した小麦の種もみを誤って食べ た人が中毒にかかり、六五三〇人が入院して四五九人が死亡した。一九七六年にはイタリアのセベソ
で化学工場のタンクが爆発して、大量のダイオキシンが飛散した。約三万七〇〇〇人が汚染を受け、
その後がんが多発したり、生まれた子どもの男女の性比が狂って女児が異常に多くなったなどの被害 が報 告 さ れ た 。
日本や欧米の先進地域の多くの国々では、この二〇年間、一部を除いて環境汚染はかなり改善され た。しかし、旧ソ連圏では社会主義時代の深刻な汚染を引きずり、規制や対策技術が遅れた発展途上
317 第 10 章 からだをむしばむ化学汚染
地域では、依然として汚染が進行している。
この現状は、発展途上地域の環境汚染の解決を目指す、国際的な環境保護団体ブラックスミス研究 所︵本部ニューヨーク︶がまとめた、﹁世界でもっとも汚染の深刻な一〇地域﹂をみるのがもっとも わか り や す い 。
ハーバード大学、MIT︵マサチューセッツ工科大学︶などの専門家が参加して、世界三〇〇ヵ所 以上の候補地点から、その深刻さや影響範囲の大きさ、健康被害の程度などを指標にして七年間かけ
て絞り込んだものだ。この一〇地域で計約一〇〇〇万人が、環境汚染による健康被害に苦しんでいる と推 定 さ れ る 。
ほとんどは、鉱工業や軍事産業によって引き起こされた汚染だ。旧ソ連からはウクライナのチェル ノブイリをはじめ五ヵ所が選ばれ、共産主義時代の﹁負の遺産﹂がまだ残されていることがわかる。 残りは中国、インドなどの途上国である。
一九八六年に原発史上最悪の事故を起こしたチェルノブイリでは、広島型原爆の一〇〇倍もの放射 能が撒き散らされ、少なくても五五〇万人が被爆したと推定される。事故によって直接死んだのは三
一人だったが、二〇〇六年に発表されたWHOの報告書は、﹁最終的には、最大で九〇〇〇人が死亡
する可能性がある﹂と予測している、二〇〇二年ごろから〇∼一四歳の子どもたちの間で甲状腺がん
このほか、キルギスのマイルースーでも放射能汚染がつづいている。旧ソ連で最初の原爆製造に使
が急増して、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアでこれまでに約四〇〇〇人ががんと診断された。
318
われたウランを精錬した工場のある地域だ。一
九四六∼六八年に約一万トンのウラン鉱が精錬
され、残された一九六万立法メートルのウラン
鉱滓の残留放射能が周辺を汚染しつづけている。
この鉱山一帯は、土地が肥沃で中央アジアでは
もっとも人口密度の高い地域である。被爆者は
二万三〇〇〇人にのぼると推定されている。二
319 第 10 章 からだをむしばむ化学汚染
〇〇二年のマイルースー川の氾濫では三〇万立
法メートルの鉱滓が流れ出し、汚染を広げた。
されている人口は九万人にものぼるという。児
粉塵、作物なども汚染され、高濃度の鉛にさら
は日本の基準の三〇倍近い濃度である。飲料水、
り四三一〇グラムの鉛が検出されている。これ
最新の調査では、住宅街の土壌から一キロあた
老朽化した製錬所から漏れる鉛の汚染が深刻だ。
極東ロシアの日本海沿岸にあるルドナヤプ リースタニと隣のダルネゴルスクの二つの町は、
チェルノブイリ事故で人々が避難してゴーストタウンになった原発労働者の町 プリピャチ。住民の多くが高濃度の被曝をした(ウクライナで)。
童の鉛の血中濃度は、WHOの基準の八∼二〇倍にもなり、健康被害が心配されている。
モ ス ク ワ 東 方 の ジ ェ ル ジ ン ス ク は、 冷 戦 時 代 に サ リ ン、 V X ガ ス、 青 酸 ガ ス、 フ ォ ス ゲ ン、 マ ス タードガスなどの化学兵器を製造したロシア最大の化学工場地帯だった。同市環境局の発表によると、
一九三〇∼九八年に三〇万トン近い化学物質を含んだ廃棄物が地中に埋められ、あるいは投棄された。
これが川などに流れ出して広い範囲が汚染され、市民が日常的に使っている地下水からは一九〇種に 及ぶ化学物質や重金属が検出されている。
市民はさまざまな健康上の問題を訴えており、被害は三〇万人に及んでいる可能性がある。ジェル ジンスク市の男性の平均寿命は四二歳、女性は四七歳。全国平均の男性五九歳と女性七二歳に比べて
も異常に短い。これらの工場の大部分は、現在では操業を停止しているが、工場の地下水の汲み上げ
が止まって地下水位が上がるにつれて、埋めた化学物質がさらに地下水に流入している。
シベリア中央部にあるロシア最北の都市ノリリスクは、一九三五年にできた古い工場地帯だ。世界 最大のニッケル精錬工場をはじめ、コバルト、パラジウム、プラチナなどの金属の大型精錬施設があ
る。だが、膨大な量のカドミウム、銅、ニッケル、砒素、セレン、亜鉛などが大気中に排出され、ロ
シアでももっとも汚染された町といわれている。空気はつねに硫黄のにおいがして、雪も降りはじめ は真っ黒になるという。
一三万四〇〇〇人が健康被害を受けているとされ、とくに子どもの病気が多発して、子どもの死因 の一五%は呼吸器疾患だ。また、早・流産も他地域に比べてきわめて多い。この町は、一九九一年の
320
ソ連解体後も外国人の立ち入りを禁止している九〇の都市の一つで、実態は依然としてよくわかって いな い 。
中国の山西省臨 汾 は、中国の出炭量の三分の二を占める石炭産業の中心地だ。だが、中国のエネ ルギー需要の急増をまかなうために、炭鉱は法律の規制も無視して操業をつづけている。もともと水
資源の乏しい一帯だが、製鉄所やタール製油所が勝手に水路を変えて工場内に引き込んで、付近の田
畑が干上がる被害も出ている。水道の給水はきびしく制限され、省都の太原でも一日の給水時間が二 ∼三時間ということも珍しくない。
。市当 そのために井戸に頼る家庭も多いが、地下水も高濃度の砒素に汚染されている ︵本書第5章︶ 局の調査では、市内の井戸水の五二%は砒素に汚染されて飲用には危険とされ、砒素の中毒である皮
膚や血管の異常、高血圧、膝から下が黒ずむブラックフット病などの症状が現れる人が増えている。 中国政府も、臨汾を国内の飲み水汚染が深刻な五地域の一つに指定した。
国家環境保護総局の﹁主要都市環境管理・向上報告二〇〇三年﹂によると、臨汾は中国で大気汚染 のもっとも深刻な都市にも挙げられている。大気中の亜硫酸ガス濃度は、国際基準の数倍にもなり、
呼吸器疾患や肺がんの発生率がきわだって高い。子どもの間では鉛中毒の症状を訴えるものが多い。
市民の抗議行動も目立っているが、工場を擁護する当局の腐敗がひどく早急な改善や解決は望みが薄 い、とブラックスミス研究所の報告書ではさじを投げている。
インドのタミルナドゥ州ラニペットは、チェンナイ︵旧マドラス︶近郊の工業都市だ。集中する皮
321 第 10 章 からだをむしばむ化学汚染
革工場からの廃液中のクロム化合物で土壌や地下水に深刻な汚染が起きている。しかも、二〇年以上
に及ぶ工場の操業で、一五〇万トンを超える廃棄物が町の各所に積み上げられて水を汚染している。 汚染の被害人口は三五〇万人に達するという。
南部アフリカのザンビアのカブウェは、首都ルサカから北に一五〇キロほど離れた鉱山地帯の真ん 中にある。二〇世紀はじめに二〇%もの鉛を含む鉱石が発見されて以来、町は鉛鉱山で栄えてきた。
しかし、精錬所から排出される大量の鉛や他の重金属を含んだ大気汚染が町を覆った。積み上がった
鉱滓の山から有害な物質が流れ出して水を汚染し、被害は二五万人にも達すると推定されている。
ペルーのリマ北東のラ・オロヤ鉱山も状況はまったく同じで、大気からはWHOの定める基準の三 ∼四倍の鉛が検出されている。町の周辺の森林は工場の出す有害な排煙で一面に枯れ、かつての足尾
銅山のような光景を呈している。ここでの被害人口は三万五〇〇〇人という。
カリブ海ドミニカ共和国のハイナでも、鉛汚染によって八万五〇〇〇人に被害が及んでいる可能性 がある。ここでは、かつて操業していた鉛バッテリーのリサイクル工場が汚染源だ。ここでも、被害
ポリ塩化ジベンゾフランの略称で、ダイオキシンとほぼ同じ毒性をもち、規制の対象になっ
は子どもに集中している。 *1 PCDF ている。
*2 コプラナPCB PCBには、理論上は二〇九種類の異性体が存在する。そのなかでも平面構造のもの をコプラナPCBと呼ぶ。これはダイオキシンに似た性質をもち毒性が強いため、ダイオキシン類として排出
322
が規制されている。
広がる﹁死の海域﹂
陸上だけでなく、海洋の汚染も相変わらず進行している。世界人口のほぼ四〇%が、陸上面積の七 % しかない海岸地帯に住む。この地域の人口密度は、一九九〇∼二〇〇五年に一・五倍に増えた ︵本
書第2章︶ 。この人口の急増が、陸上から流れ込む都市や産業の廃水や廃棄物の急増となって跳ね返っ
てき た 。
国連環境計画︵UNEP︶は二〇〇六年に、世界および地域ごとの海洋汚染の状況をまとめた報告 書﹁海洋環境の現状﹂を公表した。POPs 、石油、重金属、放射性物質、都市下水、栄養塩類など 九つの汚染指標に基づいて海洋環境の現状を評価したものだ。
東南アジアや南太平洋、とくにタイ、マレーシア、パプアニューギニア、ソロモン群島などでは、 農業やマラリア駆除のために散布された農薬による汚染が進んでいる。サハラ砂漠以南アフリカのイ ンド洋沿岸部でも同様の問題が起きている。
石油を含む廃棄物の海洋への流入量は、一九八五年と比較すると三七%も減少した。世界的な規制 強化で、タンカー事故やタンカーの操船中の排出が減ったことが大きい。しかし、ロシアの北極海に
注ぐ河川、バルト海、フィンランド湾、ペルシャ湾などは依然として石油汚染がつづいている。沿岸
部や港湾での局地的な汚染も、バングラデシュ、インドネシア、ナイジェリア、パキスタンなどで進
323 第 10 章 からだをむしばむ化学汚染
行し て い る 。
重金属汚染は、以前に比べて多くの国で規制されている。しかし、水銀のような一部の重金属は、 経済成長に伴う新興工業国の需要増があり、また、化石燃料に含まれる重金属が燃焼によって大気中 に放出される量が増えている。
電子工業が急拡大している東アジアでは、電子関連の廃棄物が急増している。電子工業には一〇〇 〇種以上と推定される化学物質が使われており、有害なものも少なくない。とくに、携帯電話などに
使われるバッテリーは毎年九〇〇万個も廃棄され、リサイクルされないまま多くの化学物質が海洋に 廃棄されているとみられる。実態はほとんどわかっていない。
︵死の海域︶は世界で一 UNEPによると汚染による酸欠状態で生物のすめない﹁デッドゾーン﹂ 四六ヵ所あり、一九六〇年以降一〇年ごとに倍増している。原因の多くは、農地に散布された窒素、
リン、堆肥などの肥料や、燃焼の副産物である窒素酸化物が流入して富栄養化を引き起こし、プラン
クトンや藻類が爆発的に繁殖して酸素が失われるためだ。一九九〇年代半ば以来、海洋への窒素分の 全流入量は一四%増加した。
窒素分の流入は、米国東海岸、ヨーロッパ、中国、日本、ブラジル、オーストラリア、ニュージー ランドなどに集中している。近年は発展途上地域にも広がっている。たとえば、中国、マレーシア、
タイ、ベトナム、カンボジアのアジア五ヵ国からだけで、年間六〇万トンもの窒素分が南シナ海に流 入して、酸欠海域が広がっている。
324
世界最大のデッドゾーンは北海・バルト海である。流れ込む化学肥料、化石燃料の燃焼に伴う窒素 酸化物、都市下水の流入などが重なって起きる。デンマークとスウェーデンにはさまれたカテガット
海峡では一九七〇年代以来、プランクトンの異常発生による魚の大量死に悩まされてきた。
一九八六年にノルウェーのロブスター漁が壊滅したことをきっかけに、デンマーク政府は全力を上 げてこの対策に取り組み、好転の兆しがみえてきた。ところが、一九八八年には海洋汚染が原因とみ られるアザラシの大量死があり、生息頭数が半減してしまった。
米国には四三ヵ所のデッドゾーンがあり、とくにメキシコ湾が世界で二番目に大きい。夏になると、 二万一〇〇〇平方キロの広大な海域から魚などの海洋生物が姿を消す。メキシコ湾は、米国の年間水
揚量の一八%を占める重要な漁場だ。このところ、エビなどの漁獲量が大きく落ち込んでいる。米国
最大の農業地帯であるミシシッピ川沿いの農地からは、大量の化学肥料が川に流入しメキシコ湾に運
ばれて酸欠を引き起こす。一九七〇∼二〇〇〇年に同湾に流入する窒素は三倍以上になった。
全世界における化学肥料の使用量は過去二五年間で一〇倍以上増加し、一億四五〇〇万トンにもの ぼり、この急増と並行して世界中で酸欠海域が増えた。しかも、世界の沿岸湿地帯は、過去一〇〇年
間でその半分が都市開発や農地造成で失われたほど急減しており、水中の窒素を濾過する浄化能力が 衰えていることも酸欠海域拡大の原因だ。
人間の海洋への圧力はとどまるところがない。東南アジアのおよそ九割のサンゴ礁とマングローブ 林が養殖池や伐採などで脅かされている。西アフリカでも湿地帯の半分が都市の膨張や農地拡大で消
325 第 10 章 からだをむしばむ化学汚染
失した。あと四〇年ほどで人類が九〇億人になったとき、海はどうなっているのだろうか。 化学物質とどう付き合うか
人類は、石器、青銅器、鉄器を経て、いまや石油時代の真っただ中にいる。かつて、医薬品や染料 を細々とつくっていた化学産業は、鉄を抜いて最大の素材産業へと脱皮、身のまわりのあらゆる場所
に石油を原料とする化学製品があふれ返っている。もはや、日常生活のなかから化学合成品と無関係 なものを探すほうが難しい。
いまでこそ、環境汚染の原因とされ厄介ものになっている化学物質も、誕生当時は使う側にとって は理想的な物質だった。農業の歴史は病害虫と雑草との戦いだった。これを一挙に解決したのは農薬
である。農薬がなくなったら、世界人口の三分の一はたちまち飢えるという試算もある。だが、いま
や人体ばかりか地球のすみずみまでも汚染し、害虫や雑草のほうは農薬に抵抗性を獲得して効かなく なり、新たな農薬が必要になってイタチごっこがつづいている。
PCBは人類が長く追い求めた﹁燃えない油﹂であり、難燃材は防火・耐火のエースとして登場し た﹁燃えにくくする物質﹂だった。だが、燃えないために、回収した後の処理に困り果てている。冷
やしても熱しても丈夫なフロンガスがなかったなら、これほど安価な冷蔵庫やエアコンが普及しただ
ろうか。だが、その気体が数十キロ上空のオゾン層を破壊するのを心配しなくてはならなくなった。
化学物質の便利な部分にのみ気を奪われていたが、そのマイナス面や危険性については、公害や労
326
働災害の問題に発展するまではとんと無関心だった。ただ、消費者の化学物質の害への関心の高まり
から各国政府は以前よりも﹁化学商品の毒性再評価﹂を進め、一部の物質では国際的な情報共有や規
制の条約化も行われた。米国のように、定期的に人体汚染を追跡調査している国も出てきた。だが、
評価が進むよりも新たな化学物質の市場投入量が大きく、各国の毒性判定が行われているのは、全化 学物質の二∼三割にすぎない。
一九〇〇年当時、先進国でがんは非感染症の死亡原因の二∼三%にすぎなかった。だが、現在では 多くの国でトップに踊り出て死亡原因の二割を占め、世界的に増えつづけている。日本でも、事故と
自殺を除けば、五歳から八九歳までの全年齢層でがんが死亡原因の一位だ。一九七〇年以来、がん死
亡者は二・七倍にもなった。他の先進地域でも、同じように若年層でがんが死亡原因の上位を占め、 寿命が伸びたことだけでは説明がつかない。
動物実験で発がん性が証明されていることからみても、化学物質が大きく関与していることは間違 いない。また、先天異常はその評価が難しいが、一九六〇年代以来発生率が二倍になり、これにも化
学物質が関係している証拠が挙がっている。花粉症、アトピーなどのアレルギーも先進地域では急増 し、日本でも国民の約三分の一が発症するという異常事態だ。
何といっても最大の問題は、いつまで化学物質のつくり放題、使い放題を放っておくのか。それは、 私たち末端の消費者の一人一人に投げ掛けられている緊急課題であろう。ハイテク工場によって広範
な地下水の化学汚染を引き起こした米カリフォルニア州のシリコンバレーでは、住民が自衛に立ち上
327 第 10 章 からだをむしばむ化学汚染
がり、環境汚染や工場の排出物を監視し、違反した工場を次々に操業停止に追い込んでいる。オゾン
層を破壊するフロンガスの大幅規制を実現したのは、ヘアスプレーの使用を拒否した市民パワーで あっ た 。
世界で第二位の化学工業国、日本もそろそろ世界に貢献することを考える時期がきているのだろう。 日本よりも経済力が小さく、化学物質の消費も少ない国々がその情報収集や安全性の試験に莫大な予
算を投じている。日本はそうした努力にただ乗りしてきた、とする国際的批判も聞こえはじめた。
カーソン女史は﹃沈黙の春﹄の結びでこう語っている。﹁現代人はやたらに毒物をふりまき、本質 的なものを見失ってしまった。やたらと棍棒を振りまわした洞穴時代の人に比べて何が進歩したのだ
︻参考文献︼
ろうか﹂。
﹃化学物質の逆襲 │ 汚染される人体・環境・地球﹄小島正美他、リム出版新社、一九九九年 │ クスリと化学物質﹄松下一成、柘植書房新社、一九九九年 │ シックカーは怖い﹄中野博、現代書林、二〇〇六年
﹃蝕まれる人体
│
│
地 球 誕 生・ 生 態 系・ 現 代 文 明 に お け る 化 学 物 質 汚 染 の 系 譜 ﹄ 安 原 昭 夫、 合 同 出
化学物質汚染から救うために﹄テッド・シェトラーほか︵松崎早苗・中山健夫監訳︶、藤原書
﹃新車は化学物質で汚染されている!
﹃胎児の危機
店、二〇〇二年
│ ﹁悪魔の水﹂から環境ホルモンまで﹄常石敬一、洋泉社、二〇〇〇年
﹃しのびよる化学物質汚染 版、一九九九年
﹃化学物質は警告する
328
おわりに
それぞれの人には、それぞれの夢があるだろう。﹁大型のテレビに買い換えたい﹂﹁軽自動車からS UVに乗り換えたい﹂﹁エアコンを増やしたい﹂﹁一家で旅行をしたい﹂⋮⋮日本の五〇〇〇万世帯が、
こうした夢をかなえるたびに、資源やエネルギーの消費は増え、二酸化炭素や廃棄物は増えていく。
人間の行動を説明するいくつかの法則がある。経済学でいう﹁合成の誤 ﹂は、それぞれの当事者 が最善と考えた行動が、全体で合成されると悪夢になるということだ。私たちは、今年よりも来年は
もっと豊かになると信じて働いてきた。だが、多くの人が豊かさを求めて同じ行動をとれば、それが さらに環境を悪化させるとは考えていないだろう。
私たちの多くは、米国型の高度消費社会を漠然とした理想にしてきたのではないか。家電製品や電 子機器に取り囲まれ、広い芝生の庭つきの家に住んで、夏は涼しく冬は暖かく、自動車で移動する生
活だ。﹁過去五〇年間に米国一ヵ国が消費した資源エネルギーは、全人類がその発祥以来使った総計
よりも大きい﹂というほど、莫大な消費のうえに築き上げられた生活様式である。
日本は住宅を除けば、この理想をほぼ実現した家庭が多いと思われる。これを世界中の人が目指し たらどうなるだろうか。世界では、何十億人もがこうした生活を夢見ているだろう。
329
さらに﹁生活価値の非可逆性﹂の法則がある。つまり、一度獲得した生活水準は、自分ではなかな か下げられないということだ。二酸化炭素排出量を減らすために、エアコンや自動車を手放すことが、 いかに難しいかということでもある。
バブル全盛期に、一部の経済学者が﹁経済のゼロ成長こそが環境にやさしい﹂と主張した。バブル の崩壊で、めでたくゼロどころかマイナス成長になった。ところが、経済を何とかしろという大合唱 のなかで、﹁環境にやさしい﹂なんていう声はささやきにもならなかった。
貧しい途上国の生活水準を引き上げることが先進国の使命だとして、中国やインドなどに援助をつ づけてきた。たしかに経済は急激に成長を遂げたが、資源、エネルギー、食糧などの高騰や環境悪化
の引き金になった。発展途上地域のなかに、今後ますます経済的に発展する国が出現するのは間違い
ないだろう。発展途上地域の二酸化炭素の総排出量が、先進地域を抜くのは時間の問題だ。
日本は、第二次大戦後、世界の最貧国から最富裕国にいっきに駆け登った。日本の後を追って、韓 国と台湾、さらに中国、ロシア、ブラジル、インド、さらにはアセアン諸国も高度消費社会の階段を
登っている。だが、地球はこれだけの消費に耐えられるほど、資源にも環境容量にも充分な余裕があ るの だ ろ う か 。
経済広報センターの﹁地球温暖化に関するアンケート﹂︵二〇〇六年五月︶によると﹁地球温暖化 について関心がある﹂という答えは九六%、﹁京都議定書を知っている﹂のは八五%。もしも同種の
調査を世界的に実施したら、日本はダントツの一位であろう。一方で、博報堂の﹁地球環境を考えた
330
生活意識調査﹂︵二〇〇六年三月︶によると、﹁地球環境の保護につながる行動をかなり実行してい る﹂は四・四%にすぎない。
日本の温室効果ガス排出量は年々増加をつづけて、京都議定書で決めた一九九〇年の排出量を基準 に六%減の公約を守るのは不可能だ。政府は地球温暖化防止﹁国民運動﹂を展開して、日常生活のこ
まごました省エネ効果を推奨している。その一方で、景気回復の足固めとして消費の拡大を強調する。
第二次大戦直前の﹁国民精神総動員運動﹂の生活簡素化運動で、政府は﹁ぜいたくは敵だ﹂という ポスターを各所に張り出した。そうしたら、﹁敵﹂の前に﹁素﹂という文字を書き入れて回った人が
いたそうだ。本音としては﹁ぜいたくは素敵だ﹂と考えている人が、多いはずだ。
将来予測が各種発表されているが、世界人口が八〇億人に達する二〇二〇年代に、温暖化にしても、 生態系の悪化にしても、水産、木材、水資源などの天然資源にしても、さまざまな影響が現れてくる
の で は、 と 筆 者 は 予 想 し て い る。 そ の 影 響 が 破 局 的 な 様 相 を 呈 す る﹁ 地 上 へ の 激 突 ﹂︵ ハ ー ド ラ ン
ディング︶になるのか、人間の英知が働いて﹁軟着陸﹂︵ソフトランディング︶になるのか、の先行 きがみえてくるだろう。
食糧、エネルギー、原材料などの資源の海外依存度が異様に高い日本は、独自でソフトランディン グ を 目 指 し て も、 世 界 的 に 何 か 大 き な 破 局 的 な 現 象 が 起 き れ ば、 た ち ま ち 巻 き 込 ま れ て ハ ー ド ラ ン
逆に、日本のような巨大な輸入国で需給の変化が起きれば、世界市場に大きな影響を及ぼさずには
ディングにならざるを得ない。
331 お わ り に
おかない。一九九三年の冷害に端を発した翌年のコメ騒動で、日本が二五〇万トンのコメの緊急輸入
を発表するや、コメの貿易価格は産地のタイや米国で四ヵ月ほどの間に二倍以上に急騰し、東南アジ
アの小売り・農村米価は七∼三〇%も上昇したことを忘れるわけにはいかない。経済大国の日本は、 国際社会に大きな責任を負っている。
世界的にみれば、﹁ソフトランディング﹂が成功する一部の国と、失敗するその他多くの国という 色分けになるのではないか。欧州を中心に、いくつかの国がこうしたソフトランディングのシナリオ
づくりに乗り出している。日本の﹁軟着陸シナリオ﹂のコンセンサスが、一刻も早くできることを切 に願 っ て い る 。
環境問題の解決には、建前論、本音論を含めて無数の提案がなされている。そのなかに実現可能な 即効性のあるものは見あたらない。生活の向上は、人間がその発祥以来努力してきた本性の部分にあ
り、解決の即効薬があるとは思えない。筆者は解決策を求められたときにこう答えることにしている。
﹁長年の不摂生がたたって全身ボロボロの患者に特効薬はありません。地道な節制の努力でしょう﹂。 でも、節制できる人がどれだけいるのだろう。
日本はタイタニック号ではないだろうか、と思うことがよくある。だれもが、前方に氷山があるこ とは知っている。まさかこの不沈艦は沈むことはない、科学技術をもってすれば容易に回避できる、
と氷山の存在をことさら無視しているのではないだろうか。すでに、船の周囲には氷山の破片が漂い
はじめている事実は、本書中で報告したとおりである。時間はあまり残されていない。
332
二〇〇六年の﹁手帳大賞﹂︵高橋書店主催︶の名言・格言の部で大賞を受賞したのは、神尾知子さ んの作である。﹁おれが地球ならお前はいらんわ﹂。
愛媛大学沿岸環境科学研究センター教授の田辺信介さん、京都大学名誉教授の辻井博さんには、多 くの示唆をいただいた。また、写真を提供くださった相澤和彦さん、アフリカ在住のカメラマン中野
智明さん、元J ICA専門家︵環境保全アドバイザー︶の鈴木孜さんにもお礼を申し上げたい。新聞
紙上で一年間にわたって環境問題について対談した山田養蜂社長の山田英生さんからも、多くのアイ
ディアをいただいたことを付け加えたい。最後になったが、企画段階から出版までお世話くださった
石
弘 之
有斐閣の伊東晋さん︵現有斐閣アカデミア︶と藤田裕子さんに心から感謝したい。なお、撮影者・提 供者名のない写真は筆者の撮影による。 二〇〇八年一月
333 お わ り に
マトグロッソ州 178
ヤンバルクイナ 265
マールブルク出血熱 238
輸入サル 237
マングース 287
養 殖 88
マングローブ林 43, 268
揚水規制 131
水が原因で死亡する人 124
嫁不足 6
水資源消費量 128
ヨルダン川の水 141
水資源量(一人あたり) 153
ヨーロッパの移民 15
水の汚染 131, 152 水の輸入国 138
ら 行
水は力なり 144
ラオス 173
水(資源の)不足 124, 127, 136
ラ・オロヤ鉱山 322
水不足国 153
ラッコ 265
水紛争 140, 142
ラニーニャ現象 50, 51
緑の革命 134
ラニペット 321
緑のサハラ 204
乱 獲 62, 66, 68, 75, 79
水俣病 316
リフトバレー熱 226
ミヤコタナゴ 265
リュウキュウアユ 265
ミャンマー 172
林業の技術革新 160
ミレニアム開発目標(MDGs) 97,
臨汾(リンフェン) 321
129, 207 ミレニアム生態系アセスメント 58, 206
リンブナンヒジャウ社 174 類人猿 259 ルドナヤプリースタニ 319
ムダの多い漁業 86
ルワンダ内戦 209, 260
メガシティ 55
レイテ島土砂災害 49
メダカ 265
冷凍技術 69, 71
メタボリック・シンドローム 104
レッドデータブック 257, 263
木材のむだ 184
労働市場の二重構造 16
木炭の輸出禁止 168
労働力人口 29
モンゴル 197
ローテーション方式 15 ロンドンの同時多発テロ 20
や 行 ヤギの急増 198, 200
わ 行
野生生物の絶滅 256
ワクチン 220
野生動物 62
ワシントン条約(CITES) 75, 85,
野生肉 239
87
野鳥の異変 274
渡り鳥の数 270
山火事 161
割りばし 167
8
農薬による海洋汚染 323
貧困が呼び込む災害 51
ノグチゲラ 265
貧困層 ⅳ
ノリリスク 320
貧富の差 96 フカヒレ 77
は 行
フタル酸エステル 298, 299
バイオエタノール 109
フード・マイレージ 105
バイオディーゼル燃料 109, 114
不法移民の規制強化 24
廃材のリサイクル 185
不法移民の合法化 26
ハイナ 322
ブラジルの大豆生産 178
白豪主義の放棄 23
ブラックバス 287
伐採速度 160
フラビウイルス 253
発展途上地域
フランスの移民 18
─の過密化 10
プロジェクト・タイガー 263
─の高齢化 8
紛争資源 175
─の人口急増 9
米国環境保護局(EPA) 312
─の農村 14
ペットフード 106, 248
ハッパ漁 85
ベトナム 172
母親の栄養不足 95
ベーリング公海 65
パプアニューギニア 174
ペンギン 263
バラスト水 290
偏在する水資源 126
ハリケーン 44
放棄地 207
─(アイバン) 56
防災施設や防災計画 60
─(カトリーナ) 41, 44
防災対策 56
─(ミッチ) 53
放射能汚染 318
バルハシュ湖 152
飽食の国々 102
ハワイ諸島 283
ホオジロザメの絶滅 77
ハンガーマップ 92
北海・バルト海 324
被害規模の急拡大 34
母 乳 300, 305
非再生資源 ⅱ
ボノボ 241
ヒスパニック 23
ボリビア出血熱 225
砒素(中毒) 134, 321
本国への送金 17
ヒト免疫不全ウイルス →エイズ
ホンジュラス 53
ひとりっ子政策 5 非ホジキンリンパ腫(NHL) 308, 312
ま 行 マグロ(資源) 70
肥満(者) 92, 102
─の枯渇 74
病原性の細菌・菌類・ウイルス
マグロ漁獲量 71
212 病原体 218
マグロ漁の衰退 74 マダラヒタキ 271 索 引 7
淡 水 124, 125
毒薬漁業 85
─資源 131
都市人口の急膨張 11
─の利用率 153
土壌悪化の原因 204
断 流 136
土壌浸食 99, 101, 102
チェルノブイリ 318
鳥インフルエンザ(H5N1) 233,
地下水枯渇 131, 133 地下水利用 132
236, 237 トロール漁 86
地球汚染物質 303 地球温暖化 41, 56, 59, 101, 195, 250
な 行
─と植物 274
ナイジェリアの砂漠化 209
─と野鳥 271
ナイル川 146
地球物理学的災害 35
ナイロビ市キベラ地区 12
畜産革命 234
流し網漁業 86
畜 養 74
ナショナリズム 23
チグリス・ユーフラテス川 144
夏 鳥 266
地表の人工化 ⅵ, 58
難燃剤 303
中越地震 47
南米の先住民 180
中 国 106
難 民 17
─の大豆輸入 180
新潟水俣病 317
─の水不足 136
肉食嗜好 229
─の木材輸入 169, 170
ニゴロブナ 265
中東の紛争 141
西ナイル熱 213, 252
チンパンジー 240
ニパウイルス感染症 227
『沈黙の春』 266
日 本
ツシマヤマネコ 265
─が輸出した外来生物 289
ツボカビ症 280
─と違法伐採 174
デッドゾーン 324
─の外国人労働者 30
伝染病 218
─の外来種 285
天然資源の争奪戦 ⅱ
─の人口構造の推移 30
天然資源の定義 127
─のマグロ消費量 72
天然痘 219
─のレッドデータブック 263
天然林の消失 163
─の労働力不足 29
動植物の大量絶滅 256
─の老年人口 8
東南アジアの食料不足 96
人間開発低位国 52
糖尿病 104
ネコ科の動物 261
トウモロコシ 111
燃 料 115
─価格 116
燃料材 166
特定外来生物被害防止法(外来生物法)
農地の確保 108
289
6
農地の増加 ⅲ
─の将来予測 27
世界人口時計 9
人口移動 2, 14
世界森林資源評価 162
人口格差の拡大 9
世界の魚介類の輸入額 82
人口減少国 28
世界の漁獲量 80
人口増加率の低下 3
世界の肥満度ランキング 102, 103
人口増大の恐怖 4
世界渡り鳥の日 270
人口バランスの急変 2
石油による海洋汚染 323
人口密度 10
絶 滅 258
人災としての自然災害 41
絶滅危機種 257
人種や宗教による差別 18
絶滅危惧(種) 85, 257, 265
新生児汚染 300
絶滅種 265
人体に蓄積している汚染物質 299
絶滅寸前の淡水魚 153
森林(資源) 161
先進地域の過疎化 10
─の減少 162
先進地域の渇水 154
─の枯渇 158
先天異常 309
森林火災 161
ソデグロヅル 273
森林稀少国 164 森林消失 50, 99
た 行
森林消失率 171
ダイオキシン 309
森林破壊 195, 267
大洪水
森林伐採の加速化 159
─(インドネシア) 171
森林保全戦略 175
─(バングラデシュ) 149
森林面積(一人あたり) 164
大豆栽培 177
水源林の乱伐 136
大西洋マグロ類保存国際委員会
スケトウダラ 63
(ICCAT) 75
スシブーム 73
大都市の脆弱性 54
スラム 13, 50, 52, 53
ダイヤモンド 176
スラム化率 12
大陸別エイズ感染者数 244
スラム人口の増加 11
武田信玄 58
すり身 63
多産多死から多産少死へ 4
生産年齢人口 29
多発性骨髄腫 308, 311, 312
製紙工場 183
多文化主義 23
生態系の攪乱(破壊) ⅳ, 223
ダム病 227
『成長の限界』 ⅱ
タラ資源の枯渇 69
生物学的災害 35
タラ戦争 69
生物多様性 153, 257
タラ・ベルト 67
世界災害報告 34
タラ漁の盛衰 63
世界自然保護連合(IUCN) 78
ダルネゴルスク 319
世界人口会議 5
男女の産み分け 6 索 引 5
固有生物種の絶滅 282
─の発生件数 36
ゴリラ 240, 259
自然大改造計画(ソ連) 150
コロナウイルス 221, 247
自然の報復 54 湿原の埋め立て 46
さ 行
質的飢餓状態 93
サ イ 260
死の海域 323
災害対策基本法 36
地盤沈下 47, 54
災害との共存 57
ジブラルタル海峡 25
災害の定義 35
自閉症 311, 313
災害被害者 56
死亡率の低下 4
再生可能資源 ⅱ, 62
シマフクロウ 265
サケの養殖 88
シャーチェンバオ(沙塵暴) 191
砂塵の役割 211
ジャワサイ 261
沙塵暴 →シャーチェンバオ
重金属汚染 323
雑 草 285
重症急性呼吸器症候群 → SARS
砂漠化 188, 193, 202, 203
臭素系難燃剤 303
─の原因 194, 208
寿命の延び 7
─の定義 205
少子化 6
砂漠化危険地域 206
小児ガン 308, 312
砂漠化対処条約 205
消費の抑制 184
砂漠化面積 208
食品の価格 116
サハラ砂漠以南(サヘル地方)
食品ロス率 105, 106
166, 201, 202
食 糧 115
サ メ 76
食糧危機 117, 119
─の乱獲 77
─のシナリオ 107
─漁の禁止 78
─の定義 93
酸欠海域 324
食糧高騰 119
サンゴの大量死 214
食料(食糧)自給率 106, 119
残留性有機汚染物質(POPs) 308,
食料需給の逼迫 92
313
食糧生産 ⅳ, 129
シエラレオネの内戦 176
─の崩壊 ⅱ
ジェルジンスク 319
食糧の奪い合い 118
ジオハザード・インターナショナル
食糧備蓄量 106
(GHI) 55
植 林 185
シスタン盆地 209
除草剤 309
自然界の物質循環 ⅲ
シリコンバレー 327
自然災害 34, 36
人為災害 34
─の急拡大 34
新漁法 79
─の経済的損失 38
人 口 2
4
環境ホルモン 297
日本の─ 29
ガンジス川 149
黄 砂 189
感染症による死亡者 219
─観測日数 190
感染爆発 219
─の気候に与えた影響 212
干ばつ 128, 201
─の発生源 192
カンボジア 172
中国の─被害 191
飢 餓 92
洪水と干ばつ 124
─の定義 93
降水量 125
─ワースト 10 ヵ国 96
世界の─ 138
危急種 257
高層住宅 55
飢 饉 92
耕地面積 98, 99
─の定義 93
後天性免疫不全症候群 →エイズ
気候変動に関する政府間パネル →
高密度飼育 229
IPCC
高齢者の災害被害 47
気象学的災害 35
高齢人口の急増 7
気象災害分布図 59
枯 渇 152
北朝鮮 97
国際河川 140
キャサヌール森林熱 225
国際漁業管理機関 75
急性リンパ性白血病 313
国際災害データベース(EM DAT)
教育に必要な紙 182
35, 39, 51, 57
共和国モデルの崩壊 20
国際砂漠化会議 202
漁獲可能量(TAC) 70
国際紛争と災害 49
漁 業 62
国際貿易商品としての水産物 84
漁業(漁類)資源の危機 62, 79
国際防災戦略(ISDR) 35
漁業生産量 82
国内紛争 175
魚肉の需要 63, 82
穀物価格 118
漁法の規制 86
─の上昇 108
漁民の急増 83
穀物自給率 118
ギリシャと移民 15
穀物生産の限界 98
近絶滅種 257
国連国際防災戦略 39
グアテマラ大地震 53
国連食糧農業機関 → FAO
クロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)
国連人口基金(UNFPA) 55
230
国連人間居住計画 11
ゲットー 16, 17
国連防災世界会議 54
ゲンゴロウブナ 265
古紙リサイクル 185
黄河下流域 136
子どものガン 308
後期高齢世帯 8
子どもの死亡率 94
工業用水 131
ゴビ砂漠 197
合計特殊出生率 2, 3, 5, 6
ごみ発電 120 索 引 3
─受け入れ国 14
塩類集積(塩害) 130
─・外国人に対する社会的統合
オガサワラオオコウモリ 265
17 ─の送り出し国 14 ─の差別 21 ─の同化主義 19
オガララ帯水層 132 オーストラリアのレバノン系の住民 22 汚染物質 296
─の暴動 18 英国の─ 20
か 行
移民国家の─問題 22
海岸地帯 →沿岸部
移民人口 14
外国人労働者 15
移民排斥 18
介護能力 8
イリオモテヤマネコ 265
海水温の上昇 42, 274
インダス川 148
開発原病 227
インド 106
海面上昇 274
インドネシア産木材 170
海洋汚染 323
インド・パキスタン大地震 48
海洋の環境 ⅲ, 89
インド洋大津波 42
海洋の生態系 89
印パ戦争 49
外来種 88, 265, 281
インフルエンザ 233
外来生物の被害 286
ウイルス 213, 219
化学肥料 ⅲ
ウイルス性出血熱 223
化学物質 296, 326
魚の消費量 82
─と病気との因果関係 308
牛海綿状脳症 → BSE
─の地球汚染 313
ウナギ 87
ガザ地区 143
ウミガラス 273
カシミヤ山羊 197
海の食物連鎖 272
カシミール 149
エイズ(AIDS /後天性免疫不全症候
過剰揚水 133
群/ヒト免疫不全ウイルス)
仮想水(間接水) 138
220, 241
過疎過密化 9
栄養不足人口 93
家庭の介護力 8
栄養不足の定義 93
カテガット海峡 324
エタノール生産 110
加藤清正 57
越冬地の消失 267
カネミ油症事件 317
エビの養殖 44, 88
カブウェ 322
エマージングウイルス 221, 222
紙の消費 181
エマージング(新興)感染症 221
ガラパゴス諸島 283
エルニーニョ現象 51
ガラパゴスペンギン 274
沿岸部 89
灌漑用水 129
─の人口密度 40
環境難民 154
2
索 引 PFOS 316 数字・アルファベット
POPs →残留性有機汚染物質 SARS(重症急性呼吸器症候群)
2 ・ 4 ・ 5T 309
221, 243, 250
2 ・ 4D 309
─ウイルス 247
4WD のオフロード・カー 214
─発症件数 249
AIDS →エイズ
中国政府による─発生隠蔽
BMI(肥満指数) 102, 104
247
BSE(牛海綿状脳症) 179, 229
TAC →漁獲可能量
─の発生状況 231
TBT 297
CITES →ワシントン条約
UNFPA →国連人口基金
CJD →クロイツフェルト・ヤコブ病
VOC 298, 299
DDT 297 EM DAT →国際災害データベース
50 音
EPA →米国環境保護局 FAO(国連食糧農業機関) 48 GHI →ジオハザード・インターナ ショナル
あ 行 赤 潮 213 アスワン・ハイ・ダム 146
GM 大豆 →遺伝子組み換え大豆
アタチュルク・ダム 145
H1N1(スペインかぜ) 233
アフリカからの木材輸入 175
H2N2(アジアかぜ) 233
アマゾン熱帯林破壊面積 177
H3N2(香港かぜ) 233
アムールヒョウ 263
H5N1 →鳥インフルエンザ
アライグマ 287
HIV 陽性者数 243
アラル海 150
ICCAT →大西洋マグロ類保存国際委 員会 IPCC(気候変動に関する政府間パネ ル) 250
─の縮小 151 アルゼンチン出血熱 224 イカナゴの激減 272 異常気象 35
ISDR →国際防災戦略
イスラエル 141
IUCN →世界自然保護連合
イスラム系の移民(人口) 18, 20
MDGs →ミレニアム開発目標
─の比率 22
NHL →非ホジキンリンパ腫
遺伝子組み換え(GM)大豆 179
PBDE 297, 303
違法漁業 84
PCB 297
違法伐採 50, 170
PCDD 297
違法木材取引の流れ 173
PFA 297
移 民 2 1
著者紹介
石 弘 之 (いし
ひろゆき)
現在,北海道大学大学院公共政策学特任教授 1940 年生まれ。東京大学教養学部卒業後,朝日新聞社編集委員を 経て,1996 年東京大学大学院総合文化研究科教授,1999 年同大学 大学院新領域創成科学研究科環境学専攻教授,2002 年駐ザンビア 特命全権大使等を歴任。2005 年より現職。 主要著作
『地球環境報告』岩波新書,1988 年。 『酸性雨』岩波新書,1992 年。 『インディオ居留地』朝日新聞社,1994 年。 『地球環境報告Ⅱ』岩波新書,1998 年。 『環境学の技法』(編著)東京大学出版会,2002 年。 『世界の森林破壊を追う』朝日新聞社,2003 年。 『子どもたちのアフリカ』岩波書店,2005 年。 『私の地球遍歴』洋泉社,2008 年。 『地球・環境・人間 2』岩波書店,2008 年。ほか
地球環境 「危機」 報告─ いまここまできた崩壊の現実 Global Environmental“Crisis”Report : How far are we on the path to destruction? 2008 年 3 月 20 日 初版第 1 刷発行
著 者 石 弘 之 発 行 者 江 草 貞 治 東京都千代田区神田神保町 2-17
発 行 所 ㍿ 有
斐 閣
電話(03)3264-1315〔編集〕 3265-6811〔営業〕 郵便番号 101-0051 http://www.yuhikaku.co.jp/ 印刷 萩原印刷株式会社 製本 大口製本印刷株式会社
©2008, ISHI Hiroyuki. Printed in Japan 落丁・乱丁本はお取替えいたします。
★定価はカバーに表示してあります。
ISBN 978-4-641-17342-2